正声・十三拍──広陵散(肆)
常陸の経実、希姫君兄妹は、四辻殿の御甥二人が安房に流されるというので、
「お迎えの支度をせよ」
と家臣達に命じていた。
間接的ではあるが、安房は支配下にある。相模から常陸までの海岸沿いは、法化党とその同盟者達とが支配していた。
安房は冬でも温暖だが、やはり地の果て。陸の孤島のように、不便である。
「烏丸左大臣も地の果てにやったつもりなのだろうが、甘いな。我等の国だということを忘れるとは」
「それに、船があります。船を使えばすぐ近い」
「お二方にご不自由がないよう、景色のよい所によき邸を建て、そこへお迎えするのだ。美味い米、海の幸でおもてなししよう。宋より手に入れた珍品の調度で、お慰めしよう」
「法化の琴が手元にないのだけが残念ですが……」
将来の夢の実現のためには大事な客人達だ。
兄妹は家臣達に混じって、二人を迎える準備に駆け回っていた。
流罪が決まってしまった以上は、もう上野の時有にとりなしてもらうこともない。進めかけていた時有との和議は、すっかり消え果てていた。
清花の姫君が外に出られたのは、十八日のことだった。
その日一日、神妙にしていた姫君だったが、それは夜を待っていたのである。
夜更け。女房達が寝静まったのを確認すると、姫君は決行した。
するすると上局をすり抜け、妻戸を開ける。物音一つ立てず、衣擦れの音さえさせずに、姫君は外に出ることに成功した。
さて、ここから先が問題である。邸の外にはどうやって出ようか、いやいや、その先は……
「何をしていらっしゃる?」
悩んだ時、ふいに背後から声をかけられた。よく知る男の声。
姫君は全身を汗にして振り返った。
「……兄君」
沈痛な面持ちの宰相中将殿がそこにいた。
「馬鹿だな……もう追いかけても、間に合いませんよ。それに、何の考えもなしに行っても、安房へは辿り着けまい。おもとのその足では、洛外にも行けまい……いや、その前に、外は悪人で溢れている。おもとなぞ、すぐに悲惨な、それこそ口に出すもおぞましい目に遭わされる。今より辛い、深刻な……自害するかもしれないような……浅はかな、馬鹿なことはおやめなさい。三位殿に会えないばかりか、もっと悲惨ですよ、断言します」
姫君の目は、それでも行きたいという意志を宿している。思わず兄君は姫君を抱きしめた。
姫君の華奢な骨が、砕けてしまうかというほどに。この公達のどこにこんな力があるのかというほどに。
姫君は苦しかった。だが、姫君が息もできずに気絶してしまうならしてしまっても構わないと中将殿は思った。さらにぎゅうぎゅうと、力の限り抱きしめる。
「行ってはなりませぬ!」
三位殿は、友は、この姫君をどう思っているのか知れない。けれど、喩え彼の姫君への感情に恋がなかったとしても、彼なら──三位殿なら、必ず姫君を喜んで迎え、そして必ず姫君を愛してくれるようになるだろう。
中将殿はわかっている。
けれど、それでも姫君を行かせるわけにはいかない。
中将殿の力に姫君は、ついに気を失った。
遠退く意識の中で、姫君は中将殿の言葉を確かに聞いた。
「姫君は三位殿の後を継いで、琴の名手として生きなければならない。呉楚派を守るのが姫君の使命。姫君は琴を弾くために生まれてきたのですよ」
安房は陸の果て。遙に遠く、幾十日旅を続ければ辿り着くのか計り知れない。
都を発って十三日。
月も三月に移り変わっていた。
三位殿と忠兼の二人の流人は、領送使等と共にしずしず先を目指している。
暖かい場所や寒い場所、既に様々な地方を通って来た。所によっては桜の咲き初めた所、盛りの所、散っている所、まだ蕾の所、色々あった。桜ばかりでない。桃の花の季節でもある。
時々、遊山かと惑うほど、それは美しい風景だった。
そして、警護の武人の中には東国出身者も少なくない。故郷に近づくにつれ、心も知らず弾むのかもしれない。
それも理由なのだろう。流人の一行にしては和んだ空気である。
領送使達は、流人とはいえ三位殿らが貴人であるには違いないので、何かと気を配っていた。
「お疲れではないか?暫し休息しましょうか?」
と、よく声をかけてくれる。
又、都を出てからは牛車も用意された。疲れたような時は牛車に乗せてもらえる。
今日は乗馬だが、領送使は三位殿と忠兼の馬を並べて引いていた。
おかげで二人は、今までになく話せた。色々あったが、随分隔てが小さくなったように感じる。
その夜の宿は、寺であった。寺とはいっても、都の東寺や仁和寺のような大寺院でもなければ、山門や南山のような山寺でもない。田舎の素朴な小さい寺である。だが、僧房は奈良の元興寺のそれに似て、なかなかに情緒がある。かなりの古刹なのだろう。国分寺でもないが。
元興寺の僧房を縮小させたような、そんな寺の宿坊に兄弟は入れられて、外の薪の火を眺めていた。
二人を監視しているのだろう。庭の火の下を、常に三、四人の士が行ったり来たりしながら、時々こちらを見ている。
既に夜半。さっきから風が出ていた。時々、突風が吹き抜ける。
地獄の業風を忠兼はつい連想してしまう。安房はこの世の果て。地獄だ。
ここは地獄の入り口。故に、業風もここまで届いて来るのではないだろうか、と考えてしまう。
「心配ありません。昼の風は続くが、夜の風はそのうち止むとも申しますれば。今夜の風も、きっと暫く後には止むでしょう」
三位殿はそう言った。
忠兼は一瞬首を傾げたが、「ああ」と頷き、
「なるほど。そう言われてみればそうですね。しつこい東風も昼に吹き荒れる」
と、慰めに言った三位殿の言葉だったが、それに対して、変に納得していた。
庭の士の一人に長国という者がある。
彼は誠にお人好しで、だから当然、二人に同情していた。常に親切である。
今も二人の話に入ってきて、
「兵法でも、火計を用いる時には風に注意せよと述べております。つまり、昼の風は続くが、夜の風はやむということを覚えておけ、と」
と、歯を見せた。
この国に、兵法なんかを読む者がいたのか。
三位殿は頗る驚いた。意外や、この男は好学なようである。
三位殿は愛想を見せてにっこり笑った。長国もにこにこと返してくる。
「あのう。もし宜しければ、今夜も一曲お願いできないものでしょうか?」
長国はそう言って、三位殿に琴の演奏を求めた。
この男は三位殿の琴が好きである。道中の慰みに、三位殿は度々弾いていたのだが、いつの間にか、それは長国の楽しみとなってしまっていたのだ。
「よいですよ。では、琴卓の代わりになるものを貸して下さい」
「畏まりました。寺の者に言って、文机を借りて参りましょう。二つで宜しいですか?」
「ええ」
長国はすぐに本堂の方へ飛んでいった。
「おかしな男ですね」
その後ろ姿を見ながら忠兼はそう言って、くすっと笑った。
その時、又突風が吹いて、軒端の薪を倒した。火は傍らの宿坊にかかり、たちまち炎となって燃やし始める。
「大変だ!」
突然の小火に、士どもも寺の者達も駆け寄ってきて、円座なんかで、ばんばんと消火する。
ぱちぱちぱちと音をたて、風の力も手伝ってか、火は意外にも勢いがあり、簡単には消えない。
二人の罪人をすっかり忘れて、皆火にばかり集中していた。
誰も二人を見ていない。
三位殿と忠兼は同時に腰を浮かせた。
加勢しなければと三位殿は思った。だが、すぐに忠兼に気づいて、座り直す。
忠兼の頭を、一つの言葉がよぎっていた。
誰も見ていない。
今ならば逃げられる。
逃げれば、安房に行かずに済む。都には帰れなくとも、そのすぐ近くまで帰って、そよ風が運ぶ都の匂いを嗅げる。
無事逃げきれるのか。失敗すれば、この荒夷どもに斬られ、殺されるだろう。
このままここに留まれば、命だけは失わずに済むだろう。
逃げきれるのか。逃げられるのか。逃げようか。
「心配ありません」
ふいに、三位殿が言った。
どきりと忠兼が見ると、見上げている三位殿の眼とぴたりと合う。
「夜の風は止むとも申しますれば、この風も暫く後には止むでしょう。火は間もなく完全に消されるでしょう。三宝荒神が風に呼応して、少し大きく息をしたに過ぎません」
三位殿は静かに言った。
忠兼、ぺたとその場に座り込む。
三位殿は長国を待たず、膝に琴を乗せて、徐に『胡笳明君四弄』を弾き始めた。
火は間もなく消えた。
翌日は昨夜の風が嘘のような、静かな日となった。
再び馬の背に乗せられて、三位殿と忠兼はさらに進む。
「何年だろう。何年安房に留まればよいのだろう。いつかは都に戻れる日も来ますよね。そう信じて、それまでは、東の果てなれども、兄弟力を合わせて生きてゆきましょう」
忠兼はそう言ったが、三位殿はその時、少し違和感のある風を肌に感じていた。昨日から時折感じるのだが──。
眼を、周囲にやってみる。
静かな領送使達。
穏やかな──。けれど……
「何かおかしいとは思いませんか」
言葉にはせず、眼で言ってみる。だが、忠兼は何も感じ取ってくれない。
こんな時、琴を弾いたら。清花の姫君ならば。その琴の響きから、三位殿の考えていることを読み取ってくれるだろうに。
しばらく行くと、某の宿場に着いた。
「今日はこちらでご一泊されよ」
日はまだそう低くない。急げば次の宿場まで行けそうだが。
「いや。次の宿場までは少し遠い。途中で夜になってしまう。野営といっても、盗賊のよく出る所だから、危ない。今日はここで、早めに休まれるが宜しかろう」
領送使はそう言う。
そういうものなのだろうか。




