正声・九拍──常棣の華(伍)
夜、敵の大進信時の軍勢七千は、渡瀬川に至っていた。そこから水路が築かれ、桜町館の堀の役割となっている。
水路を渡れば桜町館の裏手。館からはもう彼等の姿も見えているだろう。
さすがに館から矢が放たれたとしても、水路までは届くまいが。
橋が架かっている。この橋を渡っている間に、館内では攻撃の用意をするのだろう。橋の上には矢は届かない。しかし、橋を渡りきってしまうと。
館の櫓から矢の嵐。門戸が開いて、そこから、敵が次々に飛び出して来る。
猛攻撃に遭い、退却しなければならなくなった場合には、後ろは水路だ。橋は狭く、逃げようとする兵どもが集まって将棋倒しになる。水路に振り落とされる者で溢れ、逃げ場を失う。
考えるのが嫌になった。
言葉だけ聞いたことがある「背水の陣」とはそれか。
「水路を渡らず、こちら側での決戦に持ち込むには、どうすればよい?敵はわざと、我等を館の前におびき寄せているような気がする。それとも、敵の誘いに乗れば、我が兵は逃げ場がない故に、死んだ気になって闘い、思いもかけない力を発揮するか?」
わざと背水に陣をとる、そんな話もどこかで聞いた。
信時は判断に迷い、攻撃を躊躇した。
「敵を水路のこちら側におびき寄せるのでございますか?」
そう言ったのは、牧政氏であった。彼は本領と新しく手に入れた寂意入道の領地とを留守居の者に任せて、こちらに加わっていた。
他には俊幸、その甥・俊茂、信時の乳父の房清らがいる。
皆、信時の疑問を少しも解さず、速やかにこのまま桜町館に突撃しようと息巻いている。
館の門を打ち破るべく、太い丸太も加工して用意したという。
「手際のよいことだ」
と、信時は苦笑混じりに感嘆したが、政氏だけはそんな信時に何かを感じて、
「突撃する前に、一つ試してみますか?」
と言うのであった。
「敵をこちら側におびき寄せるには、餌が必要です。桜町館の奴らがその餌に釣られて、つい出てきてしまうもの」
「それは何か?」
「大進の君が御首級です」
「何だと!?」
そう激しく反応したのは房清だった。
「無礼にも程がある!」
「待て」
信時は強く制止して、政氏に続きを要求した。
政氏は恐縮しつつ。
「大進の君がここにおわすことを、大っぴらに敵に示しまする。敵が最も欲しいものは御大将の御首級ですから」
「軍旗や幟で、我が周囲を派手に見せ、我が首とってみよと挑発してみよう。皆は、我等の軍勢に怖じ気づいてこの信時が首も狙えず、館に籠もっている臆病者らよと、盛大に嘲笑してやれ。思わず腹を立て、こちらに突進してくるかもしれぬ」
信時が言うと俊幸は感動し、
「なるほど。左様な手があるので。我が君は素晴らしい!」
と、また目頭を熱くしている。
「いや。子供の頃、何かで読んだ。罵声攻撃で篭城を解いた云々。何で読んだかな?」
松明赤々と。
「我こそは大進信時である!」
云々始めた。
「我が首をとって手柄とせよ!」
一騎討ちの相手してやると。
しかし、桜町館の兵卒達は、ただ櫓の上や塀の陰から様子を伺っているだけだ。いったい、どれだけの人数が館内にいるというのか。相当数の兵が、ただ無反応に身構えている。
信時の大音声は、むなしく虚空に響いた。
「これは罵声の戦いですな」
政氏はそう言って、次なる作戦に移る。
「やよ腰抜けども!」
と始まり、怖じ気づいたか経実の洟垂れこわっぱ、逆賊め──と、次々に全軍をあげて馬鹿にした。そして、わははははと笑う。
しかし、全く無反応である。
「ほおう、我慢強い奴らじゃ」
俊幸は感嘆し、
「ええい面倒な。突撃致そうぞ!」
と、房清は短気だ。
しかし、信時は、
「あれだけ言われて、怒らないわけがあるか!それでも、挑発に乗らないのは、どうしても我等に水路を渡らせたいからではないのか?我等が水路を渡れば、相手には勝算があるのでは?」
と言う。もう、何だかよくわからない。
「いいや。或いはその逆かもしれませぬ。向こうは水路を渡れぬ。いや、戦そのものを回避したいとか」
そう言う房清に、先程から何か考え込んでいた政氏が頷いた。
「今は戦ができない、時を待っている……そうですよ。敵には別働隊がいて、その到着を待っている。今はまだ戦っても、兵の数で勝る我等には勝てぬ故、時を稼いでいるのです!」
「そうか!」
ばんっと激しく膝を打って、俊幸は興奮する。
「別働隊が到着してからでは我等に勝ち目はありませぬぞ。勝機を逃してはなりませぬ。今こそ館内へ攻め込みましょう!」
しかし、信時はなお頷けなかった。
「仮に敵が別働隊の到着を待っていたとしても、それまでの間に我等に攻撃されないとも限らないではないか。それを見越して、我等と決戦になっても、別働隊到着までの間、持ちこたえられるだけの兵と武器は確保している筈だ。敵の別働隊があるなら、今、攻めて行くことこそ、敵の思う壺ぞ」
桜町館を攻めている間に別働隊が到着したら、自分達は負ける。
「なんの!別働隊があるのは敵ばかりではござらぬ。こちらも、右馬助殿の軍勢がおっつけ到着されましょう!」
房清が叫んだ。
皆、そうだそうだと口揃えて言う。
信時は頷かねばならなかった。優柔不断な将帥は、皆を不安にさせ、士気を下げる。
信時は英断とは思えなかった。何が真実なのかもわからないが、「ええい、なるようになれ!」と、とうとう攻撃を許可してしまったのだ。
鬨の声が上がった。
橋を渡り、一気に桜町館の門を目指す。
案の定、橋を渡りきった直後から、矢と石と火矢の雨に遭ったが、死に物狂いでくぐり抜ける。
館から法化の兵卒達が飛び出して来る。刃を交えて戦いが始まった。
信時達は凄まじい勢いで敵をなぎ倒していく。
だが、最初は怯んだらしい法化党も、異様なまでに、まるで何かに取り憑かれたように攻撃してくる。
次から次へと、法化党は館内から湧き出してきて、切りがない。その間にも、館の内からは矢の攻撃が続いている。
阿鼻叫喚。
矢で射られ、火矢で燃える。
信時は敗戦を予感した。
だが、戦って戦って。少しずつ館の門が近づいてくる。
もしかして、自分達の方が優勢なのだろうか。
そんな気もして。血のにおいに酔った。
辺りは敵と味方の血の海で、滑りやすく、馬も脚をとられる。ごろごろ転がる屍からは火が出ていて、その焦げた残骸につっかかりそうになりながらも、じりじりと門へ近づく。
あちこち燃えて、辺りは明るい。
すると、俄かに法化党は退却を始めて館の門中へ逃げ込んだ。
「追え!」
敵の背中を斬る。
法化党は逃げ入ると門をかたく閉ざした。
「門をぶち開けろ!」
館からの矢の雨の中、房清の怒号が響く。
丸太が運ばれて、どおんどおんと門を打ち始めた。
桜町館の門は、房清らが用意しておいた太い丸太でぶち開けられた。
法化党は門を開けられるのを拒絶するかのように、中から幾重にも衝立をし、何としても開けられまいと、櫓の上から丸太を撃つ者めがけて矢や石を射ていた。
かなりの時間を要した。だが、ついに門はこじ開けられたのだった。
信時達は次々に館内へ雪崩れ込んで、手当たり次第敵を斬って行く。
館の中央の本陣では、館主の木工助業経が、地団駄踏んでいた。
「おのれ!寂意め!」
憤慨する相手は信時ではなく寂意入道だった。
「殿の水軍はまだか?」
周囲の侍大将に訊いている。
「約束は卯三つ、まだ二刻半ありまする。急を聞きつけ、急ぎまかられましょうが、まだ……あと二刻はかかるやもしれませぬ!」
「くそっ!計画が台無しではないか!何故寂意は君命に背き、下野に行きよったか!……保つか?殿のご到着まで、保つのか!?」
法化党は、寂意が桜町館に来なかったが為に、兵の数が足りず、敵を三方から包囲する作戦ができなくなっていた。
実は、元々は信時の考えた通りだったのだ。
信時に水路を渡らせ、そこで決戦に持ち込むつもりだった。館の中への侵攻を許す予定などまるきりなかった。
全ては、寂意入道の勝手な行動のせいである。
信時はどんどん攻め入ってくる。
勝利が見えた気がしたか。
勢いは増すばかりだ。
「木工助殿!はや、敵がもうすぐそこまで迫っておりまする!」
業経はその報告に、もう駄目だと思った。
焦げ臭い。
敵味方入り乱れて、刃のこすれる音、罵声、呻き、様々聞こえてくる。
業経は本陣を出て様子を伺った。
地獄だった。
あちこち燃えている。血しぶき、首、足!いろんな物が飛び交っている。燃える体。ごろりと倒れ……
その味方の兵卒達の苦患の表情!
「もういい!我が兵卒達の苦しむ姿なぞ見たくない!儂の首一つで皆は無駄死にしないだろう!!」
業経の蛮声は、ちょうどすぐそこまできていた政氏の耳に届いた。
「木工助業経か!?降伏されよ!」
館主・業経は降伏した。信時の勝利である。
だが、まだ戦闘は終了していない。どこもかしこも乱戦中だ。政氏からの報告を受けた信時は、
「未だ主の降伏を知らぬ者どもにそれを伝え、降伏を促せ。むやみに抵抗する者は仕方がないが、そうでない者には手を出すな。なるべく怪我をさせずに生け捕りにせよ」
と、皆に命じた。
俊幸は、
「若君。以後は、若君が召し使ってやると、約束してやっても宜しいでしょうか。いや、そう言ってやらねば、降伏する者ばかりもおりますまい」
と、信時を覗き込むように言う。
二人とも、馬から下りて歩いていた。
信時は頷く。
「敵の中にも気位の高い者はいよう。降伏を恥とする者を、無理に捕らえるな。自害を望むのであれば、その者が自害し果てるのを見届けてやれ」
「御意」
俊幸は頭を下げ、その旨を号令する。
その時、政氏の家臣がやって来た。
「大進の殿。捕らえた木工助業経によりますと、この館には、亡き羽林殿の乙姫君(おとひめぎみ・貴姫君)と、ご後室(三亥御前)が居らるるそうにございます。業経がお二方をお助け願たいと申しております」
「羽林殿の姫君とな?」
「はっ」
「どちらにおわす?」
「東の対とか」
「わかった。おおじ」
と信時は俊幸を傍らに呼び、
「東の対だ。供を」
と命じた。




