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正声・十三拍──広陵散(伍)

 宿では風呂が焚かれていた。


 風呂を許される。


 蒸した熱い風呂。


 単衣(ひとえ)だけ羽織って、風呂の中に坐していると、護摩の煙に意識も仏の彼方に到達する真言僧達の境地がわかる。仄暗い風呂の中の彼方に大日如来を見た気がした。


 疲れているのか。何だかほわほわする。


 解脱するという事は、こんな感じなのだろうか。宇宙と一つになるとは──。この開放感。即身成仏というのは、こんな感覚か。


 薄れゆく現の中で、そう思った。


 そういえば、かつて近衛少監広仲が『大楽論』なるものを書きかけて逝ったが、琴を弾いて、今のような気分に至ることが、「大楽の(たいらくのがく)」なのだろう。


 三位殿には幾度か経験がある。


 人知を越えた霊感と波長の合致した瞬間に、生まれる極地だ。大勢を前にして演奏し、精神が極限に達した時、よく体感した気がする。人前で演奏することというのは、人間の自然な生き方からすれば、やはり異常な行為であるのだ。


 意識がさらに宇宙の果てまで遠退きはじめた。余程熱い風呂なのか、余程の疲れなのか。


 ほつれた髪を撫でつけて、風呂を出、水を浴びる。


 ようやく現に戻った。


 風呂の後は夕食となり、酒まで出てきた。


 その後、三位殿は八つ藤丸の指貫(さしぬき)に、母手製の新調の直衣に着替える。表は白地に銀の千鳥模様、裏は紫。春らしい装いの中にも、雪の中に降り立つ鶴のような、気高さと匂いがあった。三位殿の高貴な美しさを引き立てる衣装である。


 夜の灯陰に、衣の裏の紫が微妙にうつって、表の白を微かに色づかせている。


 二藍(ふたあい)をとても薄くしたような──。かと思えば、赤い灯の光で淡紅梅(うすこうばい)のようにも見える。そうかと思えば、三位殿がやや動くと、そこに陰ができ、やはり真っ白なようにも見え──昼の日の光の加減では、また別な色彩を見せるのであろう。


 三位殿の今の姿は、都にあった頃と変わらぬ。この宿がこのように鄙びた造りでなければ、都の三位殿の居間かと思えるほどだ。


 雅びた姿。


 彼はその姿で、さっきから文机に向かっていた。


 書き物をしているのである。


 文机はこの一室にあった古い汚れたものだが、筆も硯も三位殿が都から持ってきたものだった。


 彼の書く草紙は『止息灌頂次第』と題されている。もう終わりの頃に近い。


 「止息(しそく)」とは、琴の秘曲『広陵止息(広陵散)』のことである。


 琴はこの曲の伝授をもって灌頂とする。


 この曲伝授の式の次第を記した物であるから、『止息灌頂次第』というのである。


 この中で三位殿は、『広陵止息』伝授の次第以外のことも書いている。


 例えば、琴曲の位である。位の重い曲から軽いものまでを、順に書き記したのだ。初心者は軽いものしか学べない。次第に位の重い、難易度の高い曲を許されるようになり、最後が『広陵止息』である。三位殿が書いたものを見れば、どの順に学べばよいのか、一目瞭然だ。


 これらのことを記した後で、『広陵止息』という曲そのものについて書いている。


 今、この曲の調絃についてまで、記したところだ。


 この曲が慢商調であること。


 琴の絃は、第一絃を宮絃、第二絃を商絃、三絃を角絃、徴絃、羽絃、文絃、武絃と称する。


 慢商調というのは、商絃を(ゆる)めて宮絃と同音にする調である。


 唐土では五行が重んじられているが、音楽に於いても五行は当てはめられている。宮は君、商は臣、角は民……というように。


 すなわち、五行に於いては、君である宮と、臣である商を同列には置かない。


 ところが、慢商調は宮絃と商絃を同音にしてしまうのである。これはつまり、臣下が君主と同じ立場になる──反逆を意味する。


 慢商調は謀叛の調なのだ。


 この禁断の調は『広陵止息』でしか用いない。言い換えれば、『広陵止息』は慢商調唯一の曲である。


 演奏は憚られる。よって秘曲なのである。


 ここまで書いて、三位殿はふと琵琶の最秘曲『啄木』のことを思った。それで、補足としてそれも書くことにした。


 琵琶の場合は三つの秘曲──『石上流泉』、『上原石上流泉』、『太常博士楊真操』──の後、最秘曲『啄木』を伝授されることで灌頂となる。


 秘曲のうち、『太常博士楊真操』は風香調(笛の黄鐘調、水調に同じ)だが、『石上流泉』と『上原石上流泉』は、返風香調(笛の双調に同じ)で、『石上流泉』は第一、第二絃をよく用い、『上原石上流泉』は、第三、第四絃をよく用いる。この二曲はまとめて「両流泉」とも呼ばれる。


 最秘曲の『啄木』は、この曲にしか用いない調でできている。啄木調という調だ。


 啄木調は返風香調より生じる。


 返風香調は第一絃を双調(そうじょう)、第二絃は黄鐘(おうしき)、第三絃は壱越(いちこつ)、第四絃は双調である。


 この返風香調の第二絃(黄鐘)を緩め、二律下げて双調にする──つまり、第一絃と第二絃を同音にするのが、『啄木』専用の調・啄木調なのである。


 三位殿はこの注記の後に、『広陵止息』に纏わる反逆者・聶政の復讐の伝説を書くつもりで、ふと筆を置いた。


 夜風が草紙に吹いて、手元の灯火がかき消えそうになったからだ。


 外を見てみる。


 食事の後、兄の忠兼は何処に連れて行かれたのか、全く姿が見えない。


 簀子に出てみた。


 灯火の光は庭の隅にまで届いていた。仰ぎ見れば、降るほどな星の数。輝き光る星のまたたきに、


「人の命も、あのように輝いている。無数の人の命の輝き。けれど、何と頼りない光だろう」


と、三位殿は呟いた。


 そして、ここの一室に戻って、中の文机の上の草紙や硯などを下に置く。何もなくなった文机を持って、再び簀子に現れた。


 威神の琴を文机に置くと、その前に正座する。


 絃をつま弾き調べる。正調になっていた。若干狂っている状態で。それを緩め、巻いて、直す。


 さらに、商絃を緩めて二律ばかり下げる。宮絃と同じ黄鍾(こうしょう)の音(唐古律の黄鍾。本朝の神仙に同じ)にする。


 正調の商絃をゆるめて生じる調であるから、慢商調。君主である宮絃と臣下である商絃を同列に置く反逆の調。


 慢商調に調べ終えると、そっと両手を琴の上に置いた。そのまま目を閉じる。


 春風が、花の香りとともに三位殿に優しく触れる。


 名門の子として生まれて両親に大切に育てられ、政任に出会って琴道一筋に生きてきた。


 政任の、ひたすら厳しい稽古。父から与えられる漢籍の数々。琵琶を愛する母の笑顔。兄・忠兼との越えられない壁。洛神図の美。それを凌ぐ人との出会い。その琴の神業。忘れもしない──


 ある日突然降ってわいた呪詛事件。主上と東宮を呪詛し、六の宮即位を企んだとして、謀叛の罪に問われた。


 何故。


 自分は今、こんな所でこんなことをしなければならないのか。


 身に携えているのは、この威神だけ。


「──私は……」


 眉間に皺を寄せて、目をさらにぎゅっと強く瞑った。


 その時、庭の端に落ちている朽ちた木の皮が、かさっと微かに音を立てた。風に吹かれて鳴ったのではあるまい。


 三位殿は目を開けて、そこを見た。


 三人の六つの眼が、こちらを見つめている。


 ここまでの道中を共にしてきた役人どもの中には見当たらない面々だ。何れも目にするのは初めてか……?


 気づかれて、三人は揃って身構えた。


 夜盗(やとう)のようななりをしている。けれど、この身のこなしは、無闇に武器を振り回しているばかりの盗賊とは違う。武人ならではの張り詰めた空気がそこにある。それに、こんなひどい身なりをしていても、品が滲み出ているではないか。


 きっと都の侍だろう。


 けれど三位殿は、三人の殺気を全く気にもとめず、視線を彼等から外して手元に戻した。


 悠然と琴を弾き始める。


 三人は一瞬戸惑いを見せたが、すぐ、その秘曲の渦に巻き込まれてしまった。


 三位殿が奏でるのは、慢商調唯一の曲、『広陵止息』。


 長く長く、ひたすら髪をかきむしり続ける。苦しみ怒る悲憤の曲。


 開指、小序、大序、正声と進むにつれ、次第に三人の夜盗どもは、いいようのない悲しみに襲われていく。胸がしめつけられて痛い。


 乱声、いよいよ激しく猛り狂う。憤懣、悲憤。激昂。沸々と怒りの血が煮え、果ては琴の絃が切れるのではないかと思われた。


 それを過ぎれば、暫しの安らぎに仏の国を見、けれどその安らぎは、例えようもなく悲しく苦しい。狂気の技は、聴いているだけで気が狂う。


 いつまでもいつまでも狂気の楽は続く。興奮は死ぬまで続く。


 この曲に穏やかな終焉は訪れない。狂気の楽は果てがない。


 聶政聶政聶政聶政聶政……!


──


 ようやく三位殿が最後の音を奏でた時、夜はすっかり更けきり……いや、もしかしたら、もう明け方が近づいているのかもしれない。


 とうとう最後の一音まで、心の激昂はおさまらなかった。


 三人は三位殿が弾き終えても、身動きできずに立ち尽くしている。


 三位殿は、文机ごと威神の琴を簀子の隅に押しやる。居ずまいを正し、


「金剛手よ」


と心の内で唱えた。そして、静かに瞼を閉じる。同時にそっと両手を合わせた。


 庭はたまたま西に面していた。


 あまりに穏やかな姿。水をうったような顔。静かで気高い。真っ白な直衣の三位殿。


 三人の震える手は、やっと太刀を握り締めた。


 意を決したように、一人の足が三位殿向かって走り出す。つられるようにあとの二人もそれに続き、三方から三位殿を取り囲んで、とうとうその一人がその刃を振りかざし、そのまま奇声と共に振り落としていた。


──


 春の弥生の初めの頃。


 韶徳三位周雅卿は安房に流される途中の宿で、桜の花の中、兄・少将忠兼朝臣とともに、夜盗に襲われ絶命したと伝えられている。

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