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正声・六拍──石上流泉(上)

 優雅に琴など弾いている場合ではなかった。とんでもない事実が判明したのである。


 日がな一日、琴を弾いて楽しんでいた三位殿。


 彼の静かな時間を打ち壊したのは、長年召し使っている小右京こうきょうという女房の金切り声であった。


 三位殿は神経質そうな眉を顰めて、面をその近づいてくる甲高い声に向けた。声に混じって二人の人間の足音が聞えてくる。


「お待ち遊ばして、今お取り次ぎを致します故、少々お待ちを!」


と、小右京は喚き立てているらしい。


 すぐに、廂の大床を踏み鳴らして、忠兼少将が現れた。


 忠兼朝臣はうるさそうに小右京を払い除けながら、


「三位に大事なる話よ。下がっておれ」


と言う。


 小右京は備中前司の妾の妹。また、従姉妹は弁乳母べんのままといって、時憲判官の妻であり、青海波の君の乳母である。


 小右京は賢く、よくできる女房である。三位殿の兄なる人が先触れもなく現れたくらいで、金切り声を上げて取り乱すような女ではない。寧ろこの家では、珍しく慎みを忘れない女性であると、昔から重宝がられているくらいである。


 小右京がこんなに慌てたのは、今、兄弟が一触即発の状態だからで、まして忠兼が鬼の形相で現れたのだから、仰天したのも無理からぬことである。


「主に何か、危害をくわえられでもしたら……」


 との心配から、あのように慌てたのであり、それは三位殿の腹心なればこそである。人払いされるのは、小右京には不安なことだった。


 だが一瞬、兄を見上げて軽蔑の眼差しを向けた三位殿が、


「小右京。兄君と二人きりにしてくれないかな」


と言ったので、主に言われては仕方がない、彼女は何度も振り返りながら下がった。


 三位殿は無言で片付けていた。


 琴を紫地の錦の袋に入れて塗籠の中に立て掛け、譜の数々をそれぞれ蒔絵の箱に仕舞って、塗籠の中に置いた。


 その間、忠兼は庭の紅梅を背に座って待っていた。


 忠兼は兄だが、少将である。


 一方、弟の三位殿は早くに左近衛少将となっており、その後、その有能さ故に、異例の昇進で右中弁となった。その後は様々な職を歴任したが、蔵人頭を経て、参議にもなっている。正三位。今は烏丸左大臣殿の妨害を受けて不遇だが、太皇太后宮大夫だいぶではあった。


 三位殿がその向かい側に座るや否や、忠兼が両手をついた。何事かと三位殿は驚く。


「申し訳ない」


 心底詫びているらしい様子である。今更。


 二人の間には齟齬がある。まさか、もとのように仲睦まじくなりたいとでも思っているのか。


 三位殿は一つ息をしてから、静かに、


「詫びる相手が違っているのではありませんか」


と言った。


「先ずは北ノ方の御恨みを解きほぐしてあげるべきでしょう。私へのお気遣いは無用です」


 その静かな物言いが、忠兼を余計に小さくさせる。


「それは勿論、妻にも弁解せねばなりますまいが……実は、もっと大事なる話をお聞かせせねばならぬのです」


 忠兼は面を上げようとしない。


 三位殿は一つ瞬いたが、表情一つ変えない。


「それは。れよというご命令ですか。私が二条殿と離れて、兄君が二条殿の婿君となられるのですか」


 三位殿と二条殿はもともと睦まじいわけではないし、床離れて久しい。二条殿が離縁を望んでいたとしても、文句ばかりも言えないとは思っていた。


「それほどまでに、二条殿を。ただの遊びならば、許しかねるところですが……」


「お許し下さるとか?」


 はじめて忠兼が面を上げた。


 だが、三位殿の秀麗な面は、水をうったように静かで、何を考えているのか読み取れない。


「許すも許さないも。二条殿と兄君が互いに本気ならば、私の入る隙はないではありませんか」


「けれど、貴方が許さぬと仰れば、今まで通り、貴方は二条殿の婿のままだ」


「それは、そうです。しかし、私がいくら許さぬと申しましても、お二人のお気持ちまで離すことは叶いません。お二人の間に割って入っても、お二人の心まで裂くことはできないのですから、仕方がないではありませんか。本気のお二人。どうにもならないでしょうに」


 至極平然として言い放つのが、今の忠兼には恐ろしかった。


 他人事みたいに言っている三位殿だが、心は怒りで燃え滾っているに違いない。だからなかなか次の言葉が出せなかった。


「冷静な貴方だが、これを申し上げても……」


 忠兼の眼は小動物のようにおどおどと、弟の面を盗み見た。


「何か」


 三位殿の面は美しかった。一つの乱れもない。


「……実は……二条殿が……その、身籠もっておらるる、のです……」


「そうですか」


 少しも動じる様子なく、静かな顔に変化のない声。


 忠兼は唾を飲み下した。


「それで、二条殿の婿君になりたいとの仰せなのですね。どうすることもできませんね、私には」


「……」


「二条殿に宜しく」


 息が詰まる。


「……」


 起って、三位殿は簀子に行き、庭の紅梅を見つめた。


 かくして、三位殿は唯一の室の二条殿と離縁せざるを得なくなり、忠兼の子を宿した二条殿は、忠兼の妻の一人となるらしい。


 それまでの妻の朽葉の上が、狂女と化したのは言うまでもない。


 だが、どうしろというのだ。


 三位殿は平然とし、その心の内を誰も計り知ることはできなかった。


 だが、二条殿が身重故に、宮仕えを辞して里下がりするらしいと知ると、先回りして大宮中納言邸に行き、青海波の君を連れ出してしまったのである。


「若君は私が引き取ります」


 二条殿が仰天したのは言うまでもない。


 子は大概母の家で育つものだ。父母が離縁したとて、子は母のもとで暮らす。


 三位殿は青海波の君を自邸に連れて来て、自分が育てるというのである。


 三位殿の腸が煮えくり返っている証拠だと、忠兼は恐怖した。忠兼の、真正面から三位殿の顔を見ることのできない日々は続いた。


 青海波の君、歳は五つ(満で今年四つになる)。


 典侍殿が見るに、「三位殿の子にしては美しくない、我が孫ながら……」と思ったが、決して醜いわけではない。それどころか、人並み以上に優れた容姿である。同じ頃の三位殿に比べれば、見劣りするのだろうが、なかなか愛らしい、きれいな若君だった。


 ただ、典侍殿はこの若君にあまり関心がないのか、三位殿の時のように琵琶をやらせようとか、学問を身につけさせよう等とは思わないらしい。


 三位殿も、


「自分からやりたいと言うまでは、琴も琵琶もやらせることもあるまい。それより、自由に自分の選んだ道を歩んで行って欲しいものだ」


という方針だった。


 そうは言っても、やはり自分と同じ道に進んで欲しいという願いもあった。興味を持ってくれないだろうかと、何かと音楽を弾いて、聴かせていたのである。親心とは複雑にして、不可思議なものだ。


 乳母は時憲の妻の弁であったが、それに加え、備中前司の妻・侍従も新たに乳母に定めた。


 時憲と弁の夫婦には、所謂乳母子の毘沙王丸(びしゃおうまる)という子がいたが、前司と侍従の間にも娘が二人いた。


 この娘達は同年で、姉は正月生まれだが、母の侍従はこれを産んだ直後に再び懐妊し、同じ年の閏十二月には、妹が誕生した。


 姉の方は、花が綻ぶように愛らしく、又、大変に聡明であった。それで、典侍殿が気に入って、琵琶を習わせるなどして可愛がっていた。


 三位殿はこの娘の天性の麗質よりも、娘をここまでに教育した侍従に感心し、青海波の君の乳母に定めたのであった。


 侍従の乳母は、病中の夫の分までよく仕えてくれている。

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