正声・十四拍──伯牙弔子期(上)
不思議な事ばかりが起きた。
土佐に遠流の前内大臣四辻殿は、その途中、崖から身投げして自害したという。
佐渡に向かった兄の風香前中納言殿は、まだ配流されずに都にいた頃から、体調が思わしくなかった。そして、佐渡に向けて出発すると、いよいよ体調不良となり、日に日に悪くなっていった。
四辻殿の嫡男は能登に流されることになっていて、途中まで伯父の風香殿と一緒だった。彼は若く、今まで病気をしたこともない健康な人であったが、途中で急に具合が悪くなり、そのまま危篤に陥ってしまった。
それから三日と経たぬうちに、二十六歳という若さで急死した。
風香殿の方は、弱りながらも辛うじて佐渡まで辿り着くことができた。しかし、病身には海を越えるのは堪える。一日一日と弱ってゆき、配所に着いて十日後、とうとう永眠してしまったという。
その子息の三位殿と忠兼朝臣は夜盗に斬られて死んでしまったし、流罪は免れた四辻殿の六歳の末子も、都の寺院に入っていたが、乱心した僧兵に斬られて殺されてしまった。その僧兵はその場で捕らえられ、処刑されたが、まったくもってひどい有り様である。
四辻殿の一族が次々と悲惨な目に遭ってゆくので、次は自分の番かと思い込んだ四辻殿の娘婿・前大理卿は気が触れて、暴れまわっているという。こんなに動き過ぎては体に毒と、皆案じて、縄で手足を縛って柱にくくりつけておいているらしいが、それとて振りほどいて荒れ回り、きっとこのままでは狂い死にするだろうと言われていた。
これらは全て偶然の産物であるのか。
偶然にしては、あまりに話が出来過ぎているので、全て烏丸左大臣の仕業なのではあるまいかと噂されていた。
左大臣は四辻殿一族を根絶やしにしたいのだ。
だから、全員死罪に処すべしと声高に叫んでいた。だが、結局その意見は入れられず、ほんの一部の人間が流罪になったに過ぎない。
それで、不満の残った左大臣が、密かに手を回して、これらの人々を殺してしまったのだ。ある所へは刺客を遣わし、ある人へは毒を盛り、一人残らず一族を殺す。
──誰もがそう思っている。
実際、左大臣は「四辻狩り」と称して、四辻殿の一族の者を見つけ出しては、処分しようと画策していたのである。
「日雲は一族を裏切った密告者だ。国家のためだと正義ぶったところで、所詮は心汚い裏切り者。あのような奴が生きていては安心して眠れぬ。斬れ」
そう言って左大臣は刺客を遣り、密かに日雲僧都を殺した。
又、四辻殿の子息の中納言が、大内の治部卿局と通じて、密かに二人の間に男子が生まれていたことを突き止めると、その赤子を見つけ出して秘密裏に殺してしまった。
「他には誰がいる?」
左大臣の四辻狩りが続いていた。
今上は知っていたが、そのことに一切口出ししなかった。左大臣の恐ろしさを直に感じて、何も言えなくなってしまったのだろう。何か苦言すれば、次は今上自身が狙われるかもしれない。
今上は寧ろ積極的に、
「六の宮を興福寺に入れる」
と言った。
新院が反対するのは確実だろうと思われた。けれど、呪詛事件以来、すっかり気力は萎え、弱々しくなった。頼みの近臣どもも皆解官されて、側に侍ることも叶わないので、進言する者もない。
最愛の六の宮が、今上の命で出家させられるとわかっても、口出ししなかった。愛しい女御寛子の顔を見ても、ちっとも嬉しくない。
それで、新院最愛の六の宮は興福寺に入れられることが決定した。
だが、こんな理不尽なことに、誰もが黙って従っているわけでもなかった。
今上の弟宮で、宣旨のみ局の腹の三の宮は、堂々と苦言を述べた。
三の宮は早くに寺に入れられて、今は比叡山にいる。御母の宣旨は、もとは宮の──皇太后宮の女房で、宮のもとを訪ねた新院の目に留まり、寵愛を得るようになった。若くして急死したが、当時から毒殺だという噂があった。烏丸左大臣と、その姉の皇太后宮が共謀して毒を盛ったのだと。
三の宮はそれをずっと信じていた。だから、左大臣を親の敵と思っているし、皇太后宮の事も、その御腹である兄宮の今上のことも、憎んで育っていた。
「主上は何故、左大臣の横暴を許しておわすのか。内大臣の一族が次々と不自然に死んでいるのを、何故調べようとなさらない?これは左大臣の仕業に違いない。何故、左大臣の罪を糺さないのです」
山から使いを遣わしたのだったが、それに対する今上の返事はとんでもないものだった。
「左大臣がやったという証拠がない。証拠がないのに、どうして左大臣の罪だなどと決めつけられるのか」
今上の言葉であった。
さらに、今上の意志か左大臣の独断かは知らねども、とんでもないものが山門に送りつけられてきた。
呪詛事件に連座した疑いをかけられていた僧聖海は、昨年十二月から三の宮の坊官であったが、都に召し出されて投獄されていた。それを、突然引っ張り出され、首斬って捨てられてしまったのである。
その首が山門に届けられたのだ。
さすがの三の宮も、これには呆気にとられ、怒るどころか恐れも忘れてしまった。何か少しでも左大臣の気に入らないことがあれば、人の命など容易く奪われてしまうのだ。
そういう世の中になったのだ。
三の宮はもう何も言わなくなった。
烏丸左大臣の暴走を止める者は一人もなかった。
「法真がまだ生きておったな。あれをどうにかせねば。あと、周忠の奴めには、孫がおった筈だ」
三位殿を安房に送りし領送使の一行の侍どもには、善人が多かった。
その中の一人、長国。
この人、大力に似ず心優しき人で、三位殿に同情的であった。
三位殿が旅の中でもいつも威神の琴を胸に抱いて、大切にしているのを見て、ゆかしく思ったものだ。三位殿もこの長国の澄んだ心に感じ入り、次第に心を許すようになっていたのだった。
ある時、長国は、三位殿が愛用の秋声という琴と威神とを、ある名手と交換したのだということを知った。
長国はその人は三位殿と同門なのではないかと思った。とすると呉楚派だが、名手といえば、今は一人しかいない。
かの清花の姫君──その人ではないのか、そう思ったのである。
三位殿は旅の中で、いつも熱心に書き物をしていたが、それは『止息灌頂次第』と題されるものであった。
帰京した長国は、三位殿の絶筆となった『止息灌頂次第』と威神とを持って、ある日、そっと六条西洞院の新内大臣第を訪ねていた。
その時、主の六条内大臣殿は不在だったが、たまたま嫡子の宰相中将殿がいた。
対面し、
「この琴に、お心当たりはないものでしょうか」
と長国は包みを解いて、中の物を見せる。
問われた中将殿は、目の前に置かれた威神を見ると、途端に涙の玉をぽろぽろと落として、
「いかにも、これは我が妹の品」
と答え、その断紋を撫でた。
涙はとめどなく溢れ、次々と頬を伝い、床に落ちる。
中将殿はそれを拭うことさえ忘れながら、
「ああ、こうして三位殿の形見として再び我が家に戻ってこようとは──」
と、改めて三位殿の死を嘆くのだった。
長国は自分の予想が中ったことにほっとしたものの、三位殿とこの人の妹君とが、互いの愛用の琴を交換し合って別離を惜しんだという事実に、驚きを覚えずにはいられない。二人はどういう関係だったのかと、興味すら覚えたが、こんなに悲しむ中将殿にはとても聞けない。それに立ち入ったことだと、己の好奇心を律した。
「……よく届けて下さった。感謝の言葉もない」
ようやく、宰相中将殿は礼の言葉を述べることができた。
「いえ。とんでもないことでございます。如何なるご事情があったのかは存じませねど、それがしが預かっていても仕方のないもの。もしやこちらの姫君の御物であるのかもしれぬと思い、それならば、もとの主の御もとへお届けせねばと考えまして」
「誠に有り難いことです。思えば御身は、安房まで三位殿にご同行なさった御仁」
「ですが、安房まで無事にお送りすることが叶いませんでした。途中で夜盗に斬られて果ててしまわれた。我等の落ち度です」
「いや、質の悪い夜盗ども。御身達にまで危害が加えられなかったことは、幸いなことです。……御身は三位殿の御最期を知る人。一体どのような最期を遂げられたのか、御身の知る限りを全て、詳しく聞かせ給わらぬか」
中将殿は泣きながらもそう言った。
人伝いには、三位殿がどのように果てたのかは聞いているけれど、その最期を見届けた者から直接、もっと詳しい話が聞きたいと思う。
こんなに悲しんでいる中将殿に、三位殿の最期の様子を話しても大丈夫だろうかと案じられたが、長国は求められるままに、彼の知る限りを語った。
三位殿はいつも静かで美しかった事。兄の忠兼朝臣とは、慰め合い、労り合っていた事。休む前には必ず筆をとって、件の『止息灌頂次第』を書いていた事。旅の途中の馬の背では、壊さないようにと威神の琴を懐に大事に抱いていた事。宿に泊まった時には、よく威神で美しい曲を奏で、供の人々に涙を催させていた事など──。
ある夜、三位殿は長く狂ったような大曲を弾いていたが、曲が終わって間もなく、物音がしたので、長国が様子を見に行ってみると、三位殿が既に亡くなっていたこと。傍らには文机があり、その上には威神、少し離れた床には『止息灌頂次第』が置いてあったこと。
「三位殿は襲われたとは思えないほど、とても美しいお顔をしておわしました。まるでみ仏のようなお美しさでした。今生の名残にと弾いておわしたのは『広陵止息』と申す曲でございましたそうな」
「なんと、『広陵止息』ですと!?」
『広陵止息』と聞いて、何故か激しく驚き、動揺した中将殿。
頗る意外な反応である。中将殿の狼狽ぶりが、長国には理解できなかった。
ともあれ、長国の訪問は、宰相中将殿にとってとてつもなく嬉しいことだったに違いない。
恐縮する程感謝され、恐ろしさで手が震えてしまう程、高価で貴重な品々を山のように贈られたのであった。
この六条新内大臣家には、讃岐という女房が仕えていたが、この女房、件の呪詛事件発覚直後、里下がりを申し出て退出していた。それきり戻ってこない。しかも、暫くは京の家にいたらしいのに、今は生国の讃岐の国に戻っているのだ。
それというのも。比叡山の三昧坊聖海のことが原因だった。
聖海は陸奥守の子。財力もあり、永堯の弟子となって、僧としても有能であったから、将来有望だった。
たまたま前大理卿の北ノ方、すなわち亡き四辻前内大臣の中の君のお産の時、師の永堯が祈祷の役を頼まれ、それに同行したため、その場に居合わせたのであった。
中の君は死産であったが、とりあえずお産は終了したので、礼を施されて、聖海は師とともに帰山していた。
山に戻ると聖海は、間もなく一身阿闍梨の三の宮(今上の弟宮)の房官に任じられた。で、妻帯者でもないし、歯黒めてもいないが、暫くは房官としての勤めを果たしていたのだった。
その後、すぐに呪詛事件が発覚。聖海にも、永堯とともに呪詛の嫌疑がかけられた。
「何かの間違いだ!」
三の宮のその必死の庇い立ても虚しく、聖海は検非違使に引っ張り出されて、都に連行された。
それから暫く経って、沙汰が言い渡された。
それは、永堯は流罪、聖海は蟄居というものだった。山門に帰ることは許されなかった。
暫く都で過ごしていたある時のこと。
山門の三の宮が、帝と烏丸左大臣に異議を唱えたことがあった。四辻殿の血縁を暗殺しているのは烏丸左大臣であろうと指摘し、その酷さを抗議したのだ。
すると、難をつけられたのが余程気に入らなかったらしい。烏丸左大臣の悪行か、それとも帝の御意かは分からねど、突然聖海を引っ張り出して、その首を刎ねてしまったのである。
「これが答えだ」
と、その首を山門に送りつけた。
三の宮の意見に対する回答として、こんな残忍な行為に至るとは。さすがの三の宮も恐れをなして、二度と何も言わなくなってしまった。
だが、そんなことのために首を斬られた聖海はどうする。あんまりではないか。
三の宮はその首を供養して荼毘にふし、都の姉のもとに送り届けたのであった。
その姉というのが讃岐であった。
聖海は陸奥守の子なれども、養子であり、生みの親は別にいる。それが讃岐の父であり、母であった。聖海は讃岐の実の弟なのである。
養子に出したとはいえ弟には違いない聖海が、呪詛に関わっているというので、
「主家に災いが及んでは……」
と、讃岐は里下がりを申し出ていたのであった。
そして、伯母の五条の刀自の家に閉じこもっていた。
ところが、そうしているうちに聖海は斬首されてしまった。三の宮から送られてきた弟の首を見て、讃岐がどれほど悔しく、悲しく、天を仰いで慟哭したことか。
「覚えておれ。この恨み。主家に戻り、雅の中にあろうとも、決して忘れはせぬ。もし忘れそうになったら、臥薪嘗胆、無理にでも思い出してくれる」
そして、弟の首を故郷に埋めてやろうと思い、都を出て讃岐の国までまかり、久々に父と対面して、また悔し涙を新たにしたのであった。
今もまだ、彼女は讃岐の国にあって、戻らないらしい。
だから、こんな時に讃岐がいてくれたら、どんなにか慰められるだろうにと、清花の姫君は思うのだった。




