正声・十二拍──發怒(下)
「俊幸!!」
遠き東の地、上野の牧邸に、今日も響き渡る絶叫。
時有は邸じゅうに聞こえる程の大声を響かせていた。
「そんなに大声出されずとも、聞こえまするよ。だいたいここは戦場ではありますまいに」
耳聡いらしい老人は、さも迷惑そうに、頬と口をねじ曲げさせた。
「そもそもですな」
そう言ってまた小言を始める。
「その御歳で未だお独りとは、異常なことですぞ。まるでかの政任朝臣ではございませぬか」
「よいのだ。放っておけ!」
信時、早く帰って来てくれと、時有は心の中で叫んでいた。
もう、こんな爺のお守りは御免だ。
武蔵で所領争いが起きた。その仲裁に信時は出掛けていて、留守である。安友も同伴していた。
信時と安友がいないから、俊幸と大上のお守りが時有に回ってきてしまった。
「殿!源四郎の妻の姪は、それはそれは気立てのよい娘にございまするぞ!あのようなよき娘は二人とおりませぬ」
「嫌じゃ、空っ風にあたった頬の真っ赤な田舎娘なぞ」
「何と!あの娘は稀に見る美人にございまするぞ。都にもなかなかおりますまい」
「そんなに気に入ったのならば、おぬしが妾にすればよかろう」
「はあ?それがしが……いやはや、殿がお子を儲けられなければ、意味はないのに」
「俊幸、源四郎から何を貰ったのだ?」
時有は盛大に溜め息をついた。
俊幸は、実は素敵な所領を源四郎から贈られていた。
「我が姪を是非、殿の御側に──」
そう頼まれて。
「いや、何と情けなきことを。殿はお子を儲けられることが何より大事だと、何故ご理解下さいませぬ」
しどろもどろになりそうなのを、頑張って胸を張る老人。
「わかっておるわ!しかし、この身とて好いた女の一人くらい……」
「叔父御、いい加減になさいよ!」
その時、時有の母の春日の大上が廊に現れて、そう言った。
「時有には、烏丸の大臣が特別に妻を下さるそうですよ」
言いながら、中へ入って来る。
「え。母上?」
「大臣の北ノ方の御姪を下さるのですって。よかったわね」
時有は先の功績が認められ、この秋、正五位上を与えられていた。信時も叙爵して、今は大夫である。
「大臣はようやくこなた達をお認め下さったのね。春になったら、女君をこちらへお送り下さるそうよ」
大上はゆっくり腰を下ろした。
時有は呆気にとられている。
「……ええと。……婿に行くのではないので?」
「そうよ。こなたは此処にいるのに、妻が都では大変でしょう。だから、女君の方が来て下さるのよ」
すなわち、世にも稀なる嫁入り婚ということになる。
「もう決まっていることだから、断れないのよ」
「はあ」
「大臣のお決めになったことですからね。覚悟をしておきなさい。そういうこと故、叔父御、その話は無理」
大上は何故かにっかと笑っている。
時有も俊幸も言い返せず。特に俊幸は複雑そうにしている。
「これで時有も安心ね。さて、女君を迎える支度をしなくては。北の対にお入り頂くために、私は北の対を出ます。叔父御、この邸の隣に私と貴姫君が住める程度の家を用意して頂戴」
「あ、は」
「源四郎からの貢ぎ物で、それくらい賄えるでしょう?」
「いっ!?」
「冗談!」
くかかと大上は笑った。
俊幸の顔の汗といったらない。
「冗談よ。それは牧が用意してくれるから。でも、叔父御、所領はきっちり返しなさいよ」
「……あ、あまり年寄りを苛めんで下され……死ぬかと思うた」
「おほほ。何なら、そのままにしておく?源四郎の姪を、時有の側女にすればよいわけだし」
「母上!」
今後は時有が卒倒しそうだった。本当に、一刻も早く信時は帰って来ないだろうか。
信時が留守になったものだから、俊幸の鍾愛の的が時有に集中した。暇なのだろう。四六時中やってきては、時有の世話を焼き、そして、必ずいつも彼の幼い頃の話になるのだ。
「いや、誠にご立派になられましたな。美丈夫にていらせられて。しかしながら、殿はお小さい頃からお元気で活発な和子でしたなあ。赤子でいらした時、それがしが抱いてあやして差し上げると、よく御小便を盛大に……」
「俊幸!!」
真っ赤になって時有は遮る。
一方の俊幸は、懐かしさに目を潤ませて、全くお構いなしだ。
周囲の侍女達は笑いさざめく。
このような話、時有の好い男の印象が壊れるではないか。
「いや殿はお小さい頃からお健やかでご立派でした。若君(信時)は抱き上げる度に、お熱があって……いつも心配でしたから」
時有にとっては恥ずかしい話でも、俊幸は誉めているのである。大真面目に本気だから質が悪い。
さらにこの母。
時有は扱いに一苦労。それは信時も同じのようだが。
だが、二人いれば、被害も半分で済むのにと思う。
さらに、烏丸左大臣が妻を送って寄越すというのだから、考えただけで時有はげんなりした。
「妻か……」
大上と俊幸の被害者は時有だけではなかった。
貴姫君もである。
元々、大上は姫のもとを訪れていたが、最近、俊幸までもが来るようになってしまったのだ。
「変な翁」
三亥御前は笑っていた。
従順を装わなければ、本懐を遂げることなど出来ない。
姫にそう言われてからは、すっかり和やかになった三亥御前であった。
近頃は、その笑顔が装いか本物かさえわからない。
「今日も来るでしょうかね」
三亥御前がそう言った時、侍女が大上の来訪を告げた。
「今日は大上でしたか」
時有の所からの帰りらしい。
御簾は巻き上げたまま。女同士、隔ても要るまい。
すぐに大上が現れた。
出された円座に腰を下ろし、
「お二人とも、お変わりないようで」
と、にっこりした。息子達には見せない淑女の微笑みである。
大上の真向かいに貴姫君、その斜め左に三亥御前が座っている。
「いつ拝見しても綺麗な姫君。あ!三亥御前も綺麗よ」
付け足して言うのを、三亥御前はくすくす笑う。
「無理して褒めなくてもいいのに」
遂には声を立てて笑い出した。
それを見て、ふと大上は真顔になり、
「よかった。秋の頃は少しも心を開いて下さらなかったから。そうやって笑い転げて下さるとは……」
と、ちょっと目を瞬かせた。
「ああ……」
三亥御前も笑いをおさめ、何と言おうか迷う。
すると、貴姫君が静かに言った。
「お恨み申し上げてはおりませぬ。いいえ、恨んではならないのだと思います。私達は負けました。負けたのが悪いのです。勝った人を恨むのは筋違い。逆恨み以外の何ものでもありません。逆恨んで復讐するなぞ、恥です。何かに挑んで失敗し、再挑戦するのでさえ、失敗したものに対して逆恨みはしないでしょう」
恨むまい、恨むは恥と己を律しても、それでも恨む心が沸き起こってくるのが人の不思議、悲しい性というものだろう。
大上は姫の本心がわかっているつもりである。
「恨むまいとする心があるかなきかで大いに違います。恨んで下さってもよいですよ。いいえ、恨むなと言う方が無理。恨まれても、姫君を愚かだとも間違っているとも思いません」
違う。
大上の言葉に、三亥御前はそう思った。
姫も首を横に振る。
「戦に負ける度に相手を恨んでいては、永遠に復讐の連鎖は続いてしまいます。敵を討ち、いつか必ず勝つと誓うのが、勝つまで恨み、勝つまで戦うのが、本来正しき武門の生き方なのでしょう。戦に負け、その恨みを忘れて生きるこそ、最大の恥に違いありませぬ。でも、私は考えずにはいられませぬ。領主の立場、領主の存在意義というもの。領主とは、そこの土地と民を守るべき者。戦はそれらを守るべき手段です。だから、負けたからと言って、相手を逆恨みし、復讐の戦をするのはいけないことです。左様な戦で最も迷惑するのは敵ではなく、民です。私は恨まない。それが、戦に負けた領主の妹の責任だと思うからです」
違う。
それにも三亥御前はそう思った。
領主は民のためを考える。民に不利益なら、戦で負かされた相手を恨んではならない。
それには胸が疼いたが、「違う!」という言葉で、その疼きを上から激しく覆い潰す。
「ご立派ね!」
大上は頗る驚き、ただただ感嘆するばかりだった。
「姉がよく言っていましたから」
姫はそう言って目を伏せた。
「……私は質ですが……だからこそこの身は和議の架け橋となりたい」
姫の言葉は、大上と三亥御前を驚かせるものであった。
だがこれは昨日、俊幸が訪ねてきた時にも言ったことだ。その場に三亥御前はいなかったが。
昨日、俊幸は干柿を持ってやってきた。いつものように飄々とした様子で。
「美味ですぞ。美味過ぎて腹が痛いですわい」
何故美味な干柿は腹が痛くなるのかと、姫は一瞬わからなかったが、「ああ!」と、わかったらおかしくて堪らない。
食べ過ぎはよくない。年寄りは、美味だと際限なく食べるから。
気遣った後、姫は。
「子を知り己を知れば、と申しますが、子を知らずに敵として刃を交えるは恐ろしきことかなと、改めて思います」
「ほあ?」
俊幸は首を傾げた。
姫はくすっと笑う。
「敵は憎いものと決まっております。私も当たり前のように、こなた達を憎んでおりました。時有の君も、その家の子、郎党、一兵卒に至るまで、皆一人残らず。でも、考えてみたら、私はこの皆全てと会ったことがなく、話したこともなかった。敵は全員悪い人だと決めつけていた。我等は善人、敵は悪人だと━━でも、実際会ってみたら、憎むべき悪人ではなかった。こなたも大上も、皆良い人でした。今、こうしてこなたの人柄に触れて、思うことです。もしも昔からこなたを知っていたら、敵だからとて、単純に憎みはしなかったでしょう。敵の人柄も知らずに戦う。戦とは何でしょう。敵とて、味方と同じ、善人なのに」
「昔から知っていたら?」
俊幸は身を乗り出した。何か言いたいらしい。口を開いてぱくぱくとさせる。しかし、声に出そうとして、やめてしまった。口を閉じ、感情を鎮めている。
何度か唾を飲み下した。喉が上下に動いている。
「何か?」
「……い、いいえ。何でもありませぬ」
戦場で敵と刃を交える瞬間、ふと頭を掠めることがある──姉の希姫君が言った言葉だ。
今、自分の目の前にいて、自分と刃を交えている男は、初めて会った人間だ。この男に、自分が殺すほどの思いをさせられたことがあったか。殺すほどの憎しみを、この目の前の男に持っているのか。
姉はそう言った。
戦は謎めいたものだ、と。なるべくなら、謎なものには近づきたくないと。
戦にならずに解決することが最善の道だとは、古人も述べていることではないか。
だから、貴姫君は言った。
「善良な者が善良な者を殺す。負けた方の善良な者は、勝った方の善良な者に報復の戦をする。そして、また負けた方が──善良な者同士の戦が続くのは、悲しきこと。私は和議を望みます」
俊幸に和議を求めたように、大上にも和議を願った。
姫の心理がわからない。三亥御前はひたすら心の中で、「違う」と繰り返していた。




