雨の日に
久しぶりに梅雨らしく雨がシトシトと降っている。
スコールのような激しい雨が多い近年にとっては珍しいことに思う。
そんな昔の梅雨を思い起こさせる雨が降る晩の事だった。
仕事が終わり駅から部屋に向かっていた。
時間はもうすぐ日が変わる所だったと思う。
昼間はジメジメとして不快であるが、夜になり気温が下がると過ごしやすい。
雨音が疲れた体と心に心地良いとさえも感じてしまう。
道には私以外誰も歩いていない。
私自身の足音と雨音だけが周辺に満ちている。
ふと、小学校の頃に読んだ本を思い出す。
その本によると幽霊は雨の日に体を洗うというのである。
雨が降らないと体を洗えない幽霊というものは不便なものだと思った記憶がある。
今日のような雨の降る晩は幽霊にとって絶好の入浴日和であろう。
そんなことを考えていると入浴中の幽霊に遭遇しそうな気がしてしまった。
とはいえ、雨の日の夜に幽霊に出会ったことはない。
幽霊など存在しないのだろう。
見えていないだけかもしれないが。
だが、疲れからか目の前にアパートを見上げている女性が見えるのである。
彼女は傘を差していない。
全身ずぶ濡れでただアパートの一室を見上げているのである。
見てはいけないものを見てしまった。
そして気付かれてはいけないとも思った。
彼女は私の進路上にいる。
来た道を引き返し迂回するべきだろう。
引き返そうと足を止めた瞬間、彼女の目がこちらを向いた。
とても悲しそうな目であった。
「とても良い雨ですね」
冷たい声だった。
「ええ、梅雨はこうでなくては」
つい返事をしてしまった。
「彼があの部屋にいるの。でも入れない」
「そうなのですか」
「私は悲しい」
そりゃ誰も部屋に入れたくないよな、と思った。
「私は彼を愛していたの。でも彼は」
よくある話だと思った。
「今でも私は彼を愛してるの」
律儀で哀れだ。
「あなたも私を捨てるの?」
捨てるの何も、まず拾ってないと思った。
これだから……。
私は彼女を無視して家に帰ることにした。
彼女はそれから何も言わなかった。
振り向いてはいけないと思った。
それでも振り向いてしまった。
彼女は再びアパートをただ見つめていた。
これだけ愛されている男性とはどのような人なのだろうか。
彼は幸せなのだろうか。
彼女は幽霊などではない。きっとただの悲しく哀れな女性だったに違いない。
それが私の心の平安を保つのである。
それでも雨の日になると思う。
彼女はまだアパートの前に立っているのだろうかと。
あの道を夜に通ることができなくなってしまった。特に雨の日は。
これもある種の呪いかもしれない。
どうか彼女の心が救われる日があらんことを。
(了)