忘れたいけど忘れられない、許したいけど許せない
煌びやかな夜会。広間には笑い声や杯のぶつかる音が渦のように押し寄せていた。
伯爵家の嫡男レオナルドは人々に囲まれ、いつものように柔らかな微笑を浮かべている。
その隣にいるはずの妻の私は、化粧直しの帰りにふと夜風に誘われ、バルコニーへと足を運んでいた。月光に照らされた庭園は静かで、薔薇の香りが淡く漂っていた。
その静寂を破ったのは、夫の声だった。
「酔ったのかな? 飲み過ぎたね。あそこで休もうか」
見下ろすと、彼は一人の女性をエスコートしていた。
「そんなに飲んでいませんわよ」
暗くて顔ははっきり見えないが、聞き覚えのある声だった。二人は庭園の奥のガゼボへと歩みを進めている。
介抱しているのだと思い、私は近くのメイドに水を受け取り、善意のつもりで彼らを追った。
「レオナルド、お水を――」
そう声をかけようとしたとき、耳に飛び込んできた。
「君が好きだ。付き合って欲しい」
低く甘い声。思わず立ちすくむ。
「あの彼女はどうなさったの? マーゴと付き合っていたのでしょう?」
「……彼女とは半年前に別れた。今はどうしているかも知らない」
体が硬直する。マーゴ? 別れた? 私の知らない夫の顔が次々と暴かれていく。
「まあ、あなたにそんなふうに口説かれるなんて、光栄ですわ」
女は楽しげに笑い、さらに言葉を重ねた。
「そういえば一月ほど前、カフェであなたにお会いしたとき、偶然奥様をお見かけしましたの。あのときは冷や汗をかきましたわ。ご無事で?」
「……何も気付かれていないよ。彼女は男友達と遊んでいると思っているから」
胸の奥で何かがはじけた。屈辱、怒り、嫉妬、そして説明のつかない高揚がないまぜになり、思考が止まった。
女の優越感に満ちた声が耳に残り、視線を逸らすこともできなかった。
夜会を終えた馬車の中。窓の外には街灯が流れ、車輪の音が心臓の鼓動を煽る。
「楽しかったね。……どうしたんだい? 疲れたのかな?」
レオナルドはいつも通りの微笑を見せ、外套を肩にかけてくれる。優しいはずの温もりが、ガゼボの影を呼び覚ます。
――どうして私がいるのに、他の女を口説いたのか。
――私は愛されていないの?
問いは渦巻くのに、声にならなかった。
屋敷に戻り、ついに言葉を吐き出す。
「レオナルド……どうして、あの方と?」
彼は一瞬俯き、眉を寄せ、そして苦笑めいた表情でとぼける。
「え……? 何のことだい? 君との間には何も問題はないだろう」
「誤魔化さないでください! ガゼボの近くに居ましたのよ。全部、聞いてしまいました」
短い沈黙ののち、彼は低く呟いた。
「……ごめん。酔っていて、軽率だった。君を傷つけるつもりはなかった」
だが本当のこと――マーゴや、あの女との関わりは口にしない。
ただ「酔っていた」「一度きり」と、都合よくぼかして。
私は問いを重ねる。
「どうして私がいるのに、他の女と……?」
けれど答えは返ってこない。
「許してくれ。もうしない」
そう言われれば、忘れるしかなかった。
――それから月日が経った。
私たちは隣り合い、笑い、日常を送る。
手の温もりは確かで、微笑みは変わらない。
けれど、心の奥にはガゼボの影が沈殿していた。
屈辱と哀しみ、愛情と疑念。
――好きなのに、どうして他の女を口説いたのか。
――好きだと言いながら、なぜ私以外に?
日常に埋もれ、記憶は次第に薄れていく。だが、ときおり感情はマグマのように噴き出し、彼を責めずにはいられない。
愛しているがゆえに許せない。
許せないがゆえに手を離せない。
二人は今日も笑みを交わす。
その笑みの影で、愛と痛みが淡く溶け合っていた。
腹立つ(●`з´●)




