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正声・九拍──常棣の華(肆)

 敵の先鋒隊は既に下野にいた。それを率いるのは大進信時。兄の時有も進発した頃だろう。


 信時軍はそろそろ休憩に入る頃合となった。


「若君。ここで休みましょう」


 駒を並べていた俊幸が言う。


「ここか?」


 なんでまたいつもここになるのだろう。ふと信時の頭に掠めるものがあって、彼は慌てて頭を振った。


 まだまだ甘いと思う。根からの士なら、戦の時に、余計なことは頭に浮かばないだろう。信時はまだ貴族が抜け切れていない。


「もう少し先に……」


「はあ?」


「休憩はまだ……」


「はあ!?はあはあ」


 馬鹿に大声で聞き返すと、何と聞こえたか俊幸は頷き、


「休憩!」


と、大音声で号令した。


「なんだ?」


 信時が目を剥いて言うと、俊幸は顔を傾げ、


「聞こえませぬ」


と言う。そして、旗下の者どもに、


「さあ休憩だ。たんと休めよ」


と、嬉々として言い回るのだ。


「おおじ……!」


 年寄りは都合が悪いと耄碌したふりをし、聞こえないふりをする。何と便利な生き物か。


 信時は自分が年寄りになったら、必ずこの策士になってやると思った。


 夏に行きずりの少女を助けた場所だった。


 遠くに件の庵が見える。


 絶対に行くものかと思う。


 信時は心の奥底から湧き出だす欲求を無理に抑えようと、そっぽを向いた。 両の拳を握り締め、堪えていると、いきなり耳元で、


「あれ!あれ!」


と、がなられる。


「なんだよ、おおじ!」


 耳を押さえて振り返った。この手を鼓膜に直にあてたい。


 俊幸が指を差していた。


 どうして俊幸も自分も、こんなに目がよいのだろうと思う。


 俊幸の指差す先には、件の庵の件の尼がいた。


 尼は群れ居る軍勢の中を果敢に歩き、何かを探している様子である。そして時々、兵卒に話しかけたり、話しかけられたり。


「何をしているのだ?」


 思わずそう呟いた時。


 向こうも優れた視力の持ち主だった。


 信時と目が合い、ぱっと尼は顔を輝かせた。笑顔で会釈すると、いきなりこちらに向かって駆け出す。


「若君に用事があったのでしょうな」


 俊幸はそう言って、何故か莞爾と笑った。


 このままだと、尼は咎められて捕らえられる。


 何しろ総大将目掛けて突進しているのだから。


 信時は駒のまま、自ら尼の方へ進み、尼を怪しむ兵卒達に手を挙げて、手出し無用と合図した。


 尼のすぐ目の前まで来ると、駒を下り、手綱をそこの兵卒に預ける。


 尼は、


「ああ、よかった。軍勢が通る度に外に出てお探ししていました。やっとお目に掛かれました」


 そう言いながら、信時に改めて会釈した。


「捜す?私をですか?」


「はい」


 尼はそう言って、天の用意してくれた巡り合わせを喜んだ。


「あの折は、有り余るお心遣いを賜りまして」


「いえ」


「お蔭で、かの御方もすっかりよくなられましたのよ」


「っ!」


 信時の最も気になるそれを尼は口にした。


 彼女はどうしたか、今どこにいるのか……知りたくてたまらない。


 無理に抑えていた感情が途端に溢れ出してきてしまった。


 それを察したか、問われもしないのに尼は話し始めた。


「あの御方は大事には至らなくて。数日お休み頂いたら、すっかりよくなられました。助けて下さった方にとても感謝なさっておいででしたよ。御礼をしたいと仰せられて──」


 尼はそこまで言うと、衣の袂を探る。そして、そこから巻物を取り出した。


「もし、助けて下さった方がここを通られるようなことがあったならば、これを渡して欲しいと」


 言いながら、尼は巻物を手渡した。


 法華経らしい。


「いかなる礼物よりも、助けられた真心には真心で返したいと、かの御方がおん自らお書きになりました。一文字一文字に心を込めて。助けて下さった方のご健康を願われ、書いておわしました。戦場に赴かれる御身の、よき御守となりましょう」


「……これを……あの方が、私に?」


 目を開けた顔を見たことのないあの娘が、目を開けて、自分のために書いてくれた。想像しただけで、全身甘美な感覚に満たされる。


 尼から受け取ったその巻物は、あの娘が手に触れていたもの。巻物を介して娘の手の温みに触れたようだった。


「……あの御方は、今どちらに?」


「もうお帰りになりました。どちらにお住まいかは存じませぬ」


「……」


「どちらのどなたなのか、お尋ねしても、あまりお答えになりたくないようでしたし……それに、御身の御名前も存じませぬ。でも、私はその方がよいのだと思います」


 尼は穏やかな笑みをたたえている。


「かの御方は身分ある御方のようでございました。御身は戦に明け暮れる方。たまたまお味方ならば、幸い。ですが、敵かもしれませぬ。私にはよくわからないことですが、敵とは、敵というだけで憎むものなのでしょう?会ったこともない人でも、敵ということで、どのような人柄かもわからないのに憎む。戦場で相見えて、殺す……もしも御身とかの御方が敵だったら、憎むべき相手です……でも、お二人は、人と人として出会われた。一人の人として、御身は助け、一人の人として、かの御方は感謝した……」


「……そうですね。確かに」


「だから、お二人はお互い御名前を知らない方がよいのだと思いますよ。人と人として。ええ、ですから、私は御身の御名前は伺わないことに致します。どうぞご無事で戻られますよう」


 その後の行軍は、切ないような甘いような、おかしな感覚であった。尼から渡された巻物は、父の数珠とともに信時の懐奥深くに秘められている。


 あの娘をぎゅうと抱きしめているようで、熱かった。






 下総の桜町館から程遠からぬ所に、寂意入道は邸を与えられていた。


 兵二千を預けられ、自らの兵三百と合わせて二千三百。彼は桜町館に入り、館主・木工助業経(もくのすけなりつね)と共に、敵を迎え撃つことになっていた。


 敵をこちらに引き付けておく間に、別働隊が常陸から峠を越えて下野に入り、寂意のもとの所領を奪還するのである。


 下野に向かうのは直道(なおみち)とて、経実の乳父である。直道の所領は、法化党の中で、最も下野に近い所にあったからだ。


 寂意は下野には自分が行きたいと望んだが、急を要するため、近い者でなければならぬと、許されなかった。


 渋々寂意は桜町館に兵を向けることにした。


 まず、敵に桜町館を攻めさせる。頃合を見計らって、希姫君率いる本隊の半分が、利根川を伝って一気に桜町館の右翼に出、さらにその半分が水路を使って渡瀬川に回って、敵の背後に回る。敵を三方から囲んでしまえというのだ。


 そうしている間に、直道が下野に侵攻するのである。


 法化党の計画を、敵は知らない。

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