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正声・十三拍──広陵散(参)

 二月十六日。


 宰相中将殿は、堀川亜相邸に三位殿を訪ねていた。


 明日はいよいよ配流地に送られる。その前日だから、流人にも別離の機会くらいは与えられているのだ。


 今日、罪人を訪ねたからといって、咎める者もいない。


 三位殿は以前から中将殿との面会を求めていたが、ようやく願いは叶ったのであった。


 中将殿は昨日とはまるで別人のようである。さりとて、いつもの彼ともまるきり違っていた。


 大きな荷物を自ら手にし、見張り役に案内されて、三位殿の押し込められている獄までやってくる。役人は獄の戸を開けた。中将殿が中に入ると、役人は黙って戸を閉め、その前に立った。


 中将殿はそれを背中に感じながら、部屋の中央に進む。こちらに背を向けて座っていた三位殿が、物音に振り返った。


 予め中将殿の来訪は伝えられていたようで、その秀麗な面を目にしても、彼は驚きはせず、


「ああ、やっとお目に掛かれました」


と、瞼に指を押し当てただけだった。


 中将殿も明らかな涙声で、


「母や妹から色々託されました。本当は母も妹も来たかったに違いありませんが……」


と言って、円座もない冷たい床に座った。


 座ると、早速中将殿は彼の両手には余る大きな荷を解く。


 三位殿も立って部屋の隅まで行き、


「あなたにお渡ししたい物があって、ずっとお会いしたかったのです」


と、壁に立てかけていた秋声を持ってくる。


 中将殿も、秋声に劣らぬ美しい琴の琴一張を荷の中から取り出して、自分の前に置いた。


 向かい合って座った三位殿。二人、互いの物を見合った。


「それは?」


 中将殿が先に問うた。


「これは秋声という私の最愛の琴です。で、あなたのそれは?」


「妹から預かって参りました。三位殿に渡して欲しいと頼まれて。妹の琴、威神です」


「威神?威神ですって?」


 三位殿が思わず声を上げる。


 中将殿はいかにもと笑って、それを三位殿の方へ押しやった。


 清花の姫君第一の宝。南唐派の名器。梅花紋の浮かぶ古い漢琴である。


「これをあなたに差し上げてくれと、しつこく妹に頼まれました」


「威神を私に下さると?」


「ええ。どうか配所でも御傍らに置いてやって下さい。あなたのその指に操られれば、威神も喜びましょう」


 側にいることのできない妹の代わりに──。


 しかし、威神は南唐派の名器。他流の三位殿が手にしてよい筈がない。


「誰より琴道に励み、南唐琴門に誇りを持つ妹です。その妹が、あれほど愛しんでいた威神を手放すというのですから、余程な思いあってのことに違いありません。南唐派の秘宝としてではなく、妹の心として──お側に侍らせ給え」


 再三中将殿が言うので、三位殿も捕らえられた夜のことを思い出し、


「実はあの時、姫君に私の琴を差し上げようと思っていたのです。秋声をどうしても差し上げたくて、車に乗ってしまいました。何故かはわかりませねど、今にして思えば虫の知らせということだったのやもしれませぬ。途中で捕らえられ、この様です。それで未だ秋声は我がもとにあるのですが、やはりこれはあなたにお預けし、姫君にお渡し頂きたい。私の片身の秋声なればこそ姫君へ。私の心を思えば、姫君の御思いも()べあること」


と言って、秋声を差し出した。


 中将殿は喜んで。


「では、受け取って下さるとか?」


「はい。南唐派の宝物を穢す恐れはありますが、威神は落ち行く身を、どんなにか慰めてくれることか知れません。有り難き思し召しと周雅、涙を流して喜んだと、姫君へお伝え下さいませ」


「有り難うございます」


 中将殿は心からそう言った。彼とて鬼ではない。昨日のこととて、彼の本意ではない。どうして妹の恋を応援してやりたくない兄などいようか。


 中将殿は秋声を紫地の錦の袋に大事に入れる。


 三位殿は中将殿の顔のどこやらに、姫君の面影を見つけた気がした。


 三位殿はぴんっと一筋、威神の糸をつま弾いた。


 高雅で甘やかな──姫君の指がつい昨日まで触れていた糸。その音は、以前嵯峨の山中で聴いたのと同じ。


 瞼を閉じて、その響きの余韻を聴きながら、姫君のぬくみの残るその糸の上に両手を置いた。


「……威神をこの手に操る幸せを知るとは、夢にも思いませんでした。たった一つ弾いただけで、魂は天上に至る心地です」


 そう言って、やがてゆっくり眼を開けた。


 乱れた額髪が一筋、白い頬にかかっている。


 急に何か思い出したのか、「あ!」と口を開いたので、その頬が僅かに動いた。


 三位殿は身を捩って、傍らの箱の蓋を開けた。中には草紙やら巻物が幾つも入っている。


「これは呉楚派伝来の琴譜、理論書や楽論書の一部です。私の手元には、行実朝臣が唐土より持ち帰った琴、譜、論書などが数多ありました。洛神図も。これは呉楚派当主の証でもあります。政任朝臣縁の品、私が宋人より買い求めたものもあります。落ち行く身には過ぎたるものばかり。ですが、それらは皆没収され、今は宮中に集められているとか。今、私の手元にあるのはこれだけです。これも宮中にあるものも、周雅の物ではなく、呉楚派の物です。未来永劫呉楚派に伝えられなければなりませぬ。今までは私がお預かりしていましたが、これからは清花の姫君こそが全て所持されるべきです。必ず朝廷に訴え、それらを取り戻し、姫君の御物とされますよう、お願い申し上げます。取り敢えず今は、私の手元にあるものだけお伝え致しましょう。必ず姫君にお渡し下さい」


 一つ一つ丁寧に取り出しては、中将殿の前に積み上げる。


 中将殿は極めて重要なる使者の役を引き受けた。


「かしこまりました。必ず妹へ渡しましょう。そして必ず、宮中より残りのものを取り戻し、妹には呉楚派の主として恥ずかしくないような、立派な奏者となることを約束させましょう」


 それから、中将殿は笛で別れの一曲を吹き、母から預かってきた物を渡して、なお別離を悲しみ、惜しみながら帰って行った。


 中将殿の母君から贈られたものは、手製の直衣だった。その上には、一文字一文字に心を込めた文が添えられていた。


 彼女は三位殿の従姉だ。


 晩には三位殿の母からも使いが来た。やはり、母が一針一針に思いを込めて仕立てた狩衣や袴などが、幾重にも積まれて届けられた。


「母君……」


 母を思い涙が流れた。


 まだ丸い夜空の月に母の顔を見て、


「ああ、何たる親不孝か」


と嘆き、もう今生では会えぬのかもしれぬと思う。言いようのない思いに悶えた。


 もう一度だけでよいから、母に会いたい。


 しばらくして、そう願っても詮無いことだと、月を背に威神を弾き始める。


「姫君にも会いたかった……」


 他の人もどうしているだろう。


 父は。


 もう配流地の佐渡へ向かったのだろうか。とうとう会えなかったが、健康でいるのだろうか。


 ゑまひてうの姫君は、叔父の四辻殿は──。


 皆元気なのだろうか。


 思いも名残も尽きないが、やがて月も傾いて、間もなく夜明け。一睡もせぬままに朝を迎えた。


 二月十七日。


 運命の朝である。


 韶徳三位殿と兄・前少将忠兼は、安房に向かって護送される。


 去り際、三位殿はここの堀川亜相やその子息・兵衛佐へ世話になった礼を述べた。


「三位殿、三位殿……」


 三位殿をなお慕って、兵衛佐は顔じゅうを涙で汚していた。それ以上、言葉は見つからないらしく、ただ三位殿を見つめるばかりである。


「本当にあなたにはよくして頂いて」


 三位殿もつい薄桜萌黄の袖を涙で濡らしてしまう。


 だが、無情にも刻限となり、彼は馬の背に乗せられてしまった。そのまま速やかに堀川亜相邸を出る。


 その門を出ても、兵衛佐は一行の後を追って来る。


「三位殿、信じていますから!」


 ようやくそれだけ叫ぶことができ、あとはその場に崩れ落ちた。そしてそのまま、三位殿を乗せた馬が見えなくなるまで見送っていた。


 七絃七賢の一人でもある当代随一の琴の名手・韶徳三位殿が流されるというので、京中の通々には数多の人々が溢れていた。その見物人は庶民が大多数だが、中には、高貴な人の人目を忍ぶ姿もちらほらと立ち混じっている。


 やがて、物々しい雰囲気の領送使の軍隊が現れた。その行列の中に、馬の背にくくり付けられた三位殿の姿があった。そのやや後ろには忠兼朝臣が、同様に多勢の目に晒されている。


 それが通り過ぎるのを見送る通の人々は、皆涙を見せて哀れんだ。


「ああ、何てお可哀想に」


「哀れ、無実の人が逝く」


「極悪の左府め、憎や」


「左府に天罰を!」


 三位殿は琴の神の子なりとて尊ばれ、その雅びぶりから憧れられ、人柄から、庶民にまでも愛される人だったのだ。


 その庶民の群に混じって、市女笠を目深に被った女性がいた。その手に引かれる少女。


 実は三位殿の母君なる人と、ゑまひてうの姫君だった。


 又、見物人の群からやや外れて、宰相中将殿の姿もあった。


 三位殿が通り過ぎた時、ゑまひてうの姫君はその馬を睨めつけ、怒りの涙に咽んでいた。傍らで、三位殿の母君が悲しみの余り気絶し、地に大きな音を立てたのさえ気づかぬ様子である。


 宰相中将殿は馬上の三位殿と目が合った。彼は肩を震わせながらも必死に堪えて、三位殿に大きく頷いてみせた。


 三位殿はそれに柔らかな微笑みを返し、静かに前に向き直った。


 怒りも悲しみもない、羞恥もない、穏やかな、まるで、もう時期咲く桜の花びらのような顔であった。そう、一枚の花びら。

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