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正声・一拍──嵯峨の山荘(下)

 姫君の嵯峨行きは、棟成卿に許可された。


 嵯峨へは、兄君の宰相中将が送って行くことになった。


 嵯峨の別邸は山荘と呼ぶに相応しい。


 木々の深く生い茂った処にある。大宮人も訪れぬ外れにあるが、静かなよい場所だ。


 閏九月、周囲は秋らしい鮮やかな色を誇っている。


 山荘に着くと、中将殿は寝殿でくつろいだ。


 姫君は一度西の対に入った後、女房どもと月見堂で月を眺めていた。


 亡き祖父(おおじ)君・洞院中納言殿を懐かしく思い出す。


 この月見堂を「観嫦娥殿(みづきどの)」と呼んだ祖父君。


 庭に目をやれば、すぐそこには筧。遣水(やりみず)が流れている。その辺りは、春には葵、夏には露草が瑞々しく生える。祖父君は遣水に「洋水」と名付けていた。


 洋水こと遣水は、やがて庭の南半分を占める池に注ぎ込む。祖父君はこの池を「弱水」と呼び、池から西の釣殿への流れを「黒水」と呼んでいた。


 弱水池の真ん中には中島があって、これを「崑崙の(こんろんのおか)」と呼び、その池の畔の梨を「沙棠君(さとうのきみ)」と呼んだ。


 何れも仙界に準えての命名である。


 仙界の崑崙山に至るには、弱水という大変厄介なところを渡らなければならない。弱水で溺れず、無事に渡るには、沙棠が必要なのだという。赤い実で味は李、核がなく、これを口にくわえると、水に浮いて溺れないのだそうだ。


 それに擬えての命名らしい。


 西の釣殿から繋がっている西の対は「青要殿(せいようどの)」というが、これも仙界に因む。


 邸の外にも色々命名されたものがある。


 邸の東南は丘になっていて、その下には井戸があったが、「湯谷井(ゆだにのい)」という。丘に桜があり、邸の寝殿から見ると、丁度この木の辺りから日が昇る。この木を「扶桑公(ふそうこう)」という。


 その西側に橘の木があるが、これは「建木公(けんぼくこう)」。


 隣接する破れ僧庵の敷地内の物にまで、勝手に名前がつけられていた。


 藪の中の山椒は「屋天子(おくてんし)」、その近くの山吹は「休天子(きゅうてんし)」という。


 この山荘と西隣の庵の北面は裏山で、長い幽谷が続いているが、ここに蘭が群生している。これを何故か「黄棘(こうきょく)」と名付け、谷そのものは「幽蘭の谷」という。


 いずれも皆、洞院中納言がつけた名だ。


 姫君は懐かしく、ぼんやり庭を見ていた。


 暫く後、この山荘の管理役の翁が来て、姫君に挨拶した。


 御簾越しに見る翁はひどく若い。


 女房達がこそこそ囁き合う。


「確か九十三歳になった筈。ちっとも老けないこと。ますます元気」


「いくつまで生きられるか。まこと赤松子」


 洞院中納言の乳父(めのと)だ。中納言が赤松子というあだ名をつけた、不老の人。


 姫君は赤松子からの挨拶を受けると、女房達をその場に残して、一人、琴堂に入った。


 一日たりとて、琴の練習を休むわけにはいかない。


 姫君は琴堂に入ると、そのまま朝方まで出てこなかった。


 一つの音を出すのも苦労。美しい音。絶妙の響き。それを求めて試行錯誤。弾いた瞬間の音と、伸びて行った響き。これをよく聴き、前後の音とのつながりと均衡を適宜に。


 一日中やっていても、切りがない。


 いくら練習時間をとっても、一日では、一曲の頭から曲尾までさらいきれない。


 こうして、満足いかぬままに朝になったのだった。


 それから毎日、姫君は琴堂に籠もって練習を続けた。女房たちの前に姿を見せることもなく、日々練習に励んでいたが、冬の初め頃、庚申の日がやってきた。


 この日は眠ると、三尸さんしという虫が体外へ抜け出して、上帝に悪口するので、寿命が縮められると言われる。だから、一睡もしないで過ごす。


 宮中でも物合(ものあわせ)や管絃をして、遊び明かす。


 この山荘でも、皆で楽を奏で、歌を詠むことになった。


 この夜ばかりは、姫君もこれに加わった。


 夜半頃になると、幼い佐保姫や竜田姫は眠くなってきてしまう。そこで絵合(えあわせ)貝合(かいあわせ)をした。


 こうした類の遊びは、大金持ちには敵わない。大概讃岐が勝。


 その後は、佐保姫と竜田姫に箏を弾かせた。


 それから、安友が得意の『緑腰』のような曲を弾いて、例によって讃岐に笑われた。すると、喧嘩になって、なかなか凄かったので、幼い姉妹の眠気も吹き飛んだ。


 宰相中将殿も龍笛を吹いて、安友との合奏で遊んだ。


 御簾内では姫君が箏の琴を合わせるとか、和琴を弾くようなこともあって、琴の琴ばかりでなく、弾物(ひきもの)の達人であることが改めて人々の実感としてわかったのである。


 その後は。


 姫君は、父君の政所令(まんどころれい)兵衛尉有時(ひょうえのじょうありとき)の瑟を気に入っており、明け方までずっと彼に弾かせていた。


 そうして、庚申待ちの遊びは終焉したのであった。


 その明けた日の昼、宰相中将殿は、有時とともに洛内へ帰って行った。


 だが、姫君はなお、この山荘に留まる。

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