パーフェクトブルー
フレンチレストランと聞くと、入店時のドレスコードは必須で、格式高いフルコースの料理を堪能するといったイメージが強い。
茜に教わって旭のバイト先へ足を運んだ山吹は、(本当にここか?)と目を疑った。中世ヨーロッパ風の建物で、丸く尖った青灰色の三角屋根がならぶ城のようなレストランは、優雅な王侯貴族が馬車でやってきそうな印象を受ける。シャンデリアや螺旋階段など、内装も豪華だった。
一般的なレストランではレジでの会計が基本だが、フランス式となると席を立たずに済ませる必要がある。そういったマナーに詳しくない山吹は、近くを通りかかったスタッフへ「すみません」と声をかけた。長袖のホワイトシャツを肘まで捲り、ショルダーバッグにビジネスシューズというサラリーマンが(ランチタイムとはいえ)、気楽に立ち寄る場所ではない。白いユニフォーム姿のスタッフは「いらっしゃいませ」と控えめに頭をさげ、「ご予約は、お済みでしょうか?」と訊く。山吹が首をふると、「では、あちらへどうぞ」といって、フロント嬢のいる窓口へ案内した。
「いらっしゃいませ。当店でご飲食を希望のお客さまでよろしいですか? こちらで事前予約を承っております」
金髪のフロント嬢は(ハーフか?)、愛想よく高い声で説明する。あきらかに場ちがいだと感じた山吹は、丁寧に辞退した。
(ふう、なんだか緊張したな。しかし、あの旭くんが西洋料理店でバイトとは、いろいろ心配だ。本当に、だいじょうぶなのだろうか)
豪勢な門扉を見つめて思考をめぐらせる山吹をよそに、スタッフのロッカールームで清掃係のユニフォームに着がえる旭は、音もなくはいってきた長身の男に、うしろ抱きにされた。
「紫信、てめぇ、気安くさわるな」
ボタンをかける前の胸へ指を這わせる男は、石蕗紫信といって、レストランのシェフである。厨房では主力となる料理のほか、新商品の試作も手がける人物で、クオーターらしく、目の色はインダンスレンブルー(暗めの青)をしている。端正な顔をした石蕗は、熟れたようすで旭の輪郭をなぞり、顎に添えた手をクイッと持ちあげ、たやすく気息をあわせてくる。
「ん……、ん……!」
旭のうしろにはロッカーがある。後退できない以上、相手の腕のなかにいるしかない。口づけを強行する石蕗は、旭の呼吸が乱れてくると、腰に腕をまわして体重を支えた。
「し……のぶ……」
「どうした、旭。元気がないな」
「う、うるさい。放せ」
「なぜ、俺を遠ざける」
顔をのぞきこむ石蕗は、女たらしで有名なシェフだったが、それはおもて向きの評判で、実際の性癖は同性愛者である。石蕗の紹介により、清掃スタッフ募集の面接にやってきた旭は即日採用となったが、着がえのためロッカールームで服を脱ぐたび、詰め寄られた。
「そうじゃなくて、あんたの手が早すぎるんだよ」
「男が好きなくせに、あいかわらず頑なだな」
「知ったふうに云うんじゃねぇ」
「とぼけたってダメだよ。いいかげん認めたらどうだ? いつでも極楽に連れていってやる」
石蕗に口説かれる旭は、ボタンをかける指が、ピクッと、小さく反応した。男のものでしかないぬくもりが、ほしくてたまらない。そう気づいたとき、最初に意識した相手は学校の教師だった。むろん、告白なんて浅はかな真似はしない。躰が求めるものはあきらかなのに、誰でもいいわけではなかった。
ユニフォームのボタンをかけて帽子をかぶる旭は、初めて花屋を訪ねてきた山吹の姿を思い浮かべた。二階の風呂場でシャワーを浴び、一階の店内で涼んでいたところ、「ごめんください」と、営業スマイルであらわれた。斜めわけの黒髪に留紺のジャケット、ショルダーバッグの脇に保険会社のパンフレットをさしている。見るからに面倒なセールスっぽいが、旭は、山吹の声に耳を傾けた。
容姿が完璧な石蕗より、ごく一般人にすぎないサラリーマンとして目に映る山吹の態度は低姿勢で、自信に満ちたナルシストより、ずっとマシに見えた。
「ダメだよ、旭」
「……なにが?」
「きみを見つけたのは俺だ。たっぷり時間をかけて愉しませてもらう。逃げられると思わないことだ」
「ふざけんな。おれは、あんたの玩具じゃねぇぞ」
「さて、どうかな。それに、全力で拒むと逆効果だ。俺も、本気で奪いにいく。旭を抱きつぶすくらい、なんともない」
「紫信、てめぇ!」
挑発されてカッとなる旭は、反射的に右腕を突きだしたが、あっさりかわされた。
「怒った顔も、たまらないね。ゾクゾクする」
「ひとりで勝手に興奮してろ、サディスト」
バンッと、ロッカールームのドアに八つ当たりする旭は、掃除道具がある備品室へ向かった。
「くそっ、紫信のやつ、覚えてろよ!」
石蕗は、旭の肌へ直接ふれてきたり、一方的な口づけにおよぶ。狙った獲物をじりじり追い詰めて、仕留めたあと、徹底的に飼い狎らしていく。いつのまにか、石蕗の性的嗜好の標的となっている旭だが、弱みをにぎられているため、忌避することはできなかった。
「ユウタ、あいつ怒ってるかなぁ」
日曜日の昼、駅前のフルーツパーラーで山吹とデート中だった旭は、注文した料理を食べ残し、逃げるように立ち去った。携帯電話の番号を交換しておいたので、こちらから連絡すると云いつつ、意図して、電話をかけなかった。
「ユウタ、ごめん……」
ノーマルと思われる男を好きになったのは、二度目である。教師のときのように、ただ見つめていても、進展は望めない。次こそは交際してみたいと考える旭の目の前に、営業マンの山吹があらわれた。ありふれた凡人に見えたが、旭は直感した。……こいつとなら、うまくやっていけそうじゃね? 男前でもなければ美形の部類でもない。だからこそ、話が通じるのではないかと期待した。
「おれのこと、きらいになっちまってたら、どうすっかな」
せっかくランチへ誘いだせたのに、わずか数十分ほどで中断となった経緯が悔やまれる。アルバイト先に山吹がやってきた事実を知らない旭は、深い溜め息を吐いた。
❃つづく