正声・十一拍──呪詛(上)
時々、三位殿は琵琶の秘曲を練習することがある。
彼の邸の内には琴堂とは別に妙音堂があって、これが琵琶専用の練習場なのであるが、この堂には余人は近づけない。
だが、女房の小右京だけは、呼ばれることがある。妙音堂と琴堂に出入りを許されているのは彼女だけである。
それで、小右京は秘曲全曲聴いた経験がある。
だが、彼女には全くわからない世界のことであり、どれがどの曲で、どこがどう違うのかもわからない。
彼女には全部同じように聞こえた。冒頭だけ聴くに──。
「妾でも、『楊真操』だけは違う曲だとわかります。でも、残りの三つは……『上原石上流泉』に少し余計な音が加わったのが『啄木』で、いや、音は単純化している?……それらを下げたのが『石上流泉』?……要略するとこの三つは、「双調音取」の七撥になるように、妾には聴こえます」
「……?」
「あ、でも『啄木』は途中で、撥面を撥でこつこつと打つところがあるでしょう?だから、『啄木』はずっと聴いていればわかります」
「……『啄木』は調絃からして、他とは違うのだが……」
「ところで、そろそろお時刻ではございません?」
小右京に言われて、あっと三位殿は思い出した。
「そうだ、宇治の入道殿と宿禰光世が来るのだった。小右京、二人が見えたら、ここへ通してくれ」
「はい。かしこまりました」
小右京は一礼すると退出していった。
それから暫くして、宇治の入道と宿禰光世が打ち揃ってやってきた。
光世は七十三歳の高齢である。けれど、顔もつやつやとして、髪にも黒いものが散見する。朗らかで若い。琵琶一面を、自ら背に担いでいた。
「お二人ともお元気そうで何よりです」
三位殿は年齢の食い違う二人の友を笑顔で出迎えた。
光世とは先月会ったが、入道とは久しぶりである。
先日、五節に参仕した時、彼の弟と会い、その折の話で入道は健やからしいと知ったものの、やはり、直に会わなければほっとしない。
光世とは、共に白河の琵琶の同門である。光世は若い頃、琴をかじった経験もある。
入道は琴の数寄者で、帥殿大納言の弟子であった。
そして、二人とも散位政任の門を叩いたことがある。見事玉砕したが、そのような関係もあり、度々こうして三位殿を訪ねては、政任の昔話で盛り上がっているのである。
今日も、光世は琵琶を下に置くと、政任の入門試験の時のことを楽しげに話し始めた。耄碌はしていない筈だが、この話、すでに十回は聞いている。
「東の渡殿で弾いたはいいが、待てど暮らせど寝殿からは物音一つしてこない。せめて用なしならば用なしだと言って下さればよいものを、政任朝臣は何も仰らぬものだから。お姿は見えぬし、お声一つない。家人に合否を言わせるとかいうこともない。不安なまま、ひたすら待ったが堪えられず、家人の一人に願うたものです。合否何れか聞いてきて下され、と。なれど家人は、主に近寄ることは許されていないので無理です、とつれない。なお心細く待っていると、家人が話しかけてきた。合格ならば、何らかの沙汰がある筈で、これだけ待っても何もないということは、残念ながら、と」
そこで光世はちょっと切なそうな顔をして見せるのだが、それはわざとなのである。すぐにおどけて。
「ま、私もそうだろうなとは思っておりましたなれど……つい想像したものです、私の下手な演奏を聴いている政任朝臣の姿を。寝殿の御簾の内に八重にも九重にも巡らせた屏風の中の、なお几帳で取り囲んだ中にふんぞり返り、『くうう、下手くそ。儂を殺す計画か?』としかめる顔を。『やめろ、耳が腐る。お主の耳はどうなっている、これがよいと感じるのか。耳は飾りか。くたばってしまえ。お主はごみだ』と毒づいて、耳を塞ぐ様を──」
ぐふふふと、実におかしそうに笑った。自嘲でもなく、己を哀れむのでもない。単純におかしいだけらしい。
光世の磊落に入道も合わせて、
「私の時もそうでしたよ。必死で弾いたのに、何の沙汰もない。もしかして、聴いていなかったのではないか、いやそれよりも、聴こえなかったのではないかと、もう一曲弾いたものです。大きな音を出そうと力を入れたので、その弾きにくかったこと」
と、両手をひらひら振った。思い出したら、手が痛くなったらしい。
「なれど、やはり音沙汰なく。いくら待っても。で、家人に、合格か不合格かと問うたが、わかりませんと答える。いつになったらわかりますかと問えども、それもわかりませんとのこと。では聞いてきて下さいませんかと頼めば、それはできませんと言う。そして、『皆々そうなのですよ。試験を受けられた方は、どなたの時でもいつもこうなので、途方に暮れておしまいになるのです。ただ、入門を許された方は、演奏後すぐにそのご沙汰があるので、これだけ待っても何もないということは、お帰りになられた方が宜しいのでは』と言いよってなあ。帥殿の弟子の私が、師の死にあい、その師の政任朝臣を訪ねたに、こはあんまりだと思ったものです。きっと政任朝臣は『これで帥殿の弟子か?こんなんで儂に聴いてもらおうなんて、儂の方が恥ずかしくなってしまうわ』と、舌打ちとともに、独りごちたに違いありませんよ」
と笑った。
「まったく三位殿が羨ましい」
二人揃ってこう言うのは、妬んでいるわけでも羨んでいるわけでもない。ただおどけているのである。
で、三位殿も、昔この家に仕えていた大進という女房の話をし始める。
「当家の老女で大進という者が、昔政任朝臣の父君ご存命の頃に、仕えていたそうです。その後、当家に来たのですが──」
大進によると、若き日の政任は父との言い争いが絶えなかったという。
人間嫌いなため出仕せず、家にばかり籠もっているのを、父は不真面目だと怒った。それに対して政任は、気が違ったみたいに怒鳴り返したという。
さらに、いつまでも妻帯しないのを父は心配して、
「おことのように家門に泥を塗る不規律者は、さっさと婿に行ってしまえ」
と、よく言った。
すると政任は、しゃあっと毛を逆立てた猫のように、潰れる程声を張り上げて叫んだ。
「うるさいっ、二度とそんな話はするな!儂は女は嫌いだ。女の姿を見ただけで萎えるわ。儂は生身の人間は好かん、気色悪い」
「な!本気で言っておるのか!?」
「おうよ。勿論本気だ。──ああ、そうだ。儂は琴に恋している。琴が儂の妻。儂の恋路を邪魔せんでくれ!」
それで父は呆れて言葉もなく。我が子を情緒に害があるのだと思った。
「なんでこんなおかしな子ができてしまったのだ……」
と、天を恨んでいたという。
「あはは、いや、まことに政任朝臣らしい」
光世も入道も大笑い。
三位殿は自分で言ったくせに、何だか笑えなかったが、
「誠に、色々な意味で桁違いな方でした……」
と、己の幼い頃の修業の日々さえ思い出して、遠い目をした。
冬の日差しのやわらかな、ある午後のことであった。




