正声・六拍──石上流泉(中)
青海波の君がこちらへ来てからしばらく経ち、落ち着いた頃のこと。
時憲が三位殿の居間に来て、たわいないお喋りを楽しんでいた時。一人の女童がやってきて、客の来訪を告げた。
「侍従少納言が参られました。如何なさいますか?」
時憲は客人の名を聞いて、あからさまに嫌そうな顔をした。三位殿はそれを見るでもなく、目の隅に捉えながらも、
「通すがよい」
と命じた。
程なくして、侍従少納言が姿を現した。
彼は三位殿の顔を見るなり、大床に両手をついて、慇懃に挨拶を述べた。そして、堅苦しい挨拶は要らないと言われると、ゆっくり面を上げ。
三位殿の傍らに時憲が座っているのを知って、
「やあ、これは」
と、思わずなのか言ったが、時憲の方は目を合わせない。そっぽを向いたまま、
「これは珍しい」
と返事した。
どうせ烏丸左大臣の使いで来たのだろうとは思ったが、三位殿は微笑を絶やさないよう心がけながら、
「典厩、大進のご子息二人を危険な戦場へ送り出し、ご心痛であろう。心中お察しする」
と言った。彼が喋らなければ、時憲がひねくれ息子の愚を演じかねない。
侍従少納言の姿は、白々しく時憲の眼には映った。そういう顔と声で少納言は言う。
「いえいえ、それが、聞こえてくるのは勝ち戦の報告ばかりにて。安堵しているくらいです」
「頼もしいことです」
「されど、三位殿。我等親子兄弟がわかれわかれであるのは、悲しきことでございますなあ」
と、三位殿と時憲とを等分に見やる。
時憲はつい心の憤懣を口にしそうになるが、三位殿がさっと袖を引いた。
「本来は前司もこの判官も、烏丸の大臣のご一族。まことに今のこの状態は嘆かわしきことです」
すると、途端に少納言はしたり顔で、
「さよう三位殿も思し召しますか」
と、がなった。
三位殿、眉を顰める。これは何か企んでいるに違いないが、三位殿はどうやらそれにのってしまったらしい言葉を発してしまったようだ。
そのまま勢いにまかせて、少納言は無遠慮に身を乗り出しながら、
「畏れながら、三位殿は北ノ方を離縁遊ばしたと伺いましたが」
と言ったが、流石にそこで一瞬躊躇いはしたのだった。色をなした三位殿に注意しながらも、これはどうしても言わねばならぬ。
「そのご身分で、ご令室がないのは誠にご不自由でしょう。さよう烏丸の大臣も気にかけておいでです。大臣には麗しき姫君がおわします。皇后宮の妹君にておわしますれば──」
そう来たかと、三位殿は全てを察した。
烏丸左大臣がしかけてきた策略は、離間か。
四辻殿派の有力者にして親族である三位殿を、自分の婿にして味方に引き入れる。烏丸派には有力者が増え、四辻派はそれを失うわけだ。
そして、三位殿には備中前司と時憲がついている。本来烏丸一族であるのに、その父親のせいで四辻派の急先鋒となってしまったこの兄弟も、取り戻すことができるのだ。そして、どっちつかずの困り者・少納言も、子息全てが烏丸一門に戻れば、烏丸一族の者として落ち着いてくれるだろう。左大臣はそう考えたに違いない。
「素晴らしきご縁組みと存じます。かようなめでたき使者の役を仰せつか……」
「少納言、新院の別当に空席ができたのをご存知か」
遮られ、
「あ、は?」
と少納言は目を白黒させた。
「叔父の大臣は、その別当に、貴殿を推挙するそうな」
「へ……」
流石にそれには時憲も驚き、三位殿の面をまじまじと見てしまった。
三位殿の表情には変化がない。いや、瞳の奥だけは鋭かった。
三位殿のその瞳は少納言の動揺を捉えていた。間髪入れずに続ける。
「別当の件だけではない。女御がご懐妊遊ばした。やがて生まれ給う若宮の御乳母には、中将の君をという御話さえある。院が左様に思し召しておわすとか」
「なんと!!」
少納言はぱっと顔を輝かせ、身を乗り出してきた。
釣れたわと、時憲はほくそ笑んだ。
この話は餌であった。
烏丸殿がこちらを離間させようとするなら、逆にこちらが少納言を抱き込んでやろう。
話の途中から、三位殿の意図を解した時憲は、余りにも単純に釣り糸にかかってしまった目の前の男を嘲笑った。
こんなにあてにならない男を使者にするなぞ、烏丸殿もまだまだではないか。
幼き日の自分を捨てて、新しい女との間に二人の愛息子を儲けた憎い男。自分を捨てて烏丸一門に帰りながらも、なおまだぐずぐずと宙ぶらりんなこの男は、その愛息達にさえ毛嫌いされていることだろう。幼い日に傷つけられたこの男の病気が、今では愉快に感じられる程だ。
「やあ、父上。父上を取り戻せて、嬉しく思いまする」
時憲は笑顔であった。
その腹では「殿には意外な」と、策略家の一面を初めて覗かせた三位殿を観察している。
新院の寵姫の女御(寛子)は、今身ごもっている。女御は四辻内大臣殿の姫君だ。新院の女御への愛情は異常である。もし、生まれる御子が男皇子であるならば、国の乱れも気にせず、その御子を次の帝にしてしまうだろう。
だから、その御子の乳母になるということは、将来、国政を牛耳ることが叶うかもしれないということなのだ。乳母とその夫、その子達は、帝の側近となる。時にそれは、帝の外戚以上の力を持つことさえある。
乳母は普通複数定められる。本当に乳を与える役の乳母もいるが、乳は与えず、教育だけする役の乳母もいる。中将の君が仮に乳母を仰せつかるとしたら、その教育係的乳母だ。
その中将の君は少納言の嫡妻である。つまり、中将の君が、やがて生まれる御子の乳母となるなら、少納言は乳父だ。
もしも、生まれる御子が将来帝となったなら、少納言が第二の烏丸左大臣になるのも夢ではないかもしれない。
どうしてこんな美味い餌に、この男が食いつかないわけがあろうか。
侍従少納言は術中に嵌ったようだった。
少納言が帰った後で、時憲は三位殿と二人きりになると、大袈裟に言った。
「いや、驚きました。殿があのような策略家でいらしたとは」
「乳父か別当の話は、真実にしなくてはなるまいな。叔父の大臣に頼んでみよう」
乳父の話は難しかろう。しかし、別当ならばどうにかなりそうだ。
とはいえ、勝手にこんなことをして、叔父も父も怒るかもしれない。だが、烏丸殿に丸め込まれるわけにはいかない。
それに、これで、時憲に父親を取り戻してやれる。三位殿は時憲が本当は寂しいこと、異母弟達を羨ましく思っていることを知っている。
さて、そうして二人、向き合って話していると、弁、侍従の二人が青海波の若君を連れてやってきた。
若君は三位殿を見つけると、嬉しそうに顔を輝かせて、ととととと走り寄って来た。
三位殿は抱き上げて、膝に乗せる。
さらに、小右京に命じて銘龍舌の琴を持ってこさせ、文机に置くと、若君を膝にのせたまま、器用に弾き始めた。
派手な曲を聴き慣れている小右京には、その曲はひどく地味でつまらないものに感じた。
「それは何という曲ですの?」
三位殿がそれを弾き終えると、そう尋ねた。
「初めて聴いたのか?」
「……さあ。前にも聴いたような気もしないでもありませんが。あまり特徴がないので、覚えていません。こういう何の変哲もない曲って、沢山ございますものね」
三位殿はくすくす笑った。
「これは『石上流泉』という」
すると、弁の乳母が目を丸めて、
「琵琶の秘曲にも『石上流泉』という曲がございますとか。今の琴の曲と同じ曲ですか。それとも、題は同じでも別な曲なのでございましょうか」
と、賢しい質問をした。
琵琶にも確かに『石上流泉』という曲はある。弁の言った通り、秘曲でもある。
聞き比べれば、琴曲と同曲であるか、同名異曲であるかわかるであろう。だが、いかんせん秘曲であるので、軽々しく弾くことはできない。
今、ここにいるのは侍従と弁、小右京と何もわからない幼児、それと御簾外の時憲だけだ。
侍従はそれなりの人物だが、弁と小右京にはわかるまい。
「聞き比べてみるか?」
秘曲とは、人への伝授ばかりでなく、気安く聴かせてもならないものだ。師が弟子に伝授するのにも儀式があり、その場に他者を入れてはならず、遠ざけなければならない。
だから、私的な場だからといって、好き勝手に弾いてよいというものではない。
だが、青海波の君の幼い情緒に、この素晴らしいものを伝えたいという思いがあった。
三位殿は青海波の君を傍らに置いて、かわりに琵琶を抱き、琵琶秘曲『石上流泉』をこっそり弾き始めた。
琵琶秘曲の中では、最も秘密にされているのが『啄木』だ。これを伝授されることが、琵琶灌頂を受けることでもある。すなわち、真言宗に於ける伝法灌頂、または以心灌頂に等しい。
『啄木』と『石上流泉』、『太常博士楊真操』は大唐より伝えられた曲とされている。もう一つの『流泉』の『上原石上流泉』は、大唐のものであるのか、我が国で作られたものであるのか、はっきりしない。
よく、これ等四曲を秘する理由に、「見る」ということがある。
楽の大才のある人ならば、これ等を聴けば、その節を覚えてしまうだろう。決して複雑ではないのだ。
琵琶の心得ある大才家が、譜を得て、弾き手の手もとを見たならば、教授されなくとも弾けるようになってしまうだろう。
何を見るかと言えば。
『啄木』には三つの秘手がある。
「啄木之音」、「下重のこゑ」、「鳴飛のこゑ」である。この秘手を見るのである。
最も特徴的なのが「啄木之音」である。撥の尻で、琵琶の腹をコツコツコツコツと打つのだ。啄木鳥の音を写実的に表現している手である。打ち方は、やはり見なければわからない。
『啄木』の調も、啄木調という秘調で、この曲にしか用いない。返風香調より生じる調で、返風香調が、一(第一絃)より順に双調、黄鐘、壱越、双調なのに対し、啄木調は、乙(第二絃)を緩めて音を下げ、一と同音にする。つまり双調、双調、壱越、双調、となる。
これは、才能のある人には聞き取れてしまえることだ。だから、「見る」なのである。
むやみに秘曲を弾ける人が増えては困る。だから、伝授は秘密裏に。人前で弾くことは宜しくないのだ。
だが、今いるのは小右京達。母君の典侍殿の前は憚るが、小右京達ならば問題ない。
『石上流泉』は、『上原石上流泉』と同じく、返風香調だ。
弾き終えると、女どもはきょとんとしていた。まあそういう曲だ。
ところが、幼い青海波の君がまだよくしゃべることの叶わぬ口で、一生懸命に、
「もとは同じだったのかな……?」
と、言ったのだった。
「なるほど、そういう雰囲気ですわ」
侍従の乳母がそう言って若君の童髪を撫でる。
三位殿はこの子は音楽に向いているかもしれないと思った。
実はこの日のことは、青海波の君の遠い未来にまで、記憶として留まる出来事だったのである。
青海波の君の起源がここにあった。
若君はにこにこと笑っていた。




