ヘイディ
「今日もバイト? 精が出るわね」
「もうすぐお休みでしょ。田舎に帰るためのお金稼がないと」
栗色の長髪を無造作に高い位置で一つに縛っただけの少女は、そう言って快活な笑顔を友達に向け、校門で軽く手を振って別れた。
少女の名はヘイディ。
背中部分に黄色のラインの入った、フード付きの黒いローブをはためかせている。背筋の伸びた姿勢と、やや細身で小柄ながら健康的な体つきが、はためいたローブのすき間から見て取れる。そして、何よりも目を引くのは、彼女の耳だ。わずかながらも上向きに、そして繊細に尖っているのが分かる。それは、彼女の遙か昔のご先祖様が、エルフであったことの名残が一族の耳に現れているのだという。
ヘイディは、ヴィンデルシュタットにある二年制のユンカー魔法学校の基礎学年生――つまり一年生だ。基礎学年では、魔法の基礎理論と実技を一年かけて学んでいく。
性格は天真爛漫、明るく活発で、常に人の輪の中心にいるようなムードメーカーだ。その屈託のない笑顔と、誰に対しても分け隔てなく接する姿勢は、多くの生徒からの人気を集めている。座学成績では常にトップクラス。実技、特に運動能力と基礎的な魔法の発動スキルにおいても、入学直後から申し分ない結果を残していた。
しかし、完璧に見える彼女には、魔法士としては明確で、そして致命的とも言える欠点が存在していた。
それは、攻撃魔法の類いが一切使えないことだ。
ヘイディが持つ魔力の総量は、このユンカーの中でも群を抜いて多かった。それは彼女の才能の証であり、将来を嘱望される理由でもあった。だがその一方で、攻撃魔法が使えないことは、魔法士としては致命的だった。その豊かな魔力量をもってすれば、上級に分類される魔法ですら容易に行使できるレベルだ。実際に攻撃魔法以外では、基礎学年制にして上級魔法を使いこなす器用さを見せていた。しかし、攻撃魔法になると、初級の魔法ですら発動すらしないのだ。
ユンカー魔法学校では、成績順に一組から五組までクラス分けがおこなわれている。魔法能力において、優秀な生徒が一組に集まっている。ヘイディは、大部分の能力で一組の基準を遙かに超えていたが、その唯一にして最大の欠点――攻撃魔法が使えないことが響き、二組に編入されていた。
彼女自身、その事実は受け入れてはいたが、時折、一組の学生の授業風景が目に入ると、その快活な笑顔にわずかな陰が差すのは確かだった。
学校を出たヘイディは、そのまま街の南へと足を向けた。ヴィンデルシュタットは王国の辺境に位置し、街の傍には広大な森が広がっている。そのため、この街には探索士の活動が盛んで、多くの探索士が集まってくる。その探索士を束ねる探索士協会が南門の近くにあるため、街の南側には武具や鍛冶の店が多く集まっていた。その中のひとつが、ヘイディがアルバイトする魔法薬の店『ドーリスの魔法薬』だ。
――カララン……
呼び鈴の付いた扉を開けて、ヘイディは店内に足を踏み入れた。店内に客の姿はなく、店の奥にあるカウンターにも人の姿はなかった。
ふんわりと薬草の匂いが漂う店内を、ヘイディはずんずんと入っていく。そのままカウンターを潜って店の奥へと進むと、迷うことなく扉を開け、声をかけながら中へと入っていった。
「お疲れ様!」
店の奥には調合室として使っている小部屋があり、ヘイディが声をかけると、調合鍋をかき混ぜていた老婆が驚いたように顔を上げた。部屋には調合鍋の熱気がこもり、窓から差し込む光に照らされて、立ち上る湯気の中でキラキラと輝いていた。
「おや、もうそんな時間かい!? ヘイディ、悪いけど店番してくれるかい? 今皆出払ってて人がいないんだよ」
老婆は鼻眼鏡を外すと、鍋を火から下ろし、指先をちょんと浸して具合を確かめるように調合薬の味見をおこなった。
「わかったわ」
そう返事したヘイディはローブを脱ぎ、部屋の隅にある古びたポールハンガーから、使い込まれた店のエプロンを手に取り、代わりにローブをハンガーにひっかけた。
「すまないねぇ」
「いいのよ。どうせまた食事抜きで調合してたんでしょ。ゆっくり休憩してきてね」
「ありがとうね」
老婆はそう言うと、腰をさすりながら奥の住居スペースへと引っ込んでいった。
彼女の名はドーリス。この店「ドーリスの魔法薬」の店主である。五十年近くこの場所で魔法薬を売っていて、ヴィンデルシュタットでも評判の店だ。探索士協会が近くにあるため、探索士にもなじみの店となっている。
すでに店は息子夫婦に任せて引退しているが、今でも調合の腕に関しては息子夫婦よりも優れているといわれ、時折店番をしながらこうして調合をおこなっていた。
「いらっしゃい!」
澄んだ、明るい声が店内に響いた。ヘイディが店番に立ってからしばらくして、顔なじみの探索士が回復薬を買うため店を訪れた。
「おっ、今日はヘイディちゃんが店番かい?」
探索士の男性は、店の入り口でヘイディの姿を見つけると、顔全体を綻ばせて言った。その声には、彼女が店にいることへの純粋な喜びがにじみ出ていた。
「今日も回復薬? 今日のはね、朝一番で調合したばかりなの。できたてで新鮮よ」
ヘイディの言葉に、男性の表情はさらに明るくなった。彼女は調合したのは誰とは言わなかったが、その言葉を聞いた男性は、勝手に彼女が作ったのだと思い込んでいた。ヘイディは一瞬、言葉を継ぎそうになったが、すぐにいつもの笑顔を浮かべて微笑んで見せた。
「相変わらずヘイディちゃんは上手だねぇ。じゃ、それを三つ、……いや、五本くれ」
ヘイディが薦めるという安心感、そして何より彼女から直接購入できる嬉しさが、彼に財布の紐を緩めさせた。彼はニコニコと露骨に機嫌がよくなった様子で、小銭をカウンターに置いた。
普段、この店の店番はドーリスの息子夫婦が務めている。彼らも真面目で調合の腕の立つ人間ではあるのだが、如何せん口数が少なく、商売人としては少々愛想がよくなかった。そのため、店全体の雰囲気もどこか静かで活気に欠け、客からの評判も「品揃えはいいが、どうも愛想がない」といったものになりがちだった。
しかし、ヘイディが店番に立つ日は全く雰囲気が変わる。彼女の愛想の良さと、太陽のような明るさは、店の空気を一変させた。自然と客足は伸び、店の売り上げは彼女が店番に立っている日の方が、明らかにアップするのだ。
ヘイディ自身はあくまでアルバイトで、学校もあるため、それほど頻繁に店先に立つわけではなかった。それでも、彼女が店にいる日を心待ちにする客は多く、いつしかヘイディはこの店の「看板娘」として認知され、彼女の笑顔が店の活気と信頼を支えていた。
夕方ということもあってか、回復薬の補充に次々と訪れる探索士達。
回復薬といっても、ちょっとした切り傷や擦り傷には効果が高いが、大怪我にはそれほど効くわけではない。効かないということはないが、瞬く間に傷が癒えるという便利なものではないのだ。それはドーリス以外の店の回復薬でも同じだ。
重傷を癒やそうとすれば、治癒師による治癒魔法が確実だが、治癒魔法の使い手は少なく、ほとんどが王宮魔法師として王都にしかいない。また、治癒魔法は瀕死の重傷でも癒やすことができるが、その効果が高すぎるため人の理に反するとして忌避する者も多かった。また、効果が高いが故に使用するには国王の許可が必要となっていて、実質的に治癒魔法は禁術と変わりなかった。
この店の回復薬は他のものよりも効果が高く、また探索士協会からほど近くにあるため、探索士のなじみの店となっていた。また、誰が来ても愛想よく笑顔を振りまくヘイディは、この界隈ではちょっとした人気者で、多くの探索士達が恋人にしたいと密かに願っていた。もちろんその中には、柄の悪い連中も含まれる。
――カララン……
「本当にいたぜ!」
ぞろぞろと音を立てて店に入ってきたのは、素行が悪くて有名な探索士の男達四名だった。彼らは店に入ってくるなり、レジカウンターの内側に立つヘイディの姿を値踏みするように見つめ、下卑た笑みをニタニタと浮かべた。その眼差しは、獲物を見つけたかのような、いやらしい光を帯びている。
「言ったとおりだろ? さっき表の通りで、ヘイディを見かけたって」
鼻の下に薄汚い髭を蓄えた男が、自慢げに胸を張る。どうやら表の通りでヘイディの姿を見かけ、「ドーリスの魔法薬」へと押しかけてきたのだろう。
「ああ、愛しのヘイディ。やはりキミとは結ばれる運命だったんだ」
芝居めいた仕草と台詞でポーズを取ると、ずかずかと魔法薬の陳列棚の前を通り抜け、レジカウンターのすぐ目の前までやってきた。彼らはヘイディを取り囲むように立ち、威圧的な態度で見下ろす。カウンター越しではあるが、その距離はヘイディにとって心地よいものではなかった。
「ここは魔法薬のお店です。冷やかしなら、他所へ行ってください」
ヘイディは、僅かに目元を吊り上げ、冷ややかに言い放った。その声には、拒絶の意が明確に込められている。しかし、男達はその警告を意に介した様子はない。それどころか、ヘイディの怯えを隠そうとする態度が、彼らにとってはさらに面白く感じられたようだ。
「いいじゃねぇか、そう硬くなるなよ。今は客なんてほとんどいねえんだしよ。なぁ、それより俺らと旨い飯でも食いに行こうぜ!」
一人の男が、カウンターに肘をつき、馴れ馴れしい口調で誘いをかける。彼の口からは、酒とタバコの混じったような不快な匂いが漂ってきた。
「今店番中です」
ヘイディは短く、きっぱりと答える。
その言葉を待っていたのか、男の一人はニヤリと下品に笑った。
「なんだ、今じゃなきゃ大丈夫なんだな? よし、わかった。店番が終わるまで、俺らここで待ってるぜ。何時間でも付き合うよ、嬢ちゃん」
そう言って、男はカウンターにドカッと座り込むような仕草を見せた。他の男達もそれを面白がり、ニヤニヤと笑いながら店の壁にもたれかかったり、商品棚を無遠慮に眺めたりし始める。
「そういう意味じゃないわ! 何時間待とうが、あんた達とは行かないと言っているの!」
ヘイディは声を荒げた。店の中に、ヘイディの怒りの声が響き渡る。だが、その言葉は彼らの耳には届いていないようだった。男達の顔には、ヘイディの抵抗を「可愛い悪あがき」とでも言いたげな、不愉快な余裕の笑みが浮かんでいた。
「俺達にそんなこと言っていいのかい? こう見えて俺達は、四等級パーティなんだぜ。俺がちょっと『ドーリスで不良品を掴まされた』っていやぁ、こんな店すぐに潰れちまうぜ」
「なんて人達なの!?」
悔しそうに顔を歪めるヘイディを見て、勝ち誇ったかのような顔を浮かべる男達。
その実力は確かで、素行面が問題なければ、三等級へと昇級していてもおかしくはないと言われていた。中でもリーダーのデニスの実力は抜けていて、個人でも三等級の実力を誇っていた。だが、新人の探索士を虐めたり、依頼料が安いと受付にいちゃもんを付けるなど、周りからは煙たがられていた。剣士四人のパーティだったが、攻守の役割分担が明確でバランスの取れたパーティだった。
「……いいわ」
ヘイディは深く息を吸い込むと、目の前の男――デニスを真っ直ぐに見据えていた。
「へへっ、最初から大人の言うことは聞いておくもんだぜ」
ヘイディの言葉を肯定と受け取ったデニスが、口角を醜悪に吊り上げ、下卑た笑みを浮かべた。その表情には、自身の勝利を確信した傲慢さがにじみ出ていた。
しかし、彼のその勝利の笑みは、次の瞬間、凍りつくことになる。
「これ以上迷惑行為を重ねるなら表に出なさい! 相手をしてあげるわ!!」
ヘイディが発した言葉は、デニスの予想を遥かに超えた、信じられない内容だった。彼女の声には、先ほどの静けさはなく、鋭い剣のような響きが込められていた。
「……は?」
まさか、この場で、しかも相手が自分であることを理解した上で、真正面から喧嘩を売られるなどとは、デニスは夢にも思っていなかった。彼の大きく開けられた口は、そのまま閉じることを忘れ、顔から一瞬にして下品な笑みが消え失せた。
「誰が相手をするだって!?」
デニスは一瞬、耳を疑った。まさかこの小娘が、自分たちに勝負を挑んでくるとは。しかし、その驚きはすぐに、新たな獲物を手に入れる絶好のチャンスだという確信に変わる。
「くくく、まさかベッドの上での相手をしてくれるのか?」
デニスは下卑た笑みを浮かべ、冗談めかして尋ねた。
「ち、違うわよ。バカッ!!」
真っ赤になったヘイディが、デニスの軽口に慌てて否定の声を上げる。デニスはさらに楽しそうな笑みを深めた。
「じゃ、ベッドじゃなきゃ、何なんだ? まさかこれじゃねぇよな?」
デニスが腰に下げたショートソードを指し示すと、ヘイディは壁に立てかけてあった、自身の杖を素早く手に取った。
「そのまさかよ!」
ヘイディは毅然とした態度で言い放った。デニスは仲間たちと顔を見合わせ、大声で笑い出す。
「俺達相手に、嬢ちゃんが? 冗談だろ!?」
「本気よ! あんたたちを叩きのめすわ!」
デニスは笑いを止め、ヘイディを侮蔑の眼差しで見下ろした。
「やめておいた方が身のためだぜ。俺達は知ってるぜ。お前は魔法士なのに、攻撃魔法を使えねぇってことをな。いくら杖を持って粋がったところで、ただの棒切れだろうが」
デニスの言葉は、ヘイディの最も痛いところを突いた。その事実にヘイディの顔には一瞬、怯えと動揺の影がよぎった。だが、それは本当に一瞬のことだった。ヘイディはすぐに表情を引き締め、挑戦的な、そしてどこか勝ち誇ったような笑みをデニスに向けて挑発した。
「あんた達こそ、攻撃魔法すら使えない魔法士に負けた言い訳を、今のうちに考えておいた方がいいわよ。後で泣き言を言っても知らないから!」
「いいだろう。調子に乗りやがって! 表に出ろ!」
デニスは怒りで顔を歪ませ、ヘイディを外へ促した。ぞろぞろと表に出て対峙すると、夕方の通りにはたちまち人だかりができていく。
「へへっ、今なら謝れば許してやってもいいぜ」
「うるさいわね。なんでわたしが、あんた達に謝らないといけないのよ。逆じゃない!」
余裕なのか、へらへらと軽口を叩くデニス達に、ヘイディは憤慨しながら言い返す。そうこうしている間にも、ギャラリーはどんどんと増えていて、気付けば十重二十重にも人垣が広がっていた。
「そこの坊主。そう、お前だ。ちょっと立会人してくれや」
デニスは、人垣の最前列にいた少年に声をかけ、半ば強引に立会人として引っ張り出した。短く刈り込んだ藍色の髪の少年は、不満げな顔を浮かべながらも、大人しくデニスに従った。
背格好からすれば、年齢はヘイディとそれほど変わらないように見える。腰にデニスと同じようにショートソードを佩いていることから探索士だと思われるが、デニスはその少年と面識はないようだった。
「ルールはどうするんだ?」
「ああ? ルールだぁ? そんなもん勝ったもん勝ちに決まってんだろ!」
「いや、だから、どうなれば勝ちなんだ? 討ち取る訳にはいかないだろうが!?」
少年がルールを問うと、デニスはいかにも面倒くさそうに答える。どうやら巻き込まれたにもかかわらず、少年は真面目に立会人を務めてくれるようだ。しつこくルールを確認してくる少年に、デニスは辟易とした様子で、最後は根負けしたように「模擬戦ルール」でおこなうことを了承するのだった。
「模擬戦ルール」とは、剣士や魔法士の間で一般的な模擬戦のルールだ。武器は刃のない木剣などを使い、魔法は初級までに限られていた。要は相手を間違っても殺さないようなルールとなっている。それに加えて今回は、相手が学生のヘイディということで、デニス達には寸止めのルールも加えられることになった。
勝負の内容は、デニス達が勝てば「ヘイディを好きにできる」。そして、ヘイディが勝てば「彼女の前に二度と現れない」というものに決まった。
「それで、四対一だけど、お嬢さんはそれでいいのかい?」
心配そうな表情を浮かべた少年が、ヘイディに最後の確認をする。少年の目には、明らかにヘイディへの同情の色が浮かんでいた。
デニス達は、喧嘩を売られたのはパーティ全員だとして、四対一の勝負を主張した。これには周りの野次馬から「大人げない」「卑怯だ」などのヤジが飛んだが、デニスは頑として譲らない。最終的にヘイディが認めたことで、四対一の変則マッチが実現したのだった。
「別に構わないわ。全員倒せばいいんでしょ。一人ずつ相手にするのも面倒だもの」
ヘイディは準備運動をしながら、苛立ったように言い放つ。そして、なおも不安げな少年に向かって、毅然と言い放った。
「あと、わたしにはヘイディって名前があるの。お嬢さんなんて呼ばないで」
「わ、わかった、ヘイディ」
少年は、その強い瞳に気圧されたように、たじろぎながら下がっていった。
四人の屈強な男たちに対し、たった一人の少女。
野次馬たちは、この無謀な戦いの結末を見届けようと、固唾を飲んで見守っていた。誰もが、ヘイディの惨敗を予想していたが、その少女の勝ち気な瞳には、静かな怒りの炎が宿っていた。
「さっさと終わらせて、たっぷりと可愛がってやるからな」
対峙したデニスが、いびつに歪んだ笑顔でヘイディを挑発する。だが、ヘイディは無言のまま、デニスを虫けらでも見るかのように見つめるだけだ。
「へっ、その気の強そうな顔、たまんねぇぜ」
デニス達は舌なめずりするような目でヘイディを見つめていた。彼らは魔法士との戦いの経験はなかったが、まだ学生でしかないヘイディに遅れを取るなど、微塵にも思っていなかった。彼らの頭には勝負に勝った後、生意気なヘイディを奴隷のように言うことを聞かせることしかなかった。
「いいな。必要以上の暴力行為は禁止だぞ!」
「何度も言わなくたって分かってるよ。さっさと始めろ!」
少年の言葉にも聞く耳を持たず、デニスはすでに剣を構えていた。剣には鞘を被せたままなのを見ると、一応ルールを守るつもりではあるようだ。その様子を見た少年が、ヘイディに視線を移す。ヘイディが軽く頷くのを見ると、右手を静かに挙げ、開始の合図と共に振り下ろした。
「……始め!」
その瞬間、四人の男が一斉に足を踏み出した。
「……!?」
しかし、一歩踏み出した瞬間、その勢いが一気に削がれてしまう。ヘイディが素早く土魔法を発動させ、彼らの足元を泥濘みに変えたのだ。
通りは石畳で舗装されているにもかかわらず、まるで雨上がりの街道の轍ように、彼らの足がくるぶし付近まで沈んでいた。そこに、ヘイディが腰のポーチから取り出した薬瓶を放り投げた。
薬瓶はゆっくりと放物線を描いて四人の真ん中に落下すると、「パリン」と乾いた音を立てて砕け散る。瓶から白い煙が男達を包み込むが、一瞬後に煙は何事もなかったかのようにすぐに晴れた。
「清らかな泉」
そこにヘイディが、魔法を発動させた。それは、ただの生活魔法だった。彼女が生み出した四つの水球は、ゆっくりと移動すると男達を包み込んだ。
「げほっ、げほっ……ふざけた真似を!」
その水球は数秒で跡形もなく消え失せる。男達は、水で咽せたもののほとんどダメージはない。なんとか沼から脱すると、怒りに目を吊り上げながら再び剣を構えた。そんな男達に、ヘイディは杖を下ろすと静かに告げる。
「わたしの勝ちよ」
そう言うと、くるりと背中を向けて立ち去ろうとする。
「待ちやがれ! まだ勝負はついちゃいねぇ!」
その姿に激高したデニスが、真っ赤になって叫ぶ。
「もう一度言うわ。わたしの勝ち。あなた達はもう戦えないわ。約束通り、二度とわたしの前に現れないで」
振り返ったヘイディが冷たく言い放った。だが、デニスは納得できるはずもなく、なおも食い下がろうとするが、仲間の男達に異変が現れる。
「くっ、な……んだ、これ!?」
仲間の一人が、剣を取り落とすと、喉をかきむしるようにして苦しみ始めたのだ。ほかの男達も剣を手放し、背中や腹を掻いている。一度掻き始めると止まらないらしく、とてもこれ以上戦える状態ではなさそうだ。
「ヘイディ! こいつらに何をした!?」
デニスが睨むが、ヘイディは冷ややかな視線を向け、不思議そうに首をかしげた。
「あら、おかしいわね? あなたには薬が効かなかったのかしら?」
「なんだと!?」
デニスが目をむいてそう言ったときだ。背中に悪寒が走った。
悪寒はすぐに背中から身体全体に広がっていく。同時に強烈な痒みが全身を襲い、立っていられなくなる。
「て、てめぇ、何しやがった!?」
そう叫んだときには、もう痒みを我慢していられる状況ではなかった。背中や腹を爪を立ててガリガリと掻きむしる。すぐに肌がミミズのように腫れ上がり、そこから血が滲むが、気にする余裕はなく掻かずにはいられない。
「安心して。ただの虫除けの薬よ」
ヘイディの説明によると、砕いた瓶には彼女の村で使っていた、虫除けの薬が入っていたのだという。その薬の虫除け効果は抜群だが、水に濡れるとかぶれるという欠点があった。そのため、薬効が持続する数時間の間は、水に触れたり濡れたりしないように注意が必要だった。万が一濡れてしまうと、一週間ぐらい続く痒みに悶絶することになる。それを今回ヘイディは、容赦なく使ったのだった。
「ひ、卑怯な?」
デニスは、全身を襲う耐え難いほどの痒みと、魔法士という相手に対する無力さへの激しい悔しさに顔を歪めた。絞り出すかのような掠れた声でヘイディを睨みつける。その言葉を聞いたヘイディは、驚いたように目を丸くした。
「卑怯? 大の大人四人でわたしを取り囲んでおいて、どの口が言うのかしら? それに、どういうつもりだったかは知らないけど、魔法士相手に無策で突っ込んでくるなんてバカじゃないの!?」
「うるせぇ! とにかく、俺はまだ負けてねぇ!」
痒みを堪え、肌を掻きむしりたい衝動を必死に堪えながら、デニスは剣を拾って立ち上がった。
一瞬、デニスのその頑強な精神力に驚きを覚えたような表情を見せたヘイディだったが、、それはすぐに冷めた無関心なものへと戻った。ヘイディは淡々と告げる。
「あなたはまだ戦う気満々のようだけど、残念ながら、あなた以外の皆さんはそうでもないみたいよ?」
彼女の言葉に振り向いたデニスは、三人の惨状を見て愕然となった。三人はもはや立っていることすらできず、往来のど真ん中で、涙を流しながら自らの身体を掻きむしっていた。
「……まだやるの?」
デニスが振り向けば、すぐ後ろに杖を構えたヘイディが立っていた。すでに魔力が込められているのか、杖の先にある青い魔法石が淡い光りを放っている。
「……まいった」
「勝者、ヘイディ!」
デニスが絞り出すように両手を挙げると、少年が素早くヘイディの勝ち名乗りを上げた。
野次馬達から割れんばかりの歓声が降り注ぐ。
ヘイディは歓声に包まれながらも、ホッと安堵の吐息を吐いていた。彼女の身体から、先ほどまで張り詰めていた緊張感が一気に抜け落ちていく。
「あんたたち、さっさと病院に行った方がいいわよ」
ヘイディは、地面で悶絶しているデニスとその仲間たちを一瞥し、冷ややかに言い放った。
デニスは、全身の猛烈な痒みに加えて、屈辱と怒り、そして追い打ちをかけるヘイディの言葉に、声にならない呻きを上げた。
結局、デニス達は、立会人の少年が呼んだ衛兵によって、屈辱的な姿のまま、通りから引きずられていくのだった。
「……ヘイディ」
店の入口を潜ろうとしたところで、立会人を務めていた少年が、遠慮がちに声をかけてきた。
「なあに、まだなにかご用?」
ヘイディはややぶっきらぼうに答えた。余裕の勝利と思われたが、声には意外にも疲労が滲んでいた。
「いや、君の戦い、凄かったよ。万が一のときは助太刀しようと思ってたんだけど、全然必要なかったね。あんな戦い方、初めて見たよ! ホント凄かった!」
藍色の髪の少年はヘーゼルの瞳を輝かせ、先ほどの戦いの興奮をまだ帯びていた。
「そんな大層なものじゃないわ。あなたも聞いてたでしょう? わたしは攻撃魔法が使えないの。だから姑息な手段を使うしかないだけよ」
ヘイディは、どこか自嘲するかのように、そっけなく答えた。勝利したのは彼女にもかかわらず、表情には苦いものが浮かんでいる。
「それは違うよ!」
少年は意外にも強い口調で否定した。まさか否定されると思わなかったヘイディは、不思議そうに首をかしげる。
「相手は四等級の探索士なんだ。そんな奴らから逃げることなく立ち向かった。それだけでも凄いことなのに、ヘイディは勝ったんだ。もっと誇っていいと俺は思う」
学校で何度も模擬戦をおこなったが、これまで誰にもそのようなことを言われたことがなかった。少年の思いがけないその言葉は、ヘイディの胸の奥に素直に沈んでいった。
「あ、ありがとう。えっと……」
「アランだ」
照れくさそうに感謝を伝えたヘイディに、その少年は力強く胸を張って自分の名を告げた。
「この街の兵学校に通ってる。休みの日は探索士の仕事もしてるんだ。といってもまだ五等級だけどね」
アランと名乗った少年は、そう言って清々しい笑顔で言った。
「ありがとう、アラン。あなたが立会人を務めてくれてよかったわ」
ヘイディはそう言って、花が咲いたような笑顔を浮かべた。




