正声・二拍──太常博士楊真操
十六夜。
月が大層美しかったので、女房達は挙って観嫦娥殿に集まって、月を眺めていた。
だが、姫君は、青要殿の庭と月を眺めたい気分だった。今夜は琴堂に籠もるのは勿体無い。素晴らしい夜の眺めだ。
姫君は蘇芳匂の襲ねを美しく着て、一人、青要殿(西の対)にいた。
大床(廂)にまで出でて、御簾も巻き上げている。月明かりだけを頼りに琴の琴を弾く。
月に照り輝く青要殿の庭の百草の銀の色。それは、より一層姫君に感興を湧かせるものだった。
姫君の弾く琴。
南唐派の何参より受け継いだ漢琴の秘琴。「威神」という銘のあるこの古い琴には、梅花紋が三つも浮き出ている。
普段の練習には、余りこれは使用していない。
普段は唐の雷氏という名工一族の、開元十一年製造の無銘琴を使っている。
だが、今夜は威神を使いたい。そんな気持ちにさせる夜。
曲は『烏夜啼』。
この曲は、もともとは江南の民謡であった。それが六朝期になって発展し、琴曲になったのだという。
言い伝えによれば、劉宋時代、臨川王・劉義慶が、無実の罪で捕らえられたことがあった。ある晩、夫人は烏が頻りに啼くのを聞いて、何故か夫君は帰って来ると確信した。果たして翌日、義慶は帰って来た。後日、夫人からその話を聞いた義慶が、琴の曲を作った。それが、この『烏夜啼』であるという。
清花の姫君はこの義慶が記した『世説新語』を読んで、面白いと感じたことがある。殊に、琴の名手・三国魏末のケイ康の処刑を綴った部分は、強く印象に残っていた。
その義慶の曲である。
大変叙情的な美しい曲だ。曲頭から、もう大変甘美な心地にさせられてしまう。これほど甘く酔わされてしまう曲を、姫君は他には知らない。
夜の静寂に恋しい人の身を案じる美女の憂わしげな吐息。烏の声に、俯いていた面を、つと上げた、その愁眉……。
そのような姿が思い浮かぶ。
今夜のような晩に相応しい、夜のための音楽。
姫君は次第に激してくる後半よりも、甘やかな前半を好む。
弾き続けるうちに、いつの間にか、忘我陶酔。
姫君の心はすっかり蜜のようにとけきっていた。
やがて弾き終えて。なかなか現に帰らない心。
こんな夜に、たった一人で愛する人を待つということは、いかなる気持ちだろうか。
姫君はぐっと瞼を閉じる。自分にもそんな日が訪れるようなこともあるのだろうか。ふと、そんな言葉が頭をかすめた。
今まで、十六になるまで生きてきて、琴以外のことはほとんど考えたことがなかった。悩みは琴のことだけであり、女の、女故の悩み、苦しみなど考えもしなかった。
今後もずっとそうなのだろうと思っていたが。
何故今日はこんなことを思ったのか。姫君の中にも、知らず、恋に憧れる処が存在したのだろうか。
まさかと思って、庭の残菊を見やった時である。
はっと姫君は身を研ぎ澄ました。
姫君の耳に、聞き慣れぬ音が突き抜ける。
遠くから。
まるで、秋を偲ぶ鹿の音のように。
「……極楽から、楽の音が届いているのかしら……」
現なきことを思っていると、その仏の楽のような尊き響きは、確かにこの山荘の西方から聴こえてくる。
「この楽の音は何?」
心は西方浄土へ飛び去ったか、現なきままに立ち上がり、階を下りて、ふらふら歩き出した。
楽の音に導かれるまま──。
その音の源へ向かって──。
散る紅葉どもを振り分け、青要殿の庭を突き抜ける。西中門、さらに表門も通り抜けて、築地の外に出た。
西の表門を出ると、そのままそこは隣の敷地になっている。破れ(やれ)草庵だ。
元々この山荘と草庵とは一つだった。洞院中納言が築地を設けて、山荘を囲ってからは、二つに分断されたが。
草庵の方には門などなければ築地もなく、山荘の表門から潜り出でると、そのまま庵の敷地内に入ってしまう。
楽の音は、破れた庵の内から聞こえてくる。どうやら、その擦り切れた御簾の中で、誰かが琵琶を奏でているらしい。
何者であるというのか……
こんな音色を奏でる者を、姫君は知らない。
月が明るい。姫君の小袿を銀色に輝かせていた。
破れ御簾の内にも、月明かりは届く。
ぼうっと青白く、琵琶を奏でる者の肌が透けて見えた。
彼は持って生まれた才能に、より研きをかけた耳をとぎ澄まし、一つ一つの音を吟味して弾いている。ただ一つの細かい音とて、不注意なものはない。磨かれた珠玉。
琵琶に対するこの名手の心は清らかだ。
ようやく曲は終わった。
だか、姫君は身じろぎ一つせず、じっと御簾内を見つめたままである。「屋天子」こと山椒の木に寄りながら。
一曲弾き終えたばかりの琵琶の名手は、あれだけ集中していたのだ、疲れたのであろう、汗でも拭っているようである。
そして、何気なく面を上げた時、藪の中に人影らしきものがあることに気づいた。
瞬時に名手は身構えた。
撥を持つ右手にぐっと力を込め。この小さな撥を投げつけようとでもいうのか。
だが、藪の中を見定めた瞬間、名手の時が止まった。
はた、と目が合った。
そのまま。沈黙。
それはとても長いものにも感じたが、ほんの刹那のことなのかもしれない。
その沈黙を破ったのは名手の呟き。
「……月の精が舞い降りた……」
ようやく瞬きを思い出し、幾度かしばたたく。
名手はひどく感動している様子だ。
だが、現なき人であるのは、むしろ姫君の方だった。
自分の姿が露わになっていることに、全く気づいていない。
白い顔は透け、七色に輝く髪、その犯しがたい高雅な美しさ。神女のようなその姿が、人の目に映し出されているのに。
名手が語りかけた。
「かように拙き琵琶の音を頼りに、どうして天下られたか」
だが、姫君は、奇瑞を信じる者の整った眉目を見つめるばかりだった。
この女神は、魂を天上に置いてきたまま、器だけ地上へ降ってきたらしい。
「天は、私に何を告げようというのか……」
品のよい琵琶の公達はそう言った。言ってはみたものの、神女はなお心なきまま。
「なるほど、神仙とは、かようなものかもしれない。我々人間のように、怒り、嘆き、笑うようなことはないのだろう。感情というものは、人間特有のものなのだ」
そう悟ったらしい。
とはいえ、自分の琵琶を気に入って下さったからこそ、天はこの神仙を遣わしたのだろうと思った。
御礼せねばと、
「これより、『楊真操』を弾きます。楊貴妃が作って、太常寺の琵琶博士に与えた曲だそうです。楊貴妃はこの世で最も美しかった方だそうですから、御身のようなみ姿だったのでしょうか……」
こう言って、再び琵琶を弾き始めた。
この曲こそが、琵琶秘曲『太常博士楊真操』。
風香調。低音が魅力だ。
澄みきった、よく透る音。響きが実に美しい。撥音の余韻長く、感動的だ。
山中を突き抜け、人の心を突き抜ける楽の音。
姫君の氷のように固まっていた心も、いつの間にか熱く蠢き出す。そして、その大波がざわざわと押し寄せて、ぱんっと弾けた。それに堪えきれず、身をよろめかせた、と突然、
「姫君っ!」
という声が、ここの空気を乱した。
驚いて、撥をとり落としそうになった琵琶の公達は、当然ながらぱたと弾くのを止めた。
それで姫君は完全に現に戻った。
はっと袖で面を覆ったかと思うと、身を翻して立ち去ろうとする。
「あっ、待っ…」
名手が呼び止めたようであった。だが、それには気づかぬようで、姫君は走り出し、そのまま一気に山荘の門中にかけ入ってしまった。
門の所に安友が一人で立っていた。
「……姫君……」
安友の顔は戦慄いているようであった。
先の一声は、安友のものだった。
姫君は混乱した頭を覆ったまま、そんな彼の表情にも目もくれず、青要の庭へ走り去った。
翌日、兄君の宰相中将殿が迎えにやって来た。
夕刻には、姫君は六条西洞院第に帰っていた。
女房達も皆、共に戻ったのだが、安友だけは途中で別れた。彼は白河に住む琵琶の師のもとへ赴いていた。
白河の師は、当代一の琵琶の名手。非重代ながら、楽所預もつとめていた。その門からは、韶徳三位殿などの名手が幾人も出ている。
安友も彼等に混じって特訓を受けているのであった。彼にも才能はあるのだ。いや、それどころではない。
彼はこの若さで今年から、非重代の楽人として召し出され、六位の将曹となっていた。
この白河の師の下で、楽は一通り全て学び、催馬楽、手、掻合まで、既に伝授されている。しかし、曲──つまり四つの秘曲は未だ『上原石上流泉』しか伝授されていない。
師には叱られてばかりで、身の不遇を感じていた。そんな安友が、常々自分に言い聞かせていることがある。
「他人と比べてはならない。自分との勝負だ。自分に勝つ。自分と戦え。自分に勝つのみだ」
である。
気がつくと、すぐ他人と比較してしまうからだ。
「誰彼れは、あんなことができるのに、自分にはできない」
「自分と同じ年頃の某はもうこんな曲を平気で弾いている。自分も弾けなくてはならない」
挙げ句の果てには、名手と呼ばれる身分になれない我が身を嘆き、悲しみ、人生をとてもつまらないものに感じる。さらに、名手を羨み、そのうちに妬み、憎むようになってしまうのだ。
「自分は天才になりたいのに、どうして凡才なのだろう。天才として生きられないのならば、こんなにくだらない人生はない。別に積極的に死のうとは思わないが、この先もずっとこんな平凡な人生ならば、今すぐ死んだとしても構わない。この先、何十年生きたって何にも変わらない。今死んだとしても、それを受け入れられる」
そこまで思うこともある。
だが、彼の生命力か、音楽への未練か、名手になりたいという欲求の強さか、結局いつも、「まだ死ねない」にたどり着く。そして、彼の心は才人達への妬みで満たされてしまう。
琵琶の道ではないが、清花の姫君は羨ましい。まして、韶徳三位殿は。
憎くてならない。
安友がこの世で最も憎んでいるのは、三位殿なのであった。
そして、そんな自分がもっと憎く、許せなかった。で、
「他人と比べてはならない。自分との勝負だ」
であった。
その筈であった。
それなのに、またどす黒い感情に支配される。
「何故、音を聴かぬかっ!?」
師が、怒鳴り声をあげた。
「いつも言うているに、こなたの、その粗雑さときたらどうにもならぬな。いつもいつも言うているに。どうして自分の出す音に責任を持たぬ。どうして、もっと丁寧に音を出さぬ。どうして、もっともっと音を聴かぬ!!いつもいつもいつもっ!!」
腹を抉られるような、師の物言いに、安友の胃の腑は二、三日、物を受けつけそうにない。
安友はむかむかとする中にも、堪える根性の方が勝り、
「はい……」
と神妙に答えた。
師にこれ以上怒られぬよう、努力して弾く。早く稽古が終わらぬかと願った。
一瞬でも気の抜けない稽古である。だが、いつしか彼の脳の半分を占める愚かな部分が、清花の姫君のことを考えていた。
昨晩の姫君の行動だ。あれは何。
稽古に集中できないでいると、師がまたねちねちと文句を言う。
そうしているうちに、門下の女がやって来た。今日は安友の他にも稽古が入っているらしい。
「時間になってしもうた故、今日はこれまで。言われたことを守って、さらい直して来やれ」
師はそう言うと、早々に次の女を招き入れて、稽古を開始した。
女の弾く琵琶の音が鳴り響く中、足音を忍ばせてそっと師邸を退出した。
外はすっかり闇に閉ざされていた。稽古か終わったのに、ちっとも開放感がない。
胃の腑の辺りから、どんよりしたものが満ちてくる。
体は重く、足取りも重い。誰かに会っても、口もききたくない。供を連れずに、一人で来てよかったと思う。
今ならば、本当に死ねるよと思った。
今この辻で夜盗に襲われて落命しても、この世に妄執することなく、すんなりと死を受け入れられるだろう。むしろその方が楽かもしれぬ、今後のことを考えると。
こんな調子の歩みなので、六条西洞院まで辿り着くのに一晩かかったのだった。
人の心とは変化しやすいもので、死も受け入れられそうだったのに、しばらく経つと涙が滲み出てきた。それをごしごしと擦っていると、悔しさが出てくる。
腹が立って腹が立って仕様がない。師に非難めいた感情を持った後、自分が情けないやら悲しいやら。
さらに、他の人なら師にあんなことを言われたりはしないのだろうと思い、自分以外の人が羨ましくなった。韶徳三位殿が妬ましい。
「ああ、帰りたくない」
今、自分はとても情けない顔をしていることだろう。こんな姿、他人に見られたくない。
帰るべき場所には清花の姫君がいるのだと思うと、余計に嫌になって。
姫君ならば、今の自分のような苦しみは経験したことがないのだろうなと思う。不公平だ。
そう思っているうちに、さらに思考は別の方へと向いて行き、
「それにしても、昨夜の姫君のあれは何だ?」
と言って、怒り始める。
十六夜の月に、女房どもは皆浮かれて気付きもしなかったが、安友だけは知っている。姫君の異常な行動を。
安友は一人きりで青要殿にいた姫君が心配だった。それで彼は、自分の詰め所のある西の渡殿から、そっと様子を窺いに、青要殿の庭の隅に行っていたのだ。そして、彼も琵琶の音を聞いた。
その音に姫君が導かれ、隣の草庵に向かったので、彼は驚いてついて行った。
姫君は『太常博士楊真操』を弾く名手をじっと見入っていた。そして、あろうことか、十六夜の明月が、姫君の麗姿を露わにしてしまったのだ。
姫君が名手に見られた!
あってはならないことだ。その公達に恋慕でもされては一大事。思わず、
「姫君っ!」
叫んでいた。
姫君はすぐに我に返って、戻って来たが。
あれは、何だ。
いくら、天才肌の公達の奏でる曲だからとて、ふらふら音につられて行くなぞ。
「それほどまでに、惹かれたというのかっ!」
あの琵琶に。
これまで姫君が、あのような行動をとったことはなかった。
いつも慎ましく、邸の奥深くにひっそりと住まう人。
それだのに。
「あれは、絶対に恋だ!」
安友にはわかる。
姫君は恋を知った。




