正声・七拍──輪台青海波(上)
侍従少納言は新院の別当に任じられて、ほくほくと、
「次は乳父だな」
と、妻・中将の君に言った。
中将の君はついに夫をうわなり殿から取り返していた。
烏丸殿の女房のうわなり殿に奪われて、今までどんなに苦しい思いをしたことか。これからは、あの女が苦むのだ。
中将の君の予想通り、うわなり殿は苦しんでいた。だが、嫉妬というよりは、烏丸殿に申し訳なくて、いたたまれない気持ちだった。
烏丸殿は裏切られたと怒り、恨んでいる。うわなり殿にさえ、その風当たりは強くなっていた。
その腹の二人の子、時有と信時は、命をすり減らして烏丸殿の為に戦場を駆けずり回っている。
二人は未だ都に帰っていなかった。
盗賊討伐は辛くも成功を続けている。だが、まだまだ軍を強化させなければならない。
そんな二人の所へも、父の完全なる決別の報告はもたらされていた。
「あんな父上は荷物なだけだ。こっちから捨ててやる。忘れろ、信時。忘れてしまうのだ。我等に父はなかったのだ、初めから」
数珠を見つめる弟へ、兄は冷たく言い放った。
「……そうですね……」
信時も心を決めた。
兄弟が父との決別を決意した頃、時節は間もなく長雨を迎えようとしていた。
兄弟の異母兄・備中前司は相変わらず伏せったままである。大病というわけでもないのに、なかなか治らない。
彼は夫をとり戻した中将の君の子である。
中将の君は仙洞御所の女房であり、典侍殿の義妹だった。
典侍殿の父君の愛妾の子である中将の君は、昔から義姉を敬い、侍いていた。終生義姉に仕えようと誓っている。
だから、前司が典侍殿の夫君・風香殿の執事の役目を果たせずに、次弟の時憲に任せきりであることを、申し訳なく思っている。
「姉君の恩を仇で返すのかえ、情けない」
文で毎日文句を言って遣すのだから、よくなるものも、なるまい。
だが、前司がこんな調子である分、妻の侍従が青海波の君の乳母として、よく働いていた。それだけが救いだと、中将の君も思っている。
だが、もう一つ問題があった。
前司と侍従との間に生まれた二人の娘達である。
父の前司は病気。母の侍従は乳母仕えで忙しく、祖母の中将の君は仙洞。
二人を立派に養育できる人がいない。
この女君達の、特に姉の方は優れて美しい乙女だった。頭もよく、気立てもやさしい。そして、楽才にも恵まれている。
このまま放っておいては、せっかくの才能が勿体無い。
典侍殿はとても気に入っていて、琵琶の手ほどきまでしている。
実に筋がよかった。
あと二、三年は自分が教えてもよいだろうが、その後は三位殿か、その師の白河の聖人に就かせるべきであろうと、典侍殿は考えていた。
典侍殿は孫の養育で困っている中将の君に、
「この子を引き取りたい」
と言ってやった。
中将の君は感激して喜び、
「是非」
と返答した。
母が賛成ならば、備中前司には反対することもできなかった。
典侍殿はうきうきして、
「女君は三位のもとに置いたらよい。三位の所には若君がいる。侍従の乳母がそこにいる。三位のもとに来れば、女君は母親と一つ所にいられよう」
と、独り合点に決めてしまった。
軒の菖蒲も根差す頃、前司と侍従の長女は三位殿の家に引き取られた。この乙女を一目見て、三位殿は、
「これは、何れ必ず宮中に出すことになるだろう。そして、その折は正式に猶子となさむ」
と思った。
花の蕾がちょうど綻んだところを思わせる、実に可憐な女君である。五節の舞でも舞わせたら、どんなに見栄えがするだろう。
三位殿はこの乙女を「ゑまひてう(えまいちょう)の女君」と呼んだ。
だが、ゑまひてうの女君は母と共にいられることが嬉しい反面、気兼ねでもあった。この豪奢な邸で皆に侍かれて、気後れがするのだ。
何となく鬱々と過ごしているのを、三位殿が気づかない筈がなかったが。
ある夜更けのことだった。
子供はとうに夢の中で遊ぶ時刻。だが、ゑまひてうの女君はなおも起きて、大床の端近に座っていた。
ぼんやりと、ただほの暗い庭を眺めている。
つと目線を上にやると、満天の星々が所狭しと犇めき合っていた。
「こんなに星がきれいだなんて」
その権高く、得意げな星々に追いやられて、隅の方で、糸のように細い月が頼りなげにうっすら浮かんでいる。
そんな月と自分と、重なってくるのだろう。女君は長い睫を伏せて、ほうっと溜め息をついた。
すると背後から突然、
「雪は光盗人なんですよ」
という声。
驚いて振り返ると、三位殿が微笑んで立っていた。
あ、と女君は口を開いて、そのまま俯いてしまった。いつまで起きているのかと、怒られるのではないか、そう思って不安になったのかもしれない。
けれど、三位殿は何を思い出したのか、ふいにくすくす笑い出し、細月を見やった。
「かわいそうに、月は。いつも損な役まわりだなあ。光盗人なのは雪だけではなかったのですね。ね、ご覧なさい。星も光盗人ですよ」
三位殿が余りに変なことを言うので、ゑまひてうの女君も思わずつられて月を見た。
三位殿は懐かしげに。
「昔、政任の朝臣と言いし琴の名手が、雪の降り積もった晩に、何ともおかしなことを言いました。その日は庭一面、白雪が美しく光り輝いて、まるで望月夜のような明るさだったのです。政任の朝臣は『雪が望月の光を奪い取った。望月は光を奪われて三日月になってしまった。今宵の庭が望月夜さながらに明るいのは、雪が望月に変化したからだ』と言うのです。空には、ほら、今日の月のように、儚げに三日月が出ていました。雪が満月の光を奪って三日月にしてしまったんです。雪は光盗人なのですよ」
そう言うと、三位殿は女君の方を顧みて、くすっと笑う。女君も愛想笑いを浮かべていた。
「星も望月を打ち砕いて、空じゅうに広がって、ああやって誇っているんですね。十五日よりも二十七日の方が、はるかに星の数も多く、その輝きも強いのは、星が月から盗んだ光の量が多いからですね。星も光盗人だったんです」
そこまで言って、さらに、何かよいことを思いついてしまったらしい。三位殿はにんまり笑った。
「いや、星は五月雨と手を組んでいるのかもしれない。望月を打ち砕いたのは、力強く激しい五月雨。五月雨によって砕かれた月の屑が星になった。御礼に星は、好きなだけ降ってよいと、五月雨が際限なく降ることを許した。そうだ、そうに違いありませんよ!」
「……月は……」
ゑまひてうの女君はようやく声を出した。
「月は、かわいそう……」
「ええ、そうですね」
三位殿はほっとしたように微笑み、目を細めた。




