王妃アン・オブ・クレーヴズ
1539年に神聖ローマ皇帝でありスペイン国王カール5世とフランス国王フランソワ1世が同盟を結び、パラノイアとなったヘンリー8世は神聖ローマ帝国とフランスの連合による侵略を恐れるようになった。
ヘンリー8世は修道院から没収した財産を使って沿岸部の防備を固め、ヨーロッパ大陸に同盟者を求め、新たな王妃をヨーロッパ大陸に探すようになった。
王妃候補として白羽の矢が立ったのは、カール5世に対抗する有力な同盟相手となりえるユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の姉、アン・オブ・クレーヴズである。
ヘンリー8世から命を受けたクロムウェルが推薦した。
宮廷画家のハンス・ホルバインが送られてアンの肖像画が描かれ、これを見たヘンリー8世はアンと結婚した。
ヘンリー8世の3番目の王妃は、アン・オブ・クレーヴズ。
1539年9月24日にウィンザー城で婚姻条約が締結され、その条約に基づきアンがデュッセルドルフから出発して、大陸ヨーロッパのイングランド領だったカレーに到着した。
アンは12月11日にそこで初代サウサンプトン伯爵ウィリアム・フィッツウィリアムをはじめとする多くのイングランド貴族と会った。
風向がよくなかったためしばらく出港を見合わせたが、12月27日に出発してケントのディールに上陸した。
そこからドーバー、カンタベリー、シッティングボーンと進み、31日にロチェスターに到着した。
ヘンリー8世は「愛を育むため」と予めクロムウェルに告知した上で1540年1月1日にアンナと会った。
2人はその夜から翌日の正午すぎまで一緒に過ごした。
表面上では面会が順調に終わったが、ヘンリー8世は翌日にクロムウェルに対し婚約をなんとか解消できないかと打診しており、正当な理由が見つからなかったため結婚に踏み切ったという経緯があった。
結婚式は1月6日に挙げられた。
だが結婚後すぐにヘンリーは離婚を求めた。
「肖像画と違い過ぎるではないかっ!」
「陛下……ですが、これはイングランドの為の婚姻でございます。」
「余の婚姻である。」
「陛下……。」
アンを推薦したクロムウェルは同年4月にエセックス伯爵に叙されたが、6月にはロンドン塔に投獄された。
「クロムウェルをどうする気だ?」
「其方は誰ぞ! 幾度も余のすることを詰る。」
「バカだからだ。」
「余はイングランドの国王ぞ!」
「バカな国王だ。」
「おのれぇ―――っ!」
クロムウェルをヘンリー8世は処刑した。
アンは6月25日に離縁を告知され、最初は驚いて倒れたが、離婚に強く抵抗せず、結婚には床入りが伴わなかったことを認めた。
アンが以前に別の男性(ロレーヌ公フランソワ1世)と婚約していたことを理由にして、結婚は無効とされたが、アンは「王の妹」としての地位を得て、2軒の家と十分な年金を約束されて、ロンドン市内のベイナーズ城で余生を送った。
このほか、イングランドを出ることを禁止されたが、それも納得してヘンリー8世の元を去った。
ホルバインは後に宮廷画家の身分を剥奪されて追放処分を受ける為、アンを美化しすぎて描いたのではないかという推測もある。
『英国人名事典』の見解では、当時ヘンリー8世が神聖ローマ皇帝カール5世と対立しており、クロムウェルはヘンリー8世とアンの政略結婚でプロテスタント支援を表明し、カール5世の背後に面倒を引き起こすことを狙っていた。
しかし、ヘンリー8世がドイツのプロテスタント諸侯との同盟を解消し、カール5世と和解しようとしたため、その障害となるクロムウェルを処刑することにしたという。(Wikipediaより引用)




