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正声・十拍──知音(弐)

 夢のような一夜。


 それも、人によっては悪夢であることもある。


 四辻内大臣殿の場合、まさに悪夢だった。常陸の経実からの文に。


「何と言ってきました?」


 縦目の法真が身を乗り出していた。


 四辻殿の邸である。法真と二人きりの寝殿には御簾が垂らされていて、月は見えない。


 法真の顔に向かい合っているだけでも、悪夢の中のようなのに。


 法真は言った。


「官位を要求しているので?」


「いや」


「では大臣の荘園を?寂意入道にかわって領主になりたいと?」


「いや」


 そこで法真、いよいよ縦目を出す。


「亡き羽林殿は桁違いな御方でございましたなあ。もし拙僧、かの人と知遇を得ていたならと、今更ながら残念でなりませぬ。ご子息もその血を引いて?」


「……」


「六の宮即位を言って参りましたか?」


「……なんという圧力を……」


 妹と所領とを失ってまで、取り返してやった四辻殿の荘園だ。その見返りに、要求があっても当然だ。


 だが、六の宮を即位させろとの圧力は、どうか。


 法真はのっぺりとした薄ら笑いを浮かべている。流石は羽林殿の子だと。





 春日の君とて、時有・信時の母儀は、子息達の招きに応じて都を出て、上野に下向していた。牧邸に着いたのは、つい最近のことである。


 この人、まことに面倒見のよい女性で、牧邸に来てまだ間もないというのに、時有の新しい臣下達に、早速あれやこれやと世話を焼いていた。もうすっかり家臣達の信頼を得ている。


大上(おおうえ)、大上」と皆から慕われていた。


 当然ながら、この春日の大上は、法化党の捕虜の貴姫君や三亥御前に同情した。


「私ができる限り、お世話をして差し上げたいわ。捕虜という扱いは望ましくない。客としてもてなしたい」


 春日の大上はそう言って、貴姫君と三亥御前とを自分の側に置き、毎日のように二人を訪ねて、色々慰めていたのであった。


 貴姫君も三亥御前も、心を開いている様子はない。だが、大上の来訪や好意を拒みはしなかった。


 ただ、大上が気がかりなのは、ほとんど口もきかず、食も進まぬのか、臥せっていることも多い三亥御前のことである。怨んでいるのだろうと思った。


 貴姫君の方はそういうこともなく、時折笑顔を見せることもある。


 ただ、心の底から笑っているわけではないのだろう。


 その貴姫君が、一度だけ心底嬉しそうな表情を見せたことがあった。


 大上は嗜みとして、琵琶や箏などは一通り学んでいる。上野にも箏や琵琶を持って来ていた。


 ある時、たまには楽遊びもよい慰めになるのではないかと考え、琵琶一面持って、貴姫君を訪ねたことがある。


 すると、その日ばかりは姫の笑顔が本物と確信できた。


「かの七絃七賢・伊賀守の姪御ですから。それは楽がお好きな筈です」


 姫が喜んでくれたとはしゃいだ大上に、安友はそう言った。


 大上は、息子の親友であるこの安友のことも、まるでもう一人息子が増えたみたいに可愛がっている。琵琶が特別上手い安友は、格別に可愛いのだそうだ。信時にそんなことを言っては、


「おことには、そこまでの才が、ねえ」


と溜め息をついている。


 姫が琵琶に喜んだという話をした時も、信時もその場にいたが、信時そっちのけで、大上は安友と楽しげに話していた。


「そういえば、伊賀守は政任朝臣から法化なる琴を授けられたそうですが、その琴はどうなったかな」


 安友がそう言った時、ふと信時には思い当たることがあった。


 信時は早速従者に問い合わせさせた。桜町館から押収してきた物の中に、確か琴が一張あった筈だ。


 数日後、信時のもとにその琴が届けられた。


 第六徽の辺りに傷があるそれには、牛毛紋が幾つも見える。裏返してみると、法化の刻字があった。


「これだ!」


 信時は飛び上がって喜び、母のもとへ急いだ。


 その時、大上は安友に自分の琵琶を預けて、修理の相談などしていた。


「首を削って少し細くすると、もっと鳴るようになりますよ。この琵琶は、少し首が太い」


「そうなの?」


 楽しそうである。


 だから信時が、


「母上。姫君にこれをお渡し下さい」


と頼んでも、目の隅で法化を見ながら面倒そうに、


「自分で持って行ったらよいでしょうに。何でも母任せなのだから、この子は」


と、取り合ってもらえない。


「なんで私が!」


 信時は口を尖らせた。


 実は信時は、あの業経処刑の日以来、貴姫君には会っていない。


 訪ねたい気持ちはあったが、できなかった。あの時の姫の様子、言葉。自分が姫の誇りを傷つけてしまったのだと思うと。


 彼は、姫に貰った巻物を抱きしめるだけで、堪えていた。


 会うのはとても恐ろしかったが、信時は姫と面会した。


 御簾越しではあるが、姫は会ってくれた。


 ただ、信時は何と言ったらよいのかわからない。


「……お変わりは、ございませぬか?」


 そんなありきたりのことを訊いてみた。


「はい」


 機嫌の悪くなさそうな声である。


「……さ、桜は全て残しました。来年の春には、咲くことでしょう」


「おそれいります」


「……はあ。お約束ですから」


「あれは御身に差し上げました。御身の御物です」


「は……」


 信時はうまく話せない。


 人と人として出会った時にはなかった隔てが、あの戦場での再会以来、この目の前の御簾のようにできてしまった。


 敵というだけで、会った事のない、どのような人間なのかも知らない相手を憎む。その不思議。だが、それは相手の人となりを知っていても、敵という理由だけで成り立つものなのだ。


 信時が今、以前姫を助けたのは自分だと、懐から巻物を取り出したら、姫は何と思うだろうか。


「いつも色々お気遣い頂き、感謝申し上げます」


 信時が考えていると、姫がそう言った。


「……え?」


「大上にも。御身にも」


 思いもかけぬ言葉であった。


「私の思いを尊重し、私を望み通り殺そうと、そう仰せ下さったのは、御身だけですから。大上の、日々のお優しいお心遣いも、有難く思っております」


「それは」


 信時は恨まれてはいないのだろうか。貴姫君の心は読めない。


 わからないながらも、敵意はないらしい姫の言葉に、信時はとりあえずほっとして、法化の琴を差し出した。


「これは、散位政任という方が、叔父君に贈られた琴の名器だそうですね。姫君にお返し致しましょう」


「それ!」


 中で動く気配が感じられた。膝で立ち上がり、そのまま絶句、立ち尽くしているようである。


 彼女は泣いているのかもしれない。


 やがて、


「有難うございます」


 心からの喜びと感謝が感じられる声で、やっとそれだけ言った。





 その夕、やはり三亥御前はろくに食事を口にしなかった。その幽鬼のような顔を姫は案じ、


「少しは召し上がったらいかがです?」


と言う。


 だが、三亥御前は弱々しく首を横に振った。


 この人、大上の来訪を煩わしく思っている。


「このままでは死んでしまいます」


「それでいい。私は敵の施しを受けながら、こうして生きている。生きるために敵の施しを受けなければならないのは、恥。施しを拒めば死ぬのなら、それも構わない」


「では何故、戦に負けた時、自害なさらなかったのです?生きてしまったなら、今更死んでも仕方ないでしょう」


「でも恥ずかしいのです。敵から慰められ、優しい言葉をかけられ、着物も食物も与えられて生きているのが。姫君はそう思わないのですか?」


 そう問われて、姫は逆に問い返した。


「恨んでいますか?復讐したいですか?」


「それは無論のこと!」


「でしたら、そのような態度はお改め下さい。従順を装わなければ、本懐を遂げることなどできませぬ」


「え」


「施しを嫌がる、大上に反抗的である──それは敵意あるものと、皆に警戒されましょう。越王の呉王への恭順を思い出して下さい」


 亡き羽林殿は、希姫君にも貴姫君にも、男と同様の教育をした。


 女は和歌を学び、仮名文字を美しく書けばよいとされ、漢籍なぞを学ぶと不幸になると言われていた。けれど、羽林殿は女にも学問は必要だと言った。


 今、その理由がわかったように三亥御前には思われた。


「臥薪嘗胆、その恨みの心さえ忘れずにいれば、従順が装いから誠に変わることはありません。いえ、恨みを覚え続けていればこそ、従順でもいられるというもの」


 姫のその言葉に、三亥御前はただ頷くばかりだった。


「わかりました。全くもって姫君の仰せの通り。私のような態度では、とても復讐など成し遂げられないでしょう。姫君の仰せに従います。ただ、私は弱い人間です。衣食住に困らぬ暮らしを営むうちに、今の暮らしが快適になり、恨みを忘れ、従順が装いでなくなるかもしれませぬ。そのようなことなきよう、姫君が私を見張っていて下さい」

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