正声・九拍──常棣の華(弐)
小高い丘の上。
眼下には一面、見事な田。果てしなく続く。広い平野全てを埋め尽くしているかのように。
騎馬の人が四、五人ばかり、その丘から田の緑を眺めていた。
稲からは穂が出ていて、今年も豊作だろう。
騎馬の人々は、皆満足そうに笑顔を浮かべている。
その中に一人、他とは明らかに雰囲気の異なる人がいた。
まだうら若い、紅顔に背丈より長い黒髪。凛とした白い顔は、男とも女ともつかない。なんとも中性的な不思議な色香が漂っている。
紅という色鮮やかな水干を着ている。水干だから男装だが、果たして男なのだろうか。
長い髪を一つに束ね、颯爽と馬に跨る姿は、とてつもなく美しかった。
その人は言った。
「のう、三郎」
澄んだ美しい、女性の声だった。
「はい、希姫君」
三郎と呼ばれた荒夷は、かしこまって返事した。
希姫君と呼ばれたうら若き人は、眼下の稲穂に目を向けながら、ぼんやりとした調子で言う。
「版図を広げ、領地を豊かにするには、どうするべきだと思う?」
「……は……」
三郎は困って、隣の入道の顔を見る。
「兵を養い、強き力で周辺の弱小な地を攻めまする」
答えたのは入道だった。
「まあ、そうだな。普通はそうするだろう。だが、それでは我等は貧しくなるばかりだ。確かに、兵力があれば、弱い所に攻め込んで、容易くそれを手に入れられる。領地は広がる。だが、軍事力が増せば増す程、金がかかって貧しくなるのだ。年貢は高くなる。兵の数も要る。農民からも兵を集めなくてはならぬ。田も畑も耕す人が減り、収穫量は減るだろう。それなのに、年貢は高い。領民は疲弊するな。強き軍とは貧乏なる軍なのだ。戦では領土は広くなっても、決して豊かにはならぬ」
希姫君の言葉に、入道達は青くなる。
「姫は法化党は間違えていると仰せか?殿の御意には従いかねると?」
「まあ、な。兄の経実は戦場に行ったこともなければ、軍事訓練もしたことがない。領地を見回ったこともなく、ただ机上の策……」
「姫!」
入道が遮る。
姫は肩をすくめ、入道の方を振り返った。
「すまぬ雲門。別に私は兄が嫌いなわけではない。この身の扱われ方に不満があるわけでもない。ただ、我等の戦に間違いはないのかと不安になっただけだ」
そう言って、ちろっと舌を出す。
そんなふうに無邪気に振る舞われては、叱る気も失せる。雲門入道は、ふうっと息を吐き出した。
姫は悪びれることもなく、さらに重ねて言うのだ。
「戦をしなければ、豊かになるだろう?領民には兵役もなく、耕作に専念できるから、収穫量は上がる。国庫も、戦がなければ、集めた年貢を使わず貯めておけるから」
「しかし、領地は広がりませぬぞ」
すると、姫はくすっと笑った。
「なあ。主というものに、代わりはあると思うか?」
突然話が変わって、入道も三郎も目を白黒させた。
「領民から見たら、領主のかわりなんか幾らでもいるな。それまでの領主が敵に滅ぼされ、敵将が新たにその領主となれば、領民はその新しい主に従うしかない。──新しい主は敵だった者だが、どうしてどうして、年貢は少なくて大助かりだと、先主のことなど忘れて、新しい主を受け入れるだろう」
「何と仰せか、主にかわりなど!」
入道はつい憤慨する。
「家臣達はそうだろう」
姫は笑う。
「だが、民には家臣達のような忠誠心はない。民にとっては主なぞ、いくらでもかわりはいるのだ。年貢が安く、兵役のない、楽しく豊かな暮らしをさせてくれる主こそ、民にとって歓迎すべき主だ」
「……」
「もし、そんな都合のよい領主がいたら、領民は喜ぶこと間違いない。だが、それだけでない。周辺の領地の民とて、そこの民になりたい、その領主に治めてもらいたいと思うのではないか?放っておいても、土地が民を伴って押し寄せてくるようになる。『我等もあなたに治められたい!』とな。戦せずとも、領地は広げられるのだ」
入道も三郎も激しく心を動かされたようだ。
三郎は、
「そうか!領地を広げるには、戦をしないことが最良の道なのか!」
熱く叫ぶ。
その大音声に迷惑そうな顔で、姫は、
「いや、これは間違いだ」
と言った。
「なんでですか!?」
三郎はやはり大声だ。しかも甲高い。
「どうしてこうも常陸の人間は甲高く大きな声なんだ」
言ったのは入道だった。
「うっせえな、都がら来だからってえ、気取ってんなあ」
つい訛りが出て怒るのを、まあまあと姫はたしなめる。で、
「何ですか、希姫君、何故間違いなのですか?」
と三郎は顔を赤めて俯き加減に、言葉を探し探しそう言って、話を本題に戻した。
姫は頷く。
「普通は力ずくで、領土を広げるものだ。そうやって広い領地を手に入れてきた者には強大な軍事力がある。そこに、豊かで広大な地があったら、彼等は欲しがるだろう。しかも、その地に兵はない。兵がないなら、軍を持つ者は容易く攻め込める。こうして兵を持たない豊かな地は、野蛮な奴らに呆気なく滅ぼされる」
「……」
「ま、要は均衡だな。領地を守るだけの兵は必要だ。もし、それまでの主が滅ぼされ、新しい暴君が領民を奴としてこき使ったら……年貢を高くしたら、領民は気の毒だ。領土を奪われず、領民を守ることは、領主の責任だ。侵略者から守るだけの兵力は必要だな。盗賊だらけの今の世には」
それから、希姫君は再び眼下に目をやった。
彼方の田では、農民がせっせと野良稼ぎをしている。
「そろそろ戻るか」
姫は呟くようにそう言うと、手綱を操り、馬を歩かせ始めた。雲門入道らもそれに続く。
やがて、田の中の道に至り、そこをさらに進んで行くと、農民達が休憩中なのか、三人ばかり集まって話に興じているのが見えた。だが、希姫君達に気付くと、途端に口をつぐんでしまう。
姫はできるだけやわらかい笑顔を作って、彼等に話し掛けた。
「よい。楽にしなさい」
けれど、彼等は畏まったままである。まあ仕方のないことだろう。
姫は明るく、そして優しく、
「何か変わったことはないか?不便なことは?望みは?もしあるのなら、遠慮なく言って欲しい。何か質問は?」
と尋ねる。
農民達は地に両手をつけたまま、互いの顔を見合った。何か言いたそうである。
浅葱色の衣を着た者に三郎が言った。
「何だ?おぎぎしたいこどがあんなら、遠慮しねえで言え。その方が、姫のためにもなんだぞ。おめえ言え」
指名されて、浅葱衣の男はぺこぺこ地に頭をつけた。
男はその姿態のまま、やっと言った。
「……ち近頃、下野の方から、大軍が攻めできるって噂があんので……きないっていう噂もあっけども……もしもきっちゃったら、おら達なじょうしべと思っで」
「案ずるな。ここまでは来ぬ」
姫は笑顔である。
「それに、万が一我等が敗れ、滅びるような事になっても、こなたたちは何も困ることはない。我等が滅んでも、地面は残る。もっと大きな話をすれば、譬え国家は滅びても、国土さえ消えなければ、人は生きてゆけるのだ。遠き唐土に目を向けてみろ。かの地、幾度国滅びたか知れぬ。新しい国が生まれては滅び──それを繰り返しているが、幾度国滅びようとも、異民族の支配下に置かれようとも、民には関係ないことであった。この国とて、仮に海の向こうから攻められ、滅び、異国の占領下となろうとも、こなた等は滅びぬ。人間、食物を作る地面と雨風を防ぐ家さえあれば、生きられる。我等は立場上、責を負うて死なねばならぬが、こなた等は新しい主の下、何一つ変わらず生きてゆける。地面さえ消えねば。……民はいかなる時も生きてゆける。誠の勝者は民だな」
余りなことに、農民達も入道も三郎も皆、二の句が継げない。
白けてしまったので、姫は跋が悪そうに、ふいにからから笑い出した。
つられて皆も同様に笑う。
姫は、
「すまぬ。先程と矛盾したことを言ったか、私は」
と言った。
丁度その時、向こうから館の者が飛んで来た。
「姫!殿がお召しです。疾くお戻りを!」
館に帰ると、希姫君は着替えて髪を梳いた。化粧も直す。
五衣に身を包んだ彼女は、どこから見ても女人だった。ただ、普通の女人よりは、やはり凛としていて、なお中性的な美が匂い立っている。
衣服を整えると、希姫君は兄の病室へ向かった。
そう、常陸から下総を領する法化党の棟梁・経実は、殆ど毎日床に臥していなければならない程の病人であった。
「兄上、お加減は如何ですか?」
そう言って、病室に入って来た希姫君の若い健康が、経実には眩しかった。
「ほう。今日は今頃の百合の花みたいに女らしいな。珍しいこともあるものだ」
そう言ってからかう経実は、まるで男装した時の希姫君のように、面差しがそっくりだった。
「何ですか、兄上、中年男みたいに」
姫は恥じたのか、ちょっと俯いて、経実の枕元に座った。
経実はくすくす笑う。
「おもとでも、やはり、女らしいと言われれば嬉しいよなあ」
「兄上は女のように美しいと言われて、嬉しいのですか?」
「いや」
「だったら、聞くまでもないでしょう。私は男ではありません、女なのですから。父上に、男ならよかったのにと言われる度に悲しかった」
「そらま、儂も父上から淑やかだと言われるのは嫌だったわな。あははははは」
兄妹そろって、声を立てて笑う。
大床に控えていた重臣の禅円が、
「姫君は男も敵わぬ大力。その辺の猛者より、お強うござる。男より武に秀でておわす故、女人であるということを、つい置き忘れて考えてしまいまするが……そう、御心は淑女でいらせられましたなあ。乙女の御心を傷つけ──」
とそこで言葉を切った。
兄妹は笑いをおさめた。
「兄上の替え玉になって戦場を駆け抜ける、それは自ら選んだこと」
希姫君は笑顔の名残を留めたまま、そう言った。
そう。経実は子供の頃から病弱で、一度も戦場に出たことはなかった。
戦場で見る、颯爽たる法化党棟梁の勇姿の正体は、希姫君だったのだ。
希姫君が経実として、獅子奮迅の働きをしていた。




