正声・三拍──恋ひ死なむ(下)
八千の軍勢を率いる兄弟。その兄弟と駒を並べて、安友も北陸へ向かう。
弟の信時は、安友と同じ十六歳。彼は気さくに声をかけてくる。安友はすぐに仲良くなった。
「八千という軍勢は、多いのでしょうか、少ないのでしょうか」
安友にはさっぱりわからない世界だ。
信時は駒をのんびりと操りながら、
「これは我等が大臣から頂いた軍です。地方の各荘園には、それぞれ兵がおりますよ。それ等と合流して、盗賊を討ちます」
と笑顔で答えた。
これから戦に行くというのに、緊張が全く感じられない。遊山にでも行くようだ。
最近は、地方は武士ばかりが増えた。
貴族の荘園を守るために、荘園の領主らは武装するようになったのだ。そして、盗賊などから荘園を守る。
又、武士の中には悪い者もいて、他人の荘園を奪って、己の領地を広げようとする者もあった。
それらから荘園を守るために、烏丸左大臣も各々の領主に武装させてきたが、軍事力は今一つだった。
「最近、盗賊は大軍を擁しておりまして、しかも強いのです。各荘園の兵では、数でも足りません。他から援軍を送ってもらっても、俄かに合流したのでは、まとまりがありません。もっと軍事訓練が必要ですし、兵の数も増やさなければなりません。全体をまとめ、指揮する者が必要です」
「その指揮を、お二人がなさるのですね」
「そうです。武士どもをまとめるには、それなりの地位や血筋が必要でしょう。我等は烏丸の大臣の一族ですから、武士どもも従ってくれると思います」
「それで大臣は、お二人に下向を命じたのですか」
「まあ、兄が自分達ほど相応しい者はいないと訴えて、大臣も尤もだと、下向をお命じになったのですが……」
信時はふと表情を雲らせた。
「都へ帰ることなど、あるのだかどうだか……」
そう呟いた。
その日は、どこぞの山中で野営となった。
「此処は何という所ですか?」
安友が尋ねると、信時は首をひねり、
「さあ。七里半越とかなんとか」
と答えた。
時有は老将に呼ばれていて、いない。
それで、安友は信時と二人だけで食事をしていた。
信時はどこか可愛いらしい。同い年だが、安友は弟を持ったような気分だった。
「ここが何処かもわからないなんて」
と笑った。
信時も苦笑する。
甲冑は脱いで、鎧直垂だけのくつろいだ格好。
信時は口を拭おうと、懐紙を取り出した。その時、懐深くに秘めていた水晶の数珠が、一緒に出てきてしまった。
安友は目にとめて、
「その数珠、いつも大事になさっていますよね」
と言った。
「ええ、父に貰ったものです。父が大事にしていたものなのですが、この度下向する私に、餞として手渡してくれた」
信時は、愛おしそうに数珠を撫でた。
「私は生まれてすぐ、死にかけたことがあったのです。父は必死に祈ってくれました。この数珠を握りしめて。願いが天に通じて私は助かりました。以降、父は毎日この数珠に、私が健やかであるよう、良い子に育つよう祈ってくれていました。これを私にくれる日まで、ずっと。毎日。私が今日までこうして無事でいられるのも、この数珠のお蔭なのです。この数珠は私の命そのものなのです」
「信時の君は、父君が大好きなんですね」
「だって、父は私のことも兄のことも、とても可愛がってくれましたから。溺愛されて育ったのです。兄は、父のせいで大臣に信用されていないと怒っておりますが、私は……でもまあ、兄の言う通りなのですけどね」
信時は自嘲に似た笑みを浮かべた。
信時によれば、烏丸左大臣の曾祖父には、十五人の弟がいたという。その十五番目の末弟・治部卿が、信時の祖父だ。
治部卿には六人の男子があったが、身分低い家女房の腹にできたのが信時の父だった。
そういうわけで、烏丸殿の一族でありながら、信時の父は長年放っておかれた。若い頃は不遇を嘆いていたが、それでも刑部大輔となった時、烏丸殿には頼らず、自分の力でのし上がってやろうと決意した。
「その時、たまたま仙洞御所の中将の君と出会って、父はこの方と婚を通じた。中将の君は、風香殿の北ノ方の義妹ですからね。やがて、備中守の兄が生まれまして、父は四辻の大臣達と親密になりました」
安友はつい目をつり上げる。
知っている。中将の君は、韶徳三位殿の義叔母ではないか。
「父は、さらに別の女性との間に判官の兄を儲けました。新院の三の宮、つまり主上の弟宮の御生母・宣旨殿の乳母の娘。それが判官の兄の母儀です」
宣旨殿のことは安友もよく知っている。烏丸左大臣の悪行として、大変に有名なことだったからだ。
「宣旨殿は、もともとは新院の中宮、つまり現在の皇太后宮の女房だった御方ですからね。それが皇子を産んだわけですから、大臣も大変お怒りになりましたよ」
信時はそれ以上は言わないが、その宣旨殿は急死している。実は、烏丸左大臣が毒殺したのだという噂だ。さらに、三の宮も早くに出家させられていたが、これは烏丸左大臣の謀略によるものだった。
「父も、まさか宣旨殿が皇子を産むようなことになるとは予期していなかったでしょう。大臣を恐れ、判官の兄を四辻殿の男童に献上して、その母儀とともに打ち捨ててきたのです」
その頃、すでに烏丸左大臣の家女房との間に、時有、信時の二人を儲けていた。それで、急に烏丸殿にすり寄ってきて、同族だからと家司にしてもらったのだった。
だが、こんな男をどうして烏丸殿のような疑り深い人間が、信用するだろうか。烏丸一族でありながら、あちこちにすり寄っているような男を。
しかも、なおまだ中将の君とは切れていない。
その男の子供である時有、信時を、烏丸殿が重用しようとしないのも尤もである。
「我等は大臣に忠義の証をお見せしなくてはならないのだと、兄は言うのです。私は母を置いて戦に行くのは嫌ですし、何もそこまでして、大臣に忠義をお見せすることもないと思うのですが──」
「時有の君は、意地になっていらっしゃるようですね。誰も戦になんか行きたくありません。それを志願するなんて、大臣の思う壺ではありませんか」
すると信時は俯いて、数珠をぎゅっと握り締めた。
「兄は……父を心配させたかった、父に行くなと言って欲しかったのではないでしょうか」
「え?」
そして、信時はきっと顔を上げ、安友の眼を真っ直ぐに見つめた。
「御身もそうなのではありませんか?御身が我等と共に行きたいというなら、それは御身の自由です。どこまでも一緒にいらして下さい。でも、後悔するようなことはなさらないように」
「……」
自分は、姫君にどうにかして欲しかったのだろうか。安友は考える。
「私は……」
恋煩う姫君を、見たくなかったのだ。
そんな姫君は、いなくなった安友を探しているだろうか。
「御身も誰かに、心配して貰いたいのではないのですか?だから、家出を……」




