4 そのために、僕は強くなる
次の瞬間。突然思考が明瞭になり、多くのことが理解できるようになった。己がどのような存在なのか。火穂がこの家を焼いたのは、どのような理屈だったのか。エイを救うためには何をすべきなのか。そして。
「火霊よ、我が声を聞け」
発した声は、以前よりも太く低くなっている。首を持ち上げれば、視界も高い。身体が大きく成長して、エイの全身をすっぽり包み込んでいる。胸の辺りには鋭い爪の生えた手があり、エイを抱き締めることができる。
「我が名は黒焔火。今しがた、大いなる火の主神、土延主日火紅炎彦大伝命より新たな力を賜り、竜神となった。我が命ずる。火霊は今すぐこの家を離れよ。全員だ!」
僕は吼えるように告げると、エイを掴んで宙に浮かび、入り口から外へと飛び出した。突然現れた黒い竜とその腕に抱かれた幼子の姿に、人間たちが騒めき困惑の声を上げる。
「え、竜? いいや、見間違いか。黒い煙が竜のように……い、いやいやいや! 本物だ!」
「竜神様の腕にいるのはエイか!? なんと、ありがたや。もしや、この地の守護神が現れたのではあるまいか?」
大袈裟なことになってしまったようだけれど、それに構っている時間はない。僕はエイをヒネの腕に抱かせると、身を翻して、未だ炎の触手が荒れ狂う家へと向かった。火の手は確実に弱まっている。先ほどの僕の一喝で、半分ほどの火霊は去ったようだ。けれどまだ、火穂に従う愚かな者どもが残っている。
僕は大きく息を吸い込んで、声を張った。
「我が命令を聞けないというのか。ならば、より強大な炎で覆い尽くし消し去ってやろう。それが嫌ならば、去れ。即刻去れ!」
僕の口から飛び出した咆哮は、雷鳴となって轟いた。恐れをなした火霊らが、蜘蛛の子を散らすように去って行く。それと同時に紅蓮の炎は勢いをひそめ、焦げ臭い煙だけを残して鎮火した。
……もう安心だ。ほう、と息を吐き、僕は振り返る。
辺りは水を打ったかのように静まり返っている。人間たちが息を呑み、状況理解に努めようとしていることが察せられた。僕は彼らの顔を見回して、後の行動を思案する。
そして、ふと気づく。視線を向けた先、群衆の中に一人だけ、顔面を蒼白にし全身を小刻みに震わせている大柄な男がいる。頭部からだらだらと汗を垂れ流し、尋常ではない様子。さらに、衣から露出した肌が薄らと赤く発光している。見間違えるはずはない。あれは神力だ。
僕は瞬時に全てを理解した。もしや、火穂にヒネの家を焼かせたのはこの男か。
僕が睨みつけたと同時に、ひっと息を詰まらせた男の、角張った顔と鷲鼻には覚えがある。何の因果だろうか。奴は、蛇の子であった頃の僕を燃やしたガキ大将だ。
「おまえ」
僕が唸ると同時に、彼は踵を返して走り出した。
「待て!」
林に分け入る男の背中を追う。人間の足の速さなど大したことはない。篠笹の繁みを割り、小石に足を取られながら山道を駆け上る人間は、神の目から見ればたいそう鈍い。僕はさして苦労もせず、爪の先で彼を捕らえた。
「おまえ、赤い竜神に祈り、あの家に火をつけたな」
「ひっ、こ、黒竜神様。どうか、お、おおおおおおお許しを!」
「許すものか」
僕は彼を引きずり里へ戻ると、燃えて半壊したヒネの家の前に、奴の大柄な身体を投げた。背中をしたたかに打ったらしく悶絶する男の前に降り立ち僕は、呆気に取られる人間たちに向けて言った。
「この者が、あの家に火を放った不届き者だ」
「ち、ちちちち違う!」
「いいや、違わない。言い逃れようとしても無駄だ。おまえの肌には、赤い神力の残滓が煌めいている。火穂という火の神の残り香だ。我は神ぞ。愚か者の所業など、全てお見通し。人間らよ、里の掟に従い、この者を裁くのだ」
僕が断言するや否や、里人たちは男を取り囲み、縄にかけてどこかへと連れて行く。
「待て。許せ、許してくれ、黒竜神様!」
僕の身体を焼いたこと、愚かな妬みからヒネの家に火を放ったこと。非道の数々を決して許しはすまい。奴にどのような裁きが下るかは人間の掟次第だけれど、僕はひとまず溜飲が下がる思いで彼らを見送った。心の中で舌を出すのも忘れない。
大男の情けない姿を見送って、僕は一つ大きな息を吐く。強張っていた身体を緩めて振り返り、皆の様子を見に行こうとした。その時だ。川の辺りから、弱々しい、けれどはっきりとした幼い泣き声が響いた。エイの声だ。
「ああ、エイ。ごめんね、熱かったね」
声をたどるとそこには、エイを抱いたヒネと近所の女性たちがいて、川原に膝を突いていた。どうやら、エイは一命を取り留めたようであり、川水で火傷を冷やしてもらっているらしい。
ああ、良かった。僕が安堵の息を吐くと、竜の呼気を浴びた裸の木々が揺れて枝を擦らせた。
気配を察したのか、ヒネがふと顔を上げて、僕の方を真っ直ぐに見上げた。
ヒネの頬に、涙が光っている。年を重ねても相変わらず美しい。
蛇神から竜神になり、以前よりも多くのことを理解した僕は、この胸に宿る強烈な感情が、愛であることに気づいた。男女の情愛というほど単純ではない、母への思慕でもなく、清いものに心惹かれる憧憬でもない。この世のどんな言葉をもってしても適切に言い表すことができない。それほどまでに、ただ愛おしい。
ずっと、彼女の側にいたい。僕は思わず腕を伸ばした。けれどその爪は、ヒネに届く寸前でぴくりと震えて止まる。
「竜神様、本当にありがとうございます」
ヒネが、膝を突いて恭しく言ったからだ。
ヒネの周りにいた女たちも同様に、僕の前に平伏する。やめてくれ、そんなたいそうな存在ではない。少し前まで、ただの幼い蛇神だったのだ。
「竜神様、私たちをお守りくださり感謝申し上げます。私や、このエイ、そして里人全員が、末代まであなた様を崇め奉ります。里を見下ろす峰の上に社を建てましょう。どうかこれからも、我々をお守りください」
竜神。そうか、僕は人間にとっては遠い存在で、高い場所から見下ろし庇護してくれる守り神なのだ。社に住めば、ヒネの側にはいられない。いいや、そもそも人と神は共に暮らすことなどできないか。
ならば、ヒネの言う通りあの山に留まり、彼女と彼女の大切な人たちに害意を持つ者らが現れないよう、目を光らせよう。
僕は伸ばしかけた手を引っ込めて、首を軽く傾け火霊に呼びかけた。その途端、周囲にぼんやりとした火の玉が浮かび、明滅し、そして消えた。
「ああ、あなたは火の神様なのですね。そして、黒い竜のお姿で……。そう、あの時の子ね」
全てを理解したようにヒネが呟きを落としたけれど、僕は答えずに地を蹴り天へと舞う。長い咆哮を上げ、里を囲む山々の中で最も高い峰に降り立った。
これから僕は、大切なものを守る神となる。ヒネが、憎悪に溺れかけた幼い蛇の子の心を救ってくれたように、今度は僕が君を守るのだ。
そうしてヒネの子孫を、この地に再び生まれ変わる彼女自身を、ずっとずっと、見守り続けるのだ。どんな鬼神がやってきても、必ずや打ち倒してみせよう。
そのために、僕は強くなる。今はまだ、生まれたての火の神だけれど、さらに強大な力を手に入れる。そして輪廻が巡ればどこまでも君を探しに行く。地の底、天の果て、海の中までも。
だから、待っていて。