婚約
第二次イタリア戦争において、イングランドの援軍を期待していたキャサリンの両親もアーサーの逝去に動揺した。
そして、イングランド側に対し、持参金の返還と結婚に伴って得た資産(寡婦財産)の引渡しを求める一方、ヘンリー王子との縁組を進めるよう働きかけたのだ。
当時、若い未亡人は持参金とともに帰国するのが常識だったが、ヘンリー7世側も巨額の持参金の返却を惜しんだ下心から、ヘンリー王子との婚約を持ちかけた。
夫を失い、また両親からの直接の慰めの手紙もなく、失意のキャサリンは、ロンドンのダラム司教館で、孤立しながらも静かに暮らした。
唯一の慰めは、アーサーの弟妹たちの訪問だった。
キャサリンがヘンリー王子と再婚するにあたり、アーサーと肉体関係があったか否かが重要となった。
これは兄弟の妻と肉体関係を持つことを禁じた旧約聖書『レビ記』18章16節や20章21節に抵触するためである。
デ・プエブラはこの事実の確認にあたり、新床に祝福を与えたジェラルディニ神父は「関係はあった」としたが、女官長マヌエル夫人は「関係はなかった」とし、ヘンリー王子との再婚を望むキャサリンの実母であるイサベル女王は後者を信頼した。
背景にはダラム司教館における権力闘争があったが、デ・プエブラは失脚し、ジェラルディニは帰国する事態になった。
キャサリンはジェラルディニを失ったことを悲しみ、同胞スペイン人にも警戒しなければならないことを認識した。
それだけではない。
マヌエル夫人の言を逆手に取ったヘンリー7世は、寡婦財産も生活費も渡す必要はないとし、さらにスペイン側もイタリア戦争の軍事費から金銭援助を行わず、キャサリンは経済的に困窮する中で、マヌエル夫人と信仰に依存せざるを得なくなったのだ。
「えっ? 私が?」
「そうだ。其方がアーサー亡き後の王太子になる。」
「はい、それは兄上のように王太子として努めます。」
「うむ。」
「ですが、陛下。何故、私が義姉上と慕っておりますキャサリン妃を妻に迎えねば
ならないのでございましょう?」
「スペインとは婚姻で繋がっておかねばならぬのよ。
これは、王家に生まれた其方の果たす役割じゃ。
良いな。其方はこれよりイングランドの王太子としてキャサリンと婚約する。」
「はい。」⦅断れないんだな……これぞ政略結婚だな。⦆
1503年6月23日、ヘンリー王子との婚約がイングランド・スペイン双方の合意で成立した。
婚約式において、アーサーとの結婚は成立していないことを根拠に教皇に結婚の許可を申請することが決定され、また婚礼はヘンリーが15歳に達し、残りの持参金が支払われた時点で行われることとなった。
「義姉上様。此度の婚約は義姉上様にとりまして不本意だと存じます。
ですが、どうかイングランドとスペインの為に!
私の妃になって頂きとう存じます。」
「ヘンリー王子様。お心遣い感謝申し上げます。
アーサー様がお亡くなりになられてから……
私の心を慰めて下さったのは、アーサー様の御弟妹でございます。
何度も訪れて下さいました。
此度の縁も私は喜んでおります。」
「誠でございますか?」
「はい。また、見知らぬ国に嫁げねばならぬよりは……
お心を存じ上げておりますヘンリー王子様となら……
妃として努めることが出来ます。」
「誠で!」
「はい。」
「大切に致します。
兄上が出来なかった……義姉上様を幸せに……
私が兄上に代わり義姉上様を幸せに致します。」
「ヘンリー様………嬉しゅうございます。」
⦅兄上、お許しください。
兄上の大切なお方を私は妻に迎えます。
どうか、お許しを!⦆
キャサリンはやがて病気がちになり、婚約者ヘンリー王子の訪問を心待ちにするようになった。
婚約式は終えたが、教皇から結婚の許可が下りぬまま一年余りが経過した。
そして、死期が近づいたイザベル女王は教皇ユリウス2世からの特免状(勅書)を非公開の条件で取り寄せ、そして教皇の意に反して公開して娘に王妃の地位を確保し、1504年11月26日に崩御した。
イサベル女王の崩御から、カスティーリャ王位を継承したフアナとその夫フェリペが、フアナとキャサリンの父であるアラゴン王フェルナンド2世と対立し混乱が起きていた。
その後、1506年9月26日にフェリペが急死するとフアナが発狂したため、フェルナンド2世はスペインにおける実権を取り戻し、1507年7月にキャサリンを駐イングランド大使に任命するとともに初めて金銭的援助を行った。
キャサリンは金銭的に困窮していたが、やっと父からの援助を受けることが出来たのだ。
「ヘンリー様、お越しくださいましたのね。」
「義姉上様、御身体は如何でございますか?」
「まだ、キャサリンと呼んでは下さらないのですね。」
「そ………お呼びしても宜しいのですか?」
「呼んで下さると嬉しゅうございます。」
「……で……では、キャサリン。」
「はい、ヘンリー様。」
ヘンリー王子の父ヘンリー7世は持参金の残額が未払いだったことと『レビ記』のタブーから、婚約させたのに結婚を許可しなかった。
ヘンリーは日本の家族の元へ戻ることを、まだ諦めていなかった。
ただ、術は分からぬままだった。
それを焦る気持ちと、少しずつ記憶が薄れていくのを感じていた。
父のこと、母のこと、そして最愛の妻のことを忘れてしまいそうで怖かった。
旧約聖書「レビ記」…「人もし兄弟の妻を娶れば汚らわしきことなり」




