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正声・八拍──新院の六の宮(上)

 三位殿が洛神図を三拝していると、その生き生きとした洛神の顔が、本当に動いたように見えた。


 怪しんで目を擦ってみれば、深紅の唇から甘い息が細く洩れて、三位殿の一筋乱れた額髪をそっと揺らした。


「妾は神ではありません」


 高めの甘い声が聞こえた気がした。はっとすると、絵の中の洛神がこちらを見つめている。


「人間の女なのに、このような絵の中に閉じ込められて、神と崇められ、数多の人の目に晒されて、恥ずかしい思いをしております」


 絵の中の人はそう言った。美しかった。まさしく生きている女性そのままに。えならぬ香りも漂っているような。


「妾を神とし、この絵に魂を閉じ込めるのは、いったい誰です?」


「……絵の中の神は何を私に伝えたいのか……私は琴の道に励む者。大唐の曹倫より琴学びて帰朝したる大学頭行実が三代の弟子、正三位太皇太后宮大夫周雅と申しますが」


「行実三代の弟子?ああ、なればこの身を解き放ち給え。琴の神と崇めらるるのは、迷惑なのです」


「え?」


 問い返す間もなく洛神は、絵の中よりひらりと抜け出て、妻戸の外へ消えた。


 三位殿、驚いて追えば、洛神、庭の池水の上に舞い遊ぶ。三位殿が簀子より目を凝らして見ると、洛神は袖を翻した。


 次の瞬間、袖から現れた洛神のその顔は、清花の姫君のものだった。


 姫君、光を浴びて肌は透け、長い黒髪は七色に輝く。池水に反射した光も眩しげに、姫君はこちらを見つめる。


「ああ、神の正体はあなただったのですか、姫君」


 手をのばせば姫君の頬に届きそうで、届かぬ。三位殿、夢中で、


「神よ」


と呼びかければ、静かな姫君の面に涙の玉。両の目からこぼれ落ちる。何故か自然に勝手にあふれる涙。理由も知らず、ただ流し続ける。


 その清らかな姿。美しさ。まるで、夏の早朝の池水の蓮のよう。


 開いたばかりのその花から漂う新鮮なみずみずしい香り。さわやかさ。


 そんな様を思わせる。


 泣く姿の何と美しいことよ。


 池の端の水鳥も、姫君の姿に酔うてか、うっとりと鳴く。


 次第にその声は大きくなる。


 大音声。


 あっという間に大合唱となり。水鶏(くいな)のたたくのを、耳障りに思って、ばっと身を起こした。


 闇、であった。


 闇ながらも、外で水鶏がしきりにたたく。


……ここは、彼の閨の内。


「……」


 床の上に起き上がって座っている。


「……夢?」


 三位殿、膝の上の夜衣を引き上げ、胸に抱く。


「鳥の音ばかり現であったか」


 水鶏の声に起こされたか。


 それにしても、おかしな夢を見た。


 姫君に夢で会うとは。


「……あの姫君、私に何と仰有りたかったのか。神ではないと仰せられた洛神は、何を告げんとしたのか。あの洛神が、清花の姫君なのか……」


 三位殿、夢の意味を計りかね。


 己の心を計りかね。


 悩む。





 上野を本拠地と決めた時有は、土地の牧・政氏(まさうじ)の用意した邸に住まうこととなった。この牧邸より、越後、信濃、上野、下野の武士団を支配する。


 時有は安定するまで牧邸で采配をとることにし、各地の平定は他の者に行かせることにした。


 時有には政氏との約定がある。それは、政氏と敵対する四辻殿の荘園領主を討つため、下野に進軍することだった。


 それで、時有は信時に三千の兵を与えて、下野に進発させた。時有自身は牧邸で、信時の勝利の報を待ちながら、都の母を迎える準備を進めている。


 一方、下野の信時は盛夏の中、進軍を続けていた。


 猛暑である。人も馬も疲れきっていた。しばらくこの辺りで休憩した方がよさそうだ。


 総大将の信時は、全軍に休めと号令した。


 丁度川が流れている。


 兵達は次々に川へ飛び込んで行く。


 ところで、この近くには名水の湧き出でている所がある。老将の俊幸(としゆき)は、かねてからこの湧き水の名を知っていて、機会があったら飲んでみたいと思っていた。


 信時はふとそのことを思い出して、


「おおじを呼べ」


と、従者に命じた。


 俊幸は信時の母の叔父である。信時の母は身分卑しい女の腹から生まれていた。つまり、叔父とはいえ、俊幸は身分が低い。信時やその母には、臣下という立場で仕えていた。


 信時はそれでも、俊幸に対して肉親の情を感じている。乳父よりも俊幸に懐いていたし、俊幸もまるで孫を見るように、目に入れても痛くないというような可愛がり方であった。


 やがて従者と共に現れた俊幸は、温和な人柄をそのまま顔にしたような老人だった。


「お呼びで、若君?」


「おお、おおじ。ちょっとそこまでつき合わぬか?」


「ほあ?どちらへ」


「まあ、よいから」


「はあ?」


 信時はすたすたと先を歩き出してしまった。そして、そこに繋がせておいた馬に乗る。


 慌てて俊幸もついて行った。


 暫く馬を歩かせていると、本当に炎天下がこたえる。


「それにしても、暑うございますなあ」


 老人の鈍い感覚にさえ、それは激しく訴えてくるのだ。日なたの気温は凄まじい。


 やがて、信時は前方に簡素な庵を見つけた。


 それを通り過ぎると、目当てのものが目に飛び込んでくる。


「あれだな」


「はい?」


 大きな池があった。清らかな水を漫々と湛えている。


「あっ!」


 初めて老人は、若君が供を命じた理由に気付く。


「おおじ。以前、この水を飲んでみたいと言っていたな」


「なんとも、いやはや……」


 孝行な若君である。


 年寄りは涙もろい。すぐにぼろぼろ涙をこぼし始めたので、信時は慌てるやらおかしいやら。


「喉が渇いた。早く飲もうよ」


「はい。はい」


 下馬し、二人は連れ立って池のほとりまでやって来た。


 相当大きい。かなりの水量だ。


 沢山の人が訪れては水を汲み、喉を潤すのだろう。柄杓が幾つか置いてある。


 信時は柄杓を取って水を汲む。名水で満たしたそれを俊幸に渡し、さらにもう一つの柄杓に水を汲んだ。


 俊幸は柄杓を押し頂いたまま、信時が次の柄杓に水を満たすのを待っていた。


 信時が柄杓に口を付け、一口飲み、


「うまい。おおじも飲んでみよ」


と言うと初めて、


「では。戴きまする」


と、有り難そうに水を飲んだ。


「……ほう。これは甘露な。体の隅々にまでしみまする。某の老いてぼろぼろになった全身の骨のひびの隙間に入り込んで、潤いを与えてくれるような」


 老人の大袈裟な感動がおかしく、信時は吹き出した。


「ほ、骨にまで染み込むか?」


「はあ。骨が潤いを取り戻し、やわらかくなったようで。いやあ、ありがたいですなあ」


「それはよい。もっと、二杯でも三杯でも飲んだらよかろう」


「はい、はい」


 俊幸は嬉しそうに、新たに水を汲む。


 望みの名水に出会えたのだ。


 それだけでも幸せなのに、猛暑の行軍で喉が渇いていたこもあって、もともと甘露な水が、余計においしく感じる。


 だが、それ以上に爺は、若君が自分のためにここまで連れて来てくれたという、その心が嬉しかった。胸いっぱい。名水は、幸せの味がした。


 夢中で水を飲んでいると、ふと信時が遠くに目を凝らし、


「おおじ。あれは人ではないか?」


と、注意した。


「はえ?」


 老人も顔を上げ、信時の指差す方向を見る。


 東南彼方、百草百花乱れる中に、確かに人が臥しているような、そんな感じの何かが見えた。


 その草むらは日なたである。夏の強い日光が直射している。


 信時と俊幸は顔見合わせた。


「もしも人ならば、大変ですぞ!」


 俊幸は柄杓を放り出し、健脚でもうそちらに向かって歩き出していた。信時もすぐにその後に続く。


 俊幸がその草むらに至ると、やはりそこに横たわっていたのは人であった。間違いなく、人間の女が地にうつ伏している。


 白い衣の黒髪長き女。傍らに樽が転がっている。


「しっかりなされ、いかがなさったか」


 女の背に手をやり、体を揺すってみるが、全く反応がない。


 信時が追いついて、


「どうだ?」


と尋ねた。


「はあ、気絶しておりますな」


 俊幸は女の体をくると横に転がして、仰向けにさせた。初めて女の白い顔が見えた。


「こ……」


 二人は息を呑んだ。


 これは。真っ白な芍薬の花を思わせる。精霊か何かのような、まだ若い女である。透けるような色の白さ。日に透けて、そのまま消えてしまいそうだ。


 俊幸は女の背に手を置いたまま、身動きできずに、ただ目をぱちくりさせるばかりである。じっと女の白い顔を見ている。と突然、その白い額に、他人の手があてられるのが見えた。


「熱がある」


 信時の声に我に返り、俊幸は、いつの間にか女の頭の横に回り込んで片膝をついていた信時の顔を見た。


「熱が?」


「うむ。あつけだな」


 信時は女の額から手を外すと、深刻そうに眉を寄せた。


「早く水を飲ませて、涼しい所に寝かせてやらないと、死んでしまうぞ」


「ああ、左様でござるな。若君、この娘に名水を飲ませてやりましょう」


「うむ」


 信時はすぐ娘を抱き上げると、泉の池まで運んで行く。


 木陰に入ると、娘を下ろし、


「おおじ、柄杓を」


と、手をのばした。


 俊幸は素早く水を汲んで、信時の出している手に柄杓を握らせる。信時は娘の顔を見たまま、柄杓は見ずにそれを握ると、娘の口元に運んでやった。


 しかし、娘は飲むことができない。


 それではと、信時は娘の上半身を抱き起こしてやった。体が縦になれば飲めるかもしれない。


 再び柄杓をその口にやる。


 しかし、水は娘の口に少しも入らず、全て唇から流れて、娘の顎から首を伝い、胸を濡らした。


「飲みなさい。飲まねば死んでしまう。さ、飲んで」


 信時が必死に声をかけるが、娘の反応はない。


「飲みなされ」


 俊幸も言う。が、突然「あっ」と驚きの声を上げた。


 何を思ったか、ふいに信時が柄杓を己の口元に運び、水を全て口中に含んでしまったのだ。そのまま、空になった柄杓を俊幸の方に無言で押しやる。俊幸がそれを受け取るが早いか、信時はその刹那、娘の唇に自分の唇を重ねた。


「若君っ!?」


 俊幸は柄杓を放り投げてしまいそうだった。


 この若君は、何と見知らぬ娘を助けるために、見知らぬ行きずりの他人に口移しで水を飲ませたのだ。


 何という御方か。そう思った次の瞬間、俊幸の正義は、衝撃に勝った。すぐに柄杓に水を満たして信時の手に握らせる。


 信時はそれも口に含んで、娘に飲ませた。


 幾度かそれを繰り返した後、信時はそっと鎧下に忍ばせていた布で娘の口元を拭ってやった。口移しとはいえ、多少娘の口から漏れた水が、彼女の顎の辺りを濡らしていたからだ。


「とりあえず水は飲ませたが、どこか涼しい所で介抱せねばなるまい」


「そこの庵に頼みましょう。薬もあるやもしれませぬ」


「そうしよう」


 信時は娘を抱き上げ、先程この泉に来る前に通った庵に運んだ。


 二人が門の前まで来ると、ちょうど中年の尼が庭を掃き清めているのが見えた。


 尼はすぐ鎧の擦れる音に気づいて、門外に眼を向けた。信時と俊幸を見て、一瞬ぎょっとしたようだったが、


「すまぬが、この人を助けて下さらぬか」


と、信時が腕の中の人を見せると、尼はすぐ安堵の色を滲ませた。


「まあまあ、いったいどうしたのですか」


 尼は箒を庭木の幹に立て掛け、こちらに歩み寄ってくる。


「暑気でしょうか、あちらに倒れていました。水は飲ませたのですが、涼しい所に寝かせないと。こちらをお貸し願えまいか」


 信時が言うと、尼は当然のように頷いた。


「もちろんです。さ、早くあちらへ寝かせて下さい」


 尼は日陰で風通しのよい、庵の廂を指差した。


「おそれいる」


 信時は軽く頭を下げ、尼の指差した庵の中へ娘を抱え入れる。


 尼も庵の中へ入って、奥から枕と薄い羅の衣を持ってきた。


 尼の置く枕に、信時はそっと娘の頭をのせてやる。尼は娘の体に衣を掛けると、すぐに水を汲みに出て行った。


 信時は改めて娘の白い顔を見つめた。


 夢のように美しい。やはり芍薬のようだ。そっと触れただけでも壊れてしまいそうな程、華奢で。


「美しうございまするな」


 突然、背後から俊幸が感心したように言った。俊幸の声が、一気に信時の胸や腕に残る娘の余韻を消した。


「まことに美しい。目を開ければ、どのような花なのでしょう。目を開けている姿を見てみとうございまする」


 俊幸は相変わらずしわがれた声だが、その中にもうっとりとした響きが混じっていた。


「身なりもよいですし、かなりの身分の人かもしれませぬ」


「……しからば敵かもしれぬ」


 信時はやっと娘から視線を外して、冷静に言った。


 その時、桶に水を溜めた尼が戻ってきた。


 尼はそのまま娘の枕元に寄り、布を水に浸して軽く絞ると、娘の額にのせる。


 その様子を見て、俊幸がそっと小声で促した。


「さ、そろそろ行きませぬと。あとは尼御前にまかせましょう」


 信時は頷いた。


 俊幸が尼に言う。


「我等は先を急ぐ故、もう行かねばならぬ。申し訳ないが、その人をお頼みできましょうか」


「見ず知らずの人をお助けになった。お二人はとてもよいことをなさいました。御仏もお二人をお守り下さるでしょう。ご心配なく。あとはこちらで、この御方のお世話を致します故」


 尼はにこやかに言った。


 これから殺生するために先を急ぐ二人に、何で御仏がご慈悲を下さろうか。信時は心が苦しくなった。行きずりの娘一人の命を救ったところで、これから何百、何千もの命を奪いに行くというのに。


「これを。その人のためにお使い下さい」


 信時は鎧下の肌着の中から小袋を取り出し、その中から父がくれた水晶の数珠だけ抜き取ると、袋の口を閉じて尼の前に置いた。


 尼はその小袋を有難く受け取った。


「では」


 信時と俊幸は尼に一礼して、庵をあとにする。


 小袋の中身は砂金である。尼は後で袋を開けてみて、びっくりすることだろう。娘の世話の報酬にしては余りに巨額過ぎる。しかし、信時は、余った金は泉の管理に使って欲しいと思っていた。多くの旅人の心と命とを救った名水のために。


 信時は一言も口をきかぬまま、すたすたと馬を繋ぐ木に歩いて行った。俊幸はその後にひたすらついて行く。


 信時の握り締める水晶の数珠に付着している砂金が、きらきら輝きを放っていた。

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