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正声・六拍──石上流泉(下)

 忠兼朝臣の嫡妻(こなみ)・朽葉の上は貴船に参らんとて、支度をしていると、突然目の前に闇が迫り来た。


「わっ、何!?」


 両腕をもがくように振り動かす。心の臓が激しい。突然何も見えなくなった。唐突に盲いたのか。


「えっ、嘘、いや」


 盲人となるなんて?


 恐ろしい予感で、体中が不安で満ち溢れた瞬間、暗闇の中に一点の光を見た。


「な、何?」


 心の臓は余計激しくなる。まさか物の怪か。怨霊?


 怖い、と冷や汗にぐっしょり濡れている彼女の目の前に、異形の僧体の人の姿が。


「いやっ、物の怪っ!」


 朽葉の上は金縛りにあったように、全く動けなくなった。動こうとすればする程、強い力で抑えられる。


「来ないで……」


 縦目(たてめ・直目)が彼女の顔のもうすぐそこまで、息のかかりそうな距離にまで迫る。


 もう駄目。


 そう思った時、


「失礼ですな、物の怪とは」


と、縦目の異形はそう言った。普通の人間の声だ。


「あ、(たれ)……?」


「誰?」


 縦目の恐ろしい僧は、まさか知らぬのかと言いたげな顔で鸚鵡返しした。


 縦目という身体的特徴を持つ人といえば、あの人しかいないが──。


「……法真阿闍梨ほっしんあじゃり?」


「いかにも、法真におざる。縦目阿闍梨なんぞと世の口さがない者どもから呼ばれている、哀れな醜男の法真です」


 この阿闍梨を醜男だと感ずる者は一人もあるまい。そうした美醜の尺度を激しく逸脱している顔である。もはや人間の顔ではない。縦目阿闍梨という呼び名も、皆がこの僧を恐れてのことである。


「どうしてここに現れたかとお思いでしょうな、北ノ方」


「北ノ方!?」


 北ノ方と呼ばれて、急に顔色を変えるのは、流石嫉妬に狂った女ならではだ。つい今までの恐怖も一気に消えて、きっと法真を見やった。その眼光のぎらつく様は、法真の縦目なんぞに負けず劣らぬ恐ろしさ。狂気の光さえたたえている。


 けれど、法真は少しも怯えず。


「嫡妻なれば、北ノ方にて候うや」


後妻うわなりに子ができれば、もはやこの身など用なしであろ。捨てられ、北ノ方なんぞと呼ぶ者もいなくなる。北ノ方と呼ばれるのは、あの女!!」


「凄まじい怨念ですな。その女への恨みの情念に導かれて、この法真、これまで参りました。貴船へ参られるところでしたな?」


「よくご存知で。噂に違わぬ妖力の持ち主と見ゆる」


 朽葉の上は驚きもしない。


 法真阿闍梨といえば、東密の怪僧。荼枳尼天だきにてんの大神通を得た超人として知られている。その邪悪な呪力で、国一つを滅ぼすことも可能だと恐れられていた。


 その法真が、朽葉の上一人の心の内を知ることなど、赤子の首をひねるよりも容易く、突然その目の前に姿を現すことも、護摩壇に向かう暇くらいなものだ。


「貴船に参る手間を省いてくれるつもりで、来やったのかえ?」


 嫉妬の鬼はそう尋ねた。


「いかにも。御身をお助けせむとて参りました」


「なれば、我が願いを聞いて給れ。ただとは言わぬ。こなたの欲するものは、好きなだけ与えようほどに」


「畏れ入ります。して、どうして欲しいので?」


「韶徳三位のもとの上・二条局を、腹の子諸共呪い殺しておくれ。それと、三位その人にも死を!」


 法真、初めて驚きを面に見せた。縦目をより前面に押し出す。


「ご夫君の少将殿ではなく、三位殿を呪い殺せとは、これ如何に」


「二条局は三位が北ノ方。妻の躾が悪かった罪は、免れられまい。かの人さえしっかりしていて下さったならば、このようなひどいことにはならなんだ。我がつまには恨みはあれども、あの女を殺し、我がもとに返してくれるならば、今までよりも一層慈しみ仕えようほどに。夫は殺さず、ここに戻して給れ」


「御意には従いかねる」


「何故に」


「御身の御恨み強過ぎて、一人を呪わば、諸共に皆まで道連れになるやと存ずる。つまり、二条殿を呪わば、三位殿は勿論のこと、少将殿、父君風香殿、果てはその弟君の四辻の大臣おとどにまで、その呪詛の連鎖は及びましょう」


 それにはさすがの朽葉の上も身を仰け反らせて、法真の縦目よろしく、眼を見開いて恐怖した。


「それは困る。大臣は無関係ぞ。また、夫の繁栄は大臣あってこそ。大臣に亡くなられては、夫の栄華も露と消える。二条局と腹の子さえ死ぬれば、それでよい。大臣の御ことだけは、どうにかして助けて給れ」


「無理ですな」


 法真はきっぱりそう答えた。


「全ては御身の怨念の強さ故のこと」


「ええい、役立たずな!」


 鬼女の形相が凄んだ。


「それならば、何故我が前に姿現したか。荼枳尼天法でどうにかしてくれるつもりで来たのではなかったのかっ!」


「放っておけば、御身が生きながらにして鬼女に変化へんげすること間違いなしとて、どうにかしてその御念を鎮め申さむとて、参りました。調伏さるるべきは、御身の心を食い尽くす、御身の中の鬼」


「ほっ、邪悪な怪人・縦目坊主めが、何を善人ぶるか。馬鹿馬鹿しい。それほど強い力が我が身の内に宿っているならば、何もこなたの力など借りる必要もないわ。生霊となって、呪い殺してやるだけのことよ。もう頼まぬ、疾く帰れ」


「お待ちなさい、北ノ方」


「ええい、北ノ方と呼ぶな!」


「いいえ、この縦目にお任せ下されば、必ず御身が北ノ方であり続けられましょう。そして、二条殿が少将殿に添えぬようにして差し上げましょう。未来永劫、少将殿の北ノ方は御身。二条殿は閨室には加われませぬ」


 朽葉の上、少し顔を尋常に近い色に戻した。


「ほ、それはどういうことぞ?」


「二条殿のお子を奪い、御身のお子として育てるのです。少将殿の君達きんだちの御母は御身。北ノ方たる御身です」


「嫌なこと!憎っくき女の腹より生まれたる妖怪を、どうして育てられよう。むしろ呪い殺したいのに。そうや、二条局以上にその子が憎い」


 牙こそなけれども、般若の形相にて凄む。


「……では、御身の願いを聞いて差し上げましょう。そのかわり、拙僧が願いも聞いて下され。それが条件です」


「よい、聞きましょう」


「……二条殿とその御腹のお子を呪い殺す。三位殿も呪う。そして、少将殿と風香殿、大臣にまで呪詛及ぶ。御身の恨みは抑えがきかなくなり、さらに強大な力となって、魔道をさ迷う者達を眷属に従えるまでになる。そこで御身はこの法真に、その神通力を与え給い、荼枳尼を現世に降臨させ、この国と帝とを呪い殺し、この法真を、この国とそれに通ずる天道との主に据え給え」


「な、何?」


「それが条件。お嫌なら、二条殿のお子を引き取られることです。御身の悪いようには致しません。必ずご満足頂ける結果を導きましょうほどに」





 その数日後。


 資子内親王(すけこないしんのう)の命日なので、本院は供養しようと廷臣どもに麗しき教典を書かせ、これを納めた。


 資子内親王は本院の御叔母宮で、本院は幼い頃から親しく交流していた。


 本院は父帝の東宮時代に生まれた。


 本院の御母は宣耀殿(せんようでん)に住まいして、二皇子三皇女を産んだが、立后直前に亡くなっていた。


 別な人が父帝の皇后宮となり、本院はこの皇后宮に養われて育った。


 だが、資子内親王を准母として即位したのである。


 本院は信心深き御方であるので、御母宣耀殿女御、皇后宮、准母の宮の命日には、毎年欠かさず法要を営むのであった。


 つい先月には、御養母・皇后宮の命日があったばかりで、皇后宮の御甥・右大臣、右大臣の姪で皇后宮の女房であった中納言三位局(六条大納言棟成卿室・朱桜の君)らと共に、供養したばかりである。


 この資子内親王の法要は、決して華々しきものではなかったが、その納経の麗しさは、後世にまで国の宝として貴ばれるべき傑作であろう。貴重な文化遺産ができたことを、資子内親王も泉下で喜んでいるに違いない。


 その後は管絃講(かげんこう)となった。


 本院は三位殿を召し、琴の琴の演奏を納めさせた。


 三位殿は十七歳の時から毎年、資子内親王の御霊に琴を演奏し奉っている。三位殿の琴回向は恒例となっていた。


 ところで、この資子内親王の法要には、白河御所の太皇太后宮(本院の后宮)も出席していた。


 三位殿は太皇太后宮職(しき)の大夫(だいぶ・長官)である。


 法要が終了すると、彼はこの大宮に呼びとめられ、


「時に、御身は二条局を離縁したと聞いたが、誠か?」


と、実にまずい御下問があった。


 三位殿の別れた妻・二条殿はこの大宮の姪君である。


 二条殿は以前は、叔母であるこの大宮にお仕えし、宣旨殿と呼ばれていたのであったが、その後、三位殿の室となったのであった。さらに、三位殿の叔父・四辻内大臣殿の姫君が新院の寵愛を得て女御となると、その女房となり、二条殿と呼ばれるようになったのである。


 三位殿は顔の血の気が引いたのを知る。冷や汗に手が濡れている。


「……誠にございます」


 大宮の問いに、正直に答えないわけにはいかない。


 大宮は責めるような口調で。


「もともと仲は良くなかったと聞くが、特に争うようなこともなかったというではないか。公達も授かって。何故、離縁したのか?」


「……は……」


「それに、二条局は女御の御前(おまえ)を辞したとか聞くが」


「……」


「何故に?」


「……お体の調子がすぐれぬ由と伺っておりますが」


 身重故にとはさすがに言えず、三位殿はそう答えた。


「かわいそうに」


 大宮は溜め息と共にそう言った。


 離縁されて、悩んで病んでいるのだと思っているのだろう。真実を知らない。


 このままでは大宮に恨まれてしまうと三位殿は思ったが、本当のことを言うこともできない。恨まれても仕方ないと諦めた。


 丁重に、


「申し訳ございませぬ。夫として至らなかった私が悪いのです」


と、偽らざる心の内を口にした。


 決して良い夫であったとは言えない。


 二条殿の不始末は、そんな冷めた夫婦関係を作ってしまった自分にも、原因があるのだろうと思っている。


 三位殿はひたすら慇懃に大宮に謝罪した。

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