正声・八拍──新院の六の宮(下)
四辻内府の御娘・寛子女御は新院の御子を身ごもっていた。
この女御が寵愛を受けるようになったきっかけ。それは。
新院は父帝の皇后宮の御子として育ったが、実は生母は小宰相局という人であった。小宰相局は新院を産んで間もなく亡くなったので、院は皇后宮に養われることになった。
ところで、生母・小宰相局は四辻内府の叔母であった。だから、昔から院は、四辻殿とは親密だった。
そういう関係から、四辻殿は娘の寛子を在位時代の新院に参らせ、侍かせた。そして寛子は新院の最愛の女性となり、院退位後、彼女に女御宣下があったのであった。
その寛子女御から生まれるのが男皇子ならば、世に異変が起こるに違いない。
世の中は烏丸左大臣に牛耳られているが、彼に疎まれ、累進の望みのない人々の多くが、院司となっていた。
今上は烏丸左大臣の姉の御腹。東宮は今上の一の宮だが、その御母は烏丸左大臣の娘の明子皇后。
今上は次の御位には当然東宮を就けるつもりでいる。
だが、ここで、父院の寵姫が出産することになったのだ。
今上としては、父院を信じたい。だが、最愛の女が産んだ子供が、他のどの子よりも愛おしいのではなかろうか。
「院司どもに唆されて、産まれてくる宮を、次の帝に据えると仰せられたら……」
今上は女御の御子が女宮であることを、祈り続けている。
「朕も人の子の親。母后の敵である女御の産む弟宮を、憎むまではないにしても、我が子の東宮より大事に思うことはできないであろう。やはり、朕にとっての宝は東宮なのだ」
何としても東宮を御位にと望んでいる。
東宮が即位するのは、当たり前のことだ。東宮がありながら、それを廃し、別の皇子を御位につけさせるということは、あり得ない。
だが、今、政権を担っている治天の君は新院なのであって、帝ではない。変な話だが、帝には力がなかった。
日頃から、自分がただの飾りであるように感じている。
さらに、皇后の父の烏丸左大臣にも逆らえないのだ。完全に操られている。それが何とも不甲斐ない気持ちだ。
寛子女御は四辻殿の娘だが、この四辻殿は烏丸左大臣の政敵。
四辻殿自身は穏やかな人だが、異母兄の風香殿がよくない。
風香殿は完全に烏丸左大臣を嫌い、憎み、左大臣の方でも、「いつか必ず滅ぼさむ」と思っていたのだ。
悪いことに、風香殿は新院の別当。左大臣に対立する院司達のまとめ役である。
この風香殿率いる不満分子どもが、寛子女御の御子を東宮にしようと動くことは必然だ。新院も最愛の女性の産んだ最愛の宮のことならば、逆賊どもの奸計にのせられてしまうかもしれない。今の東宮を廃位しようとするかもしれない。
今上は親心としても、東宮の地位を守りたかった。そして、君主として、世の中が乱れることを憂え、やはり女御は姫宮を産むべきだと願った。
……のであったが。
夏の終わり。
四辻内大臣の邸に里下がりして女御寛子が産んだのは、やはり男皇子であった。六の宮である。
新院の六の宮はとても健やかなよい皇子で、数多の人々の異常な歓喜の中、この世に迎えられた。
盛大な産養が行われた。
三日の夜は祖父となった四辻内大臣殿、五日の夜は風香殿と中納言殿(内大臣殿の嫡子)、七日の夜は御父・新院、九日の夜は本院とその后宮(きさいのみや・太皇太后宮)とが御産養をした。新院の殿上人は残らず参集して、恐ろしく熱気に満ちた祝宴となった。
今上も弟宮を祝いはしたが、み心に曇りがなかったわけではない。院司達の熱烈さは、やはり今上を不安にさせる。
「……孫は可愛いものだ。だが、子への思いは特別。子と孫とは比べようがない。自分の命そのものだ、子は。院が、東宮よりも六の宮を大事に思われるのは、当然のことではあるまいか」
九日目の御産養の日にも宮中に参内していた烏丸左大臣殿へ、今上はそう言った。
それに対して、左大臣殿、
「院の庁の人々が、あらぬことを企まぬか、案じられてなりませぬ。あの異様な熱狂ぶり。東宮を廃し奉るよう、院へ進言するかもしれませぬ。院もその奸計にのせられないとも限りませぬ」
慰めるどころか、烏丸左大臣殿はこのように奏上したのだった。
実は腹の中でほくそ笑んでいることを、今上は気づいていない。
法真阿闍梨は縦目なりとて、その異形を恐れられていた。
だが、それよりも。その験力の凄まじさは、帝をさえ震え上がらせる程であった。
味方に引き入れれば恐るるものは何もないが、敵に回せば、命さえ奪われる。そう信じられている。
四辻内大臣はこれを懐内深くに抱き入れていた。それが、帝に疑念を抱かせる要因となっていた。
今回の女御のお産に、法真阿闍梨も日夜護摩を焚き、安産祈願の御法を施していた。
帝の護持僧顕明は、法真に日々、対抗心を燃やしていたから、讒言は日常的なことであった。烏丸左大臣殿が去った後の夜中。顕明は奏上する。
「かの縦目阿闍梨は、荼枳尼天の秘法を自在に操る人身を逸した超人です。四辻内府、かの怪僧の妖術にすっかり騙され、正を正、邪を邪と見定める正しい眼を失われました。かの者の妖力は、人一人の命を奪うは容易い、大乱を招き、ついには国を滅亡させることでしょう。腹の子を女から男に変えさせる呪法など、指一本でやってのけるでしょう」
「何が言いたいのか」
今上、目を眇めて顕明に問う。
顕明がせいせいと答えるには。
「四辻内府は彼奴に誑かされて、もはや昔の四辻殿ではございませぬ。風香殿もしかり。拙僧、以前、秘法を行いて女御の御腹の御子を見るに、それ、姫宮であらせられました」
「なに、では女御の産みし御子は誠は女であると?それを男と偽っておるというのか、内府は?」
「いえ、お生まれになったは確かに男皇子。紛れもなく、主上の弟宮でございます。これ、すなわち、法真に誑かされて、あらぬ考え抱くようになりし四辻殿が、法真に命じて、女御の御腹中の御子を男皇子に変える呪法を行うたに他なりませぬ。四辻殿、院近臣の方々には、女御の御子は必ず男宮でなければならなかったのでございます。これで縦目の壮大なる野望と、四辻殿の叛心とが、お解りになったやに存じまするが」
「……おことは何故、左府と同じことを言いやるか」
帝、怖じ気付いたように小さな声で言った。
それに対し、顕明は胸を反らし気味。声も朗々と。
「事実にございますれば」
「では、縦目は内府を傀儡に、何がしたい?」
「何になりたいかと、お尋ねになるべきでしょう」
「では、何になりたいのか」
「蚕叢は縦目なりと申します。又、燭龍も縦目なりと申します。燭龍が目を開けば昼となり、目を閉じれば夜となるとか。蚕叢は古代蜀国の君主。燭龍は昼と夜、季節を司る神にございます」
「帝王にして、神なる存在……それが法真がならんとするものか」
「そもそも縦目とは、瞳の飛び出でたるを申すもの。蚕叢、燭龍はどちらも瞳が飛び出でたる異形だったのです。しかし、法真のは眼球そのものが飛び出でたるによって、法真のそれは縦目と申すべきにあらず。それを法真、その異形に恐れる者に、自ら己の異形を縦目というなりと触れて回り、ついには縦目阿闍梨の異名を得るまでになりました。縦目は聖帝のみが持つもの。それが己にもあると触れ回るは、法真が聖帝にならんと目論む証拠。尤も、奴がそれにならんと君臨しても、奴は悪鬼羅刹にしかなれますまいが。とにかく、奴はそのために荼枳尼秘法を日夜行って、あやかし、鬼の類、怨霊、妖魔、それら全てを引き込んで、己が眷属にしております」
「げに……」
今上、先の烏丸左府の言葉と合わせて、この顕明の言葉に、法真と四辻内府への疑惑を深くしたのであった。
ところで、今上は予ねてから絶世の美女と名高く、七絃七賢でもある清花の姫君──六条大納言殿の当腹の姫君の入内を望んでいた。だから、姫君は后がねとして育てられた。
姫君は既に十七歳。
入内の話は数年前からちらほら聞こえていたが、烏丸左大臣の眼を気にして、大納言殿は様子を見ていた。だから、姫君の入内は未だ実現していない。
最近、今上が入内のことをしばしば打診するようになったのを、うまく誤魔化していた。
左大臣は割と大納言殿に対して好意的である。だが、今は時期が悪い。
新院の女御が六の宮を産んで、東宮の外祖父である左大臣はぴりぴりしている。御娘の皇后の敵となるべき新たな妃を、何で左大臣が快く思うだろうか。
何しろ、みくしげ殿の腹の二の宮を、早くから寺に入れてしまった程の左大臣だ。新たに清花の姫君が女御后になって、男皇子でも産んだら、父の大納言殿は左大臣の最大の敵になる。
実は、大納言殿は微妙な立場なのであった。
大納言殿の亡兄・成経には娘があった。その娘の嬉子は今上の寵姫で、しかも三の宮の御母であったのだ。
嬉子を入内させたのは成経だが、嬉子が出産した頃には、亡くなっていた。だから、現在、嬉子の後見は叔父である大納言殿である。
嬉子は大納言殿の六条西洞院邸で三の宮を出産したのだが、それきり宮中には戻らず、今も幼き宮と二人、大納言邸で生活している。彼女もまた烏丸左大臣と皇后を恐れていた。
それにしても。
烏丸左大臣は、大納言殿を余り頭のよい男だとは思っていないらしい。
大納言殿は左大臣に対して、二心ない態度だ。尚且つ、三の宮の出世を望むような動きもなく、ただひっそりと養育している。
左大臣は大納言殿の行動をその通りに受け取っていた。
大納言殿は、言ったものである。
「東宮が帝となるのが当たり前。兄が死んだので、三の宮をお世話しているまでのこと。東宮以外の人が御位に立つ、そのような筋の通らぬ話があってよいわけがありません。私は筋の通らぬことは大嫌いです。それが喩い、自分の損になることであっても。それでも筋は曲げたくありませぬ」
愚直な大納言殿のこの言葉には、左大臣も、
「御身がとても真面目でおらるることは、誰より麿が知っている。曲がったことが大嫌いな御身の人となりを知っているからこそ、麿は御身を信頼しているのです。御身を疑ったことは一度もない」
と、熱く答える。
仲間に引き入れたいとでも思っているのか。あるいは、内心馬鹿だと見下しているのかもしれない。
「よく、融通がきかない、頭が堅いと言われますよ。我ながら困った性格だ」
大納言殿はこう言って笑うが、左大臣も、
「御身のような真実のある人は貴重だ」
と答えて、全く油断していた。
だから、絶世の美女と評判の姫君の入内の話も、はっきりとではないが、それとなく辞退したらしいと聞くと、左大臣は安心した。嬉子と三の宮のことは、見ぬふりを続けている。
三の宮に未だ二の宮のような運命が訪れぬことは、嬉子にとっても幸いなことであった。
さすがに烏丸左大臣とて、六条大納言棟成卿のような名門の公卿を敵にしたら、面倒なことくらい理解している。味方は一人でも多い方がよい。敵は四辻殿の一派だけで十分である。四辻殿一派に大いなる野望がある今、烏丸左大臣といえども、これ以上敵は増やせないのであった。
こうした事情の中で、最も胸撫でおろしていたのは、清花の姫君本人だったのではあるまいか。
姫君には秘めたる思いがある。ひそやかな、されど強い思い。
もうずっとひたすら思い続けてきた、秘めたる恋。
相手はあの三位殿。
七絃七賢の一人。琵琶も灌頂を授けられた程の名手。
だが、新院別当・風香殿の嫡男であり、四辻内大臣の甥でもあった。




