表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/85

正声・十三拍──広陵散(弐)

 十五日のこと。


 宰相中将殿が帰宅すると、清花の姫君の女房の中務がやって来て、


「姫君が何としても、兄君にお会いになりたいとの御事にございます」


と言う。中務の目の中にただならぬ様子が窺えたが、


「今はそれどころではない。数日待てと伝えよ」


と答えた。


 だが、中務は強く首を横に振る。


「なりませぬ。是が非でも今すぐ姫君をお訪ね下さいませ。どうしても今日でなければならないのだと、姫君にきつく仰せつかっております。曲げてもいらして下さい。何卒、何卒!」


「ええい、我が儘な。今はそれどころではないと言うに!」


 宰相中将殿はそう言い捨てると、珍しく床板を踏み鳴らして、立ち去ってしまった。


 陽気な彼も、今日は苛立っていた。


 無実の友が、明後日には安房へ流されるのだから。


 それを阻止する為に、中将殿がどれほど頑張ったことか。彼は、我が家の事情も無視して頑張ったのだ。


 今上の三の宮とその御母を預かっている。そして、中将殿の母は四辻殿の姪。


 下手に騒げば、中将殿も、父・大納言殿も、いや、何より三の宮が危険な目に遭う。


 大納言殿は、何としても三の宮を守らなければならないと、悔し涙を流しながらも、烏丸左大臣の横暴に堪えていた。けれど、若い中将殿には、友を切り捨ててでも宮への忠義を貫くということができない。左大臣に異を唱えていたのだ。


 精一杯彼は頑張ったのに。


 烏丸左大臣は余りに巨人であった。中将殿は無力だ。


 とうとう友の流罪を阻止できなかった。


 明後日いよいよ、三位殿は旅立つ。中将殿はもう正気を失っていた。


 自分の居間で、とりあえず着替える。女房達に囲まれて、直衣の袖に腕を通していると、女童がやって来て、先程の中務が来ているという。


「いったい何だというのかっ!」


 つい声を荒げると、周囲の女房達はびくっと肩を縮め、女童は怖くて、


「もっ申し訳ありません!」


と逃げ出してしまった。


 すると、その女童と入れ替わりに、今にも泣き出しそうな顔をした中務がやって来た。


「対面を許した覚えはない!」


「申し訳ありませぬ!ただ、どうしても、これを兄君にお渡しせよと姫君が……」


 中務は大事に袖の中に抱きしめていた琴一張を、そっと床に置いた。


 さすがの中将殿も、ついそれをまじまじと見てしまった。


 袋にも入っていない剥き出しのそれは、名器中の名器・威神だったからだ。


「威神ではないか。これをどうした?」


 思わずそう尋ねていた。


「兄君にお渡しせよと。姫君には、それを手放すおつもりです」


「何だと?この忙しい時に、気の違った妹の相手なぞ……」


 威神は天下に一、二を争う名器。唐土より伝えられた、南唐派の秘宝ではないか。


「それを、三位殿にお渡し下さいとのお言伝にございます」


「は!?」


 初めて中将殿は、事の重大さに気付いた。


「まさか、妹が私に今会いたいというのは、このことか?」


 中将殿は威神を抱き上げると、血相変えて、姫君のもとへ飛んで行ったのだった。


 中将殿は勘のよい男だ。殊に、嫌なことは恐ろしく中る。


 今もとんでもないことを直感した。


 姫君のもとに来ると、そこは異様な光景だった。その様子に中将殿は唖然とした。


 女房達は皆外に出されていて、上局は空。御簾は全て巻き上げられ、几帳は片付けられていて、中が丸見えである。屏風を背に座っている姫君の美貌が、外からはっきり見えていた。


「これはどうしたことだ!」


 簀子に居並んで、おろおろするばかりの女房達に訊いた。


 だが、誰も答えない。


 庭にも廊にも、雑色やら下男やらが溢れている。姫君を見られてしまったら、何とする。


「とにかく御簾を下ろしなさい」


 女房達に命じながら、自分でもそこら辺の御簾に手をかけた。


「おやめ下さい!」


 ふいに中の姫君がぴしゃりと言った。


「何故です?」


 こんな妹は初めてだ。先程までとはまるで別人のように、中将殿はびくびくしながら、下ろしかけた御簾の手を止めた。


「兄君に内密の話があります。人払いしてお待ち申し上げておりました」


「だからと言って、御簾を上げることはないでしょう。几帳まで片付けて。姿を見られたらどうする!」


「せっかく人払いをしても……几帳などを置いておいたら、その陰に誰かが隠れていても、気付かないではありませんか」


「……」


 さすがに二の句が継げない。


 そんなに疑っていては、床も天井も剥がさなければならないではないか。


 中将殿は一呼吸おいてから、


「とにかく、御簾は下ろしなさい」


と強く言って、勝手にそれを始めてしまった。


 女房達は中将殿に従うべきか、姫君に従うべきか判断できず、なおおろおろしている。


 中将殿は一人で御簾を下ろしてしまった。中の姫君の姿が、外から完全に見えなくなったのを確認すると、威神を左腕に抱えながら姫君のすぐ前まで進む。


 姫君は扇に顔を隠して、久々に兄を間近に見た。


 中将殿は予め用意してあった円座に座り、威神を静かに下に置いた。


「誰もいませんから、安心してお話しなさい。話とは、この威神のことですね。この兄も知りたい、どうしてこれを三位殿に渡せというのか」


「……明日、兄君が三位殿に会いに行くと聞いたからです」


「どうして。威神を三位殿に差し上げるのです?」


 その理由は、さっき直感でわかった気がする。


「……」


 姫君は、誰にも聞かせられないからと人払いをしておきながら、やはり躊躇っている。


 扇の陰から見え隠れする姫君の顔は、特別異常はない気がする。


 しかし、御簾も几帳も払いのけるという異常をやってのけるのは、やはり平静ではないからだろう。


 いよいよ、勘のよい男は己の嫌な勘が正しかったと知る。


「己の心を内に秘めて、誰にも異変を気取られずに、平静を装い続けることは難しいことです。あれだけの沢山の女房に囲まれながら、今までよく辛抱なさいましたね」


「えっ?」


 姫君は顔を上げ、中将殿の両目をまじまじと見つめた。


「私は兄故、他の者がわからなくとも、私にだけはわかる。私にだけ打ち明けようとしたのですね。だから、人払いしたわけだ」


「……私。そう、私……」


「待った!!」


 いきなりの大声で、姫君はびくっと言葉を呑み込んだ。


 中将殿は右手を前に翳して制止したまま、


「それはこれからも、おもとの胸の中だけに秘めておくのです。誰にも悟られてはならない。私も打ち明けられたくない。この威神はここに置いておきます。よいですね」


と言った。


 姫君は顔を俯かせ、それを力なく横に振った。


 中将殿は右手を膝に戻す。


「姫君、威神はおもとの愛用の琴だが、おもとだけの物ではありませんよ。それは姫君が誰よりもわかっていることでしょう」


 南唐派の宝。それを呉楚派の三位殿に贈ってしまうなぞ──。いや、姫君最愛の琴たがらこそ、三位殿に贈りたいのだ。わかる、それ程までに三位殿を──。


「……私とて、自分の立場も、父君のこともわかっております。だから、秘密は秘密のままに、こうして堪えているのに……せめて、せめて琴くらい三位殿に差し上げてもよいでしょう?何も聞きたくないのでしたら、何も聞かずに威神を三位殿に渡して下さい!」


 言っているうちに、死ぬ思いで抑えてきた感情が溢れ出してきた。姫君は俯かせていた顔を真っ直ぐ上げている。兄に縋る瞳をしていた。


 姫君の思いがわかるから、中将殿も困ってしまう。


「このままでは私、父君にご迷惑をかけてしまいそうです。堪えられませぬ!家を抜け出して、安房へ!!安房へ……」


 涙が滲む。


 三位殿をどれほど思っているか。こんなに恋しい人なのに。


 姫君は后がねだから、許されない恋だから……だから、はじめから片恋でも構わないと諦めていた。両親に迷惑をかけてまで、自分勝手に生きたいとは思わない。


 でも、それでも募る思いを堪えるのは辛かったのに。平生でさえそうなのに。


 恋しい人が流罪になるなぞ、どうして平静でいられよう。


「明日、せめて一目だけでもお目に掛かれたら……女房に化けたら、兄君について行って……」


「やめいっ!!」


 中将殿は今まで見たこともないような、悪鬼のような顔になり、ばっと立ち上がった。


「自分勝手に生きられるのは庶民だけ!我等には富貴を与えられた分、それは与えられていない!姫君の勝手は断じて許されない!」


 外にまで聞こえるのではないかという程、激情を声にして叫び、叫んだかと思うと、ずいと姫君に近づき、そのままむんずとその腕を掴んだ。


「……!」


 余りのことに、姫君は声にならない。


 中将殿は鬼の形相のまま、姫君の腕を引っ張って行く。


 姫君はただ引きずられて行く。


 ばんっと塗籠の戸を開けた。


 そして、姫君の背をどんっと押す。


 姫君は塗籠の中に転び入った。


 中将殿はまだ起き上がれない姫君をぎゅうぎゅうと中に押し込め、衣の裾まで中に入れると、姫君が身を捩ったのと同時に戸を閉めた。


 姫君は仰天して、よろめきながらも、どうにか身を起こし、戸に取り縋る。


 ばんばん戸を叩く。しかし、戸は開かない。


 中将殿は外から鉤をかけた。


「兄君!兄君!」


「そこに入っていなさい!」


「嫌!出して!」


「三位殿に会いに行ったりしたら、そんなはしたないことをしたら、三位殿に嫌われる!おとなしくしているのです!」


 中将殿はそう言うと、姫君を閉じ込めたまま、戸の前を離れた。


 屏風の前に戻ると、威神を抱き上げ、御簾の外まで出てくる。


「中務!姫君は急な重い物忌みだ。物の怪もいる。姫君は塗籠の中に入れておいた。三日間、くれぐれも姫君を外に出してはならぬ。姫君が出たいと言っても、それは物の怪が言わせているのだ。絶対出してはならぬ!よいな!戸の前で見張っておれ!!」


 中務にそう命じると、戸惑う彼女に、


「よいな!この家のためぞ!私の言うことを守らないことは不忠の極みだ!」


と乱暴に言い放ち、去って行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ