大序・一拍──呉楚派の起こり
大学頭行実という人は、幼少から漢籍に親しみ、作文に優れていたという。早くから大学寮に入れられていたが、前代未聞といわれた程の秀才ぶりであった。
殊に、大唐の言葉に堪能で、音博士や文章博士等が、教えを請うたという逸話がある。
行実は、音楽の才にも恵まれていた。琴の琴をこよなく愛し、七歳で羽調『易水』という曲を巧みに弾いた。
この国にも、琴の琴に秀でる人はいた。しかし、何れも行実の師に相応しいとは言えなかった。行実がこの道を極めるためには、大唐に渡るより他なかった。
ある時、遣唐使が予定された。行実はまだ少年だったが、帝にさえその名を知られる程の神童である。彼も留学生に選ばれた。
いざ、出発となったが、例によって海は荒れに荒れた。三度の失敗の後、ようやく入唐を果たす。だが、それは四隻の船の中のたった一隻だった。
行実の乗った船は、波間を漂い、何処か知らぬ南の国まで流された。そこは蛮族の住まう地であった。行実は恐ろしく、ここはさては餓鬼道か、自分は死んだのかと思った。
蛮族どもと言葉は通じない。だが、思いの外ここの人々は親切だった。それに、けっこう文明は発達している。商業は盛んだし、優れた航海術もあった。
行実達一行は、ある商船に乗せてもらうことができた。再び、唐の明洲を目指す。
だが、またしても船は難破した。そして、今度は壱岐に漂着してしまったのであった。この時、生存者は行実を含めてたった五人。
結局、入唐は断念し、都へ帰ることになった。しかし、行実の渡唐の夢は潰えていなかった。
それから十余年、行実が音博士であった時に、再び渡唐の機会が巡ってきた。遣唐使ではなかったが、一度に多くの人々が入唐する。
命を失うかもしれなかった。海は恐ろしい。だが、行かずにはいられなかった。
その強い思いが天に通じたのか、今度は拍子抜けする程容易に、唐へ辿り着くことができた。
行実は、先ず揚州を訪れ、開元寺などを見た。そして、曹倫という琴の名手と出会い、弟子入りを果たす。曹倫は、呉楚の音楽に秀でていた。
大変な美男で気品がある。色白で長身だが、存外がっちりしており、武官であったとしても、見栄えがしたであろう。だが、その姿に似ず頑固で、一途に琴道に励んでいた。
行実はこの師のもとで、初めて減字譜というものを目にした。琴は口伝できない程複雑で、奏法も難しく、譜なしでは、後世に伝えることなどとてもできない。そのくせ、奏法や音高、表現等を譜として記す方法がなかった。
複雑なために、印では上手く伝えきれないのである。そのため、どの絃のどこの徽を左手のどの指でどのように押さえ、右手はどの指でどのように弾く云々と、延々と文章で綴るしかなかった。
この文章による譜しか、行実は知らなかった。
ところが、こちらでは減字譜という試みが、一部の琴士の間で行われ始めている。右手の奏法、左手の奏法を表す各字の部首のみ記して、それを決まった位置に配置し、徽や絃の番号と組み合わせて集め、一つの文字のような形に置く。
これだと、たった一音を記すのに数十字も要したものが、一つの文字のようなもので済む。ただ、未だこれといった優れた減字法は発明されていなかった。
行実は、曹倫の試行錯誤中の譜や、隋の僧の譜、中唐の曹柔とかいう人の譜を見ることができた。
曹倫の夢は、琴楽界共通の減字法を生み出すことだという。
ところで、曹倫は行実の才能に心酔して、すっかり彼を気に入り、家族的な親しみを示すようになっていた。曹倫は、行実を自分の邸に住まわた。
曹倫の館は水辺に建つ。それは大変に美しく、三国呉の周郎の煙水亭を思わせた。そして、そこには小橋夫人を連想させる佳人が住んでいた。
行実はたちまち心を奪われた。
「傾国という。絶世の美女は、よき策だ。国の存亡を左右する策ともなる。彼女も今まさに、その策として利用されようとしている。だが、どうして、妹が後世まで傾国よと罵られるのを喜ぶ兄がいるだろうか」
と、曹倫は美しい妹の行く末を憂い、彼女を行実の妻に差し出した。
素晴らしい妻を得て、行実はこの地に骨を埋めることを決意した。
ところが、二十年余り経過したある時、妻が急な病で死んだ。行実は悲しんだ。悲しんで悲しんで……
だが、曹倫の嘆きはそれ以上だった。死んだ妹を、せめて絵にして眺めたいと、彼女をよく知る絵師に彼女を模した洛神を描かせた。
彼女の死から大分経ち、少し落ち着いた頃、行実は帰国を考えるようになった。
「貴殿の使命は、日本にその優れた琴道を伝え、広めることだ」
曹倫もそう言って、数十帳の琴、数十冊の譜を行実に与えた。さらに、妹の絵は何枚かあったのだろう、その中の一枚を餞別として贈った。
これ等を持って、行実は二十二年ぶりに帰国した。
帰国後、日本で行実は琴神と称された。帝にも重用されたが、大学頭となってしばらく後、病のため辞職、邸に引きこもる日々となる。
邸に琴堂を設け、中に祭壇を置いて、その中央に愛妻を模した洛神図を掲げる。それを毎日眺めながら琴を弾き、およそ四十年、鬱々と病み悩みながら過ごした。
弟子は数人。灌頂させたのは明法博士であった者ただ一人。
これが、わが国の呉楚派の始まりである。




