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正声・九拍──常棣の華(壱)

 ゆったりとのどかな瀞か。次第にさらりさらりと流れて行く。少し流れは速くなり──やがて、急流に向かうのであろうか。


 琴の琴の名曲『高山流水』。「高山」と「流水」の二曲よりなるこれは、かの伯牙の作という。


 その「流水」は超絶技巧を尽くした難曲。


 それを平然と弾いているのは、七絃七賢の三位殿だった。暑い夏。彼の額には薄っすら汗が滲んでいる。


 四辻内大臣殿の邸。泉殿。池水の上に建っているこの泉殿には、涼しい風がそよいでいる。


 その池の水面の穏やかさとは対照的に、曲はいよいよ佳境に入り、その音は次々と曲の激流に呑み込まれて行く。


 甥でも招いて、暑い夏の疲れを共に夕涼みで癒やそうと、四辻内大臣殿は考えたのであった。三位殿の琴でも聴いたら、きっと爽快になる。


 だが、思いもかけず、技巧を尽くした曲だったので、四辻殿は爽快だが、三位殿は暑そうだった。


「すまなかったね。こんな難儀な曲を弾かせてしまって」


 弾き終わるなり、四辻殿はそう言って詫びた。


「とんでもない」


 三位殿は笑顔で汗を拭っている。


 涼やかなそよ風が、水面を渡って泉殿の中にも入ってくる。


 このまま、まったりと時は流れて行くのだろう。そう感じた時、俄かにこの場の雰囲気に似つかわしくない騒音に、襲撃をくらった。


 びっくりして、甥も叔父もその凄まじく慌ただしい大きな足音の方に目を向けた。


 すぐに息を切らした家司の預所が飛び込んでくる。


 普段は物静かなこの預所の頗る意外な行動に、四辻殿はただただ呆気にとられていた。


「どうしましたか?」


 声をかけたのは三位殿だった。


 ぜいぜいと肩で息つきながら、預所は辛うじて、


「一大事です!」


と言った。


 よほどな一大事であるのは、この男を見ればわかる。


 けれど、努めて三位殿は静かに問うた。


「何がありました?」


「はいっ」


 そこで、一つ大きく息をしてから、預所は一息でまくし立てた。


「下野の領主・寂意(じゃくい)入道が、かねてより対立していた牧の領主に攻撃され、敗れました!」


「は?」


 預所はその息のまま、


「荘園は今、牧の領主の手に落ち……」


と、そこで息が続かなくなり、げほげほげほと咳き込む。


「それでは、大臣(おとど)の荘園は一つ奪われてなくなったということですか?入道は?」


 今にも卒倒しそうな四辻殿の傍らで、冷静に三位殿が尋ねる。


「はい。はい……いかにも、大臣の荘園は奪われました……入道はどうにか逃げて、常陸の法化(ほっけ)党を頼ったそうにございます」


「法化党?」


 初めて三位殿の表情が揺らいだ。三位殿は預所に向けていた目を四辻殿に向ける。


「大臣。法化党に頼んで、荘園を取り返してもらいましょうか?」


「なんでまた……仕方がないよ、諦めよう」


「大臣がそれでよいなら構いません。でも、法化党の棟梁は、かの常陸の羽林の子とも聞きまするが」


「御意にございます」


 預所が答えた。


「常陸の羽林は、烏丸の大臣によって流罪となり……赦された後もなお同地に留まって、そこで死したとか。かの人の忘れ形見が、同地で武士団を率いて、今はその領土を下総にまで広げているとか」


 預所に大きく頷いて見せ、三位殿は言った。


「もし、その法化党の棟梁、誠に羽林が子であるならば……それは、長年探してきた伊賀守為長が甥に違いない。為長は私の兄弟子、七絃七賢の一人。伊賀守として下向した任国で、消息のわからなくなった兄弟子です。為長は姉とその子達を連れていましたが、皆行方不知になってしまいました。姉の夫君が常陸の羽林です。もしも、もしも!」


「わかったわかった、三位。法化党に文を遣わしてみよう」


 そこでようやく四辻殿は声を発し、かえって慰めるように言ったのであった。





 下野の寂意入道に勝利した信時が、その地を牧政氏に任せて上野に凱旋したのは、丁度水無月払いの日だった。


 翌日からは、秋ということになる。しかし、とてもそうは思えないほど暑く、秋の気配は露ほども感じられなかった。


 上野の牧邸に入ってすぐ、物の具解く暇さえなく、信時は時有に呼ばれた。


 牧邸はこの辺りでは珍しく、寝殿造りだった。時有はその寝殿に鎮座している。左右にずらりと家の子郎党が居並んでいた。


 その場に安友はいなかった。


「安友の君は北の対だ。母上をお迎えするのに必要な調度などを、準備して頂いている。何しろ田舎者ばかりで勝手がわからんからな。安友の君に指示を貰わなければ、誰も動けぬのよ」


 時有はそう言った。


 時有を主君と仰ぐ各地の武士団だが、安友の位はその主君と同じ、六位だ。無位無官の彼等から見れば、安友も時有、信時と同じ、雲の上の貴人。


 だから、時有も安友を客人として扱っていたし、武士団も安友には慇懃に礼を尽くしている。


「そうですか。我等の母のことですのに、安友には申し訳ないですね」


 信時はそう言って席につく。


 信時の席は時有の隣。上座だった。


 信時が着席すると、時有は、


「帰ってきたばかりですまぬが、また戦だ」


と言って、おもむろに目の前の蒔絵の文箱を開けた。


 聞き咎め、


「戦?どこへ?」


と信時が言っている間に、時有は箱から文を出す。烏丸左大臣殿からの文であった。


「大臣がおことを褒めておいでだ。労いの御言葉と褒美を頂戴した」


「それは勿体無い。しかし、戦とは?」


「下総に攻め入る。法化党の領土だな。寂意入道めを匿っておるからな」


 信時は目を剥いた。


「さような理由で戦なぞ!」


「版図を広げねばならぬ。幸い法化党の本拠地は常陸の海辺。下総は本拠よりも遠く、兵も手薄だ。寂意を匿っているということで、攻め入る理由もできた。それに、これは大臣もお望みのことだ」


「どうして大臣が?」


「それは──」


と、信時の問いに答えようとしたのは、下野の小豪族・時光(ときみつ)だった。


 この人、元の名は光顕(みつあき)といった。時有に謁見した時、忠誠の証に、持っている兵馬、財産全てを時有に献じ、時有から名を授けられたのである。


「法化党の棟梁・経実(つねざね)は、常陸に流された羽林殿のお子です。羽林殿が流されたのは烏丸の大臣のせいだなぞと逆恨みして、大臣の荘園を荒らしたこともあります。盗賊と何ら変わる所ありませぬ」


 だから、烏丸左大臣はその法化党を苦々しく思っているのか。


「それに。こちらから仕掛けなくとも、法化党はこちらに攻めてくるでしょう。それがしの調べによれば、四辻の大臣から、寂意入道の領地を取り返してくれるよう、依頼があったようにございます。着々と準備を整えておりましょう」


「まさか!」


 信時は思わず立ち上がった。


 自分の立場からいえばおかしな考えだが、信時は、四辻殿がそんなことをする人とは思えなかった。烏丸左大臣は政敵と見なしていたが、そんな野望も痴夢も、四辻殿にはなかったように思われる。


「人は変わるのだよ、信時。皇子が生まれて、四辻の大臣は、帝の外祖父になる夢を抱き始めたのだ」


 時有の言葉を、信時は耳を塞ぎたい思いで聞いていた。


 では、父と自分達兄弟との関係はどうなる。


 信時は心の中でそう呟いた。


 戦は決まった。


 烏丸左大臣と四辻内大臣の争いは、まずこうして地方の所領争いから勃発することになる。


 信時は北の対にいるという安友を訪ねた。


 安友は従者どもに、几帳の配置を指示している所だった。


「やあ」


 安友はすぐ気づいて、作業を放り出して駆け寄って来る。


「悪いね。母のことなのに、何もかも安友にやってもらってしまって」


「いいよ、楽しいし。信時こそ戦戦で大変ではないか。また戦だそうだな?私は居候の身なのに、戦にも行かず、楽ばかりさせてもらっている。申し訳ないね」


 そんなことを言って、本当にすまなそうに笑うのが、何だか信時には悲しかった。


 悟られまいとして、すぐに本題に入る。


「聞きたいことがある。常陸の羽林殿のことを聞いたことはないか?法化党はその子が率いているらしいが、敵のこともよく知らないまま、攻めて行くのは危険な気がする。羽林殿のことを知りたい。皆田舎の者だから、羽林殿のことはよく知らないらしいのだ。安友は都人だから、もし、都で羽林殿の噂を聞いていたらと思って」


「信時は知らないのか?」


「うん。烏丸の大臣が流罪に処したとしか知らない」


「ふうん。私、もう少し知ってるよ。羽林殿は信時達が苦々しく思っている、陸奥の在庁則顕の伯父だよ」


「えっ?」


 信時は思わず問い返した。


「なんで……」


「都にいた時、知り合いの女から聞いた」


「……」


 信時はまじまじと安友を見つめた。


「恋人か?」


「は?」


 信時が言った言葉があまりに意外で、今度は安友が、その小さな口を見つめてしまった。


「恋、だ……?」


 暫しの沈黙の後、安友は急に可笑しさがこみ上げてきて、ぶっと吹き出すと、そのまま笑い始めた。


 この小冠者が、そんなませた言葉を口にするなんてと、可笑しくてたまらない。


「何故笑う?」


「いや、純朴な若君が、大人みたいなことを。あははははは」


 腹を抱えて笑うのを、信時は口を尖らせ、


「同い年だろ」


と、小さな口を余計に小さくして尖らせているのが、可愛らしい。


「いやすまん。あはは、おことも大きくなったな」


 などと言って、なおからかっているのだ。


「もういい!」


「悪い──恋人ではないよ、寧ろ敵だね。あの女、私を馬鹿にして、緑腰博士なぞと呼ぶのだ」


「緑腰博士?」


「それはいいんだ、どうでも──その女、弟がいたのだが、それが陸奥守の養子で。陸奥在庁は陸奥守の子だから。羽林殿は陸奥守の兄君だよ。それと、法化党の経実は、多分、七絃七賢の甥だ」


 安友は久しぶりに、清花の姫君の女房・讃岐のことを思い出していた。思い出しただけで腹が立つ。


「七絃七賢というと?」


 信時の問いに、怒りを飲み込んで、安友は答えた。この情報を知っているのは、楽人ならではだろう。


「散位政任の弟子だった伊賀守為長。かの人の姉君は羽林殿の北ノ方だった。三人のお子がいたけど、羽林殿が流罪になったので、やむなく別れて、北ノ方はお子と共に、伊賀守を頼った」


「ふうむ?」


「伊賀守は姉君と子供達と共に伊賀へ下向した。それから間もなくだな、伊賀守が行方不明になったのは。姉君も子供達も行方不明なんだ。賊に襲われたという話もある。もし、経実が羽林殿の子なら、その時難を逃れて父君を頼ったんだろうな。気にならないこともない。法化という名だ。昔、政任朝臣が伊賀守に授けた琴の名が、法化というらしい」


 法化については、清花の姫君から聞いたことだった。


「だから。法化党は大臣の荘園を荒らしたのか。父の敵と思っているのか……しかし、陸奥の在庁と親しいとは、厄介な」


 信時はまだ見ぬ法化党が、実はとてつもなく巨大で強大な気がして、俄かに怖くなった。


「攻めるのは、どこ?」


「下総。下総の桜町館。今回は兄も出陣する」


「だったら大丈夫だな。桜町館は手薄だろ?」


「そうかな……」


 法化党の西の要・桜町館は、利根川と渡瀬川を左右に持ち、幾つかの水路を築いていると聞く。


 川というのが、どうも気にかかった。

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