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第一話

 レアネットがいまや国じゅうでいちばんの有名人となった騎士エリアン卿に出逢ったのは、かれがあの恐ろしい邪竜(ドラゴン)を退治し帰還してから七日後のことだった。


 むろん、ことがそこへ至るまでには少々の事情がある。


 レアネットはただのありふれた若い娘だ。傾国の美女でもなければ、大貴族の姫君でもない。


 父は一応は子爵の地位に就いているが、薔薇王朝においてそれはべつだん高い地位とは云えず、彼女も自分をあたりまえの庶民だと捉えている。


 だから、本来であれば、エリアンのような英雄と関わりを持つことなどありえなかっただろう。


 それにもかかわらず、その彼女とエリアンの人生と交錯したのは、たまさか現在の騎士団長が伯父だったからである。


 一国の騎士団長という高い地位に就いているにもかかわらず、妙に思いつきで行動するところがあるその伯父は、ドラゴンとの戦いなどで疲弊したエリアンの世話を、いつも暇にしている姪っ子に任せようと思い立ったのだった。


 レアネットにしてみれば、迷惑な話である。暇にしているとは云っても、退屈しているわけではない。むしろ人生の楽しみを十分に謳歌している。だから、わざわざ仕事を与えてもらう必要などないのだ。


 人はそういう生き方を怠惰だと謗るかもしれないが、一向にかまわない。彼女は人の噂などまったく気にならない性格だった。


 だから、初めはその話も断わってしまうつもりだったのだが、彼女のその風のように気楽な生き方を問題視した母が口を挟んできた。


「そうやってだらだらするのもいいかげんにしなさい。少しはまじめに働いたらどうなの」


「だって、みんながまじめに働いたりしたら、何かの事情で働けない人たちが辛くなるでしょう。わたしみたいな怠け者も意外に社会には必要なのよ」


 レアネットは反論したが、母を納得させることはできず、むしろ怒らせすらした。彼女は常日頃から娘のそのゆっくりした生き方(スローライフ)に疑問を抱いていて、ことあるごとに説教していたのである。


 そのため、レアネットは不承不承、エリアンの世話をすることになったのだった。自分にそのようなことができるものかどうか、我がことながらかぎりなく怪しく思われたが。


 それで、彼女はエリアンが暮らしている邸宅へ向かった。


 いつも冷たく物憂げな表情を浮かべた秀麗な容姿のエリアンは、〈憂愁の騎士〉と呼ばれ、もともと女性たちの人気が高かったが、邪竜討伐により国民的な英雄となったいま、もはや人気というより崇拝の対象にまでなっている。


 だから、かれは無用な騒動を避けるため、騎士団宿舎を出て自宅で暮らしているのだ。エリアンは男爵家の令息であり、立派な屋敷を所有しているのであった。


 馬車でその館のまえまで乗りつけ、無造作に扉の(ベル)を鳴らす。


 彼女は、べつだん、美貌の騎士には興味がなかった。ただ、さすがに、その生活の世話をするとなると、騎士団の仲間とともにドラゴンと戦い、ついにとどめを刺したという勇者とは、どのような人物なのだろうかと気になる。


 その普段の表情にふさわしく気むずかしい人物だろうか。それとも、典型的な規律正しい軍人なのか。できれば、自分のことは自分でやってくれると助かるのだけれど――。


 しばらくしてその向こうから足早なあしおとが聴こえてきて、それから大きなきしみの音を立てて扉はひらいた。


 そこから、ひとりの、青褪めた顔色の人物が姿をあらわした。肩幅はひろく、大きく筋肉が盛り上がったたくましいからだつきであるにもかかわらず、どこか病弱な詩人を思わせるような繊細な容貌。

 噂に聞くエリアン本人であることがひと目でわかった。


「きみは――?」


 かれは不健康に青白い顔をしかめた。あるいは、自分の信奉者(ファン)の女があいての迷惑も考えず押しかけて来た、と思ったのかもしれぬ。


「メイユ子爵家の娘でレアネットと申します。叔父にあなたさまの身の回りのお世話をするよう云いつかって来ました。なかへ入れていただけますか、エリアンさま?」


「ああ、団長の姪か」


 エリアンは小さくため息を吐きだした。いかにも憂鬱でたまらない云わんばかりの態度である。


「どうぞ、なかへ」


「失礼します」


 屋敷のなかは、いくらか雑然と散らかっていた。足の踏み場もないというほどではないが、いくつかの本来、棚に収められているべきであるのだろう品が、床に散乱している。


 また、高価なものなのだろう絨毯のうえには薄く埃が溜まっていた。しばらく掃除していないことがわかる。


 エリアンはレアネットを応接間であるらしいやはり散らかった一室に通すと、何やらまわりを見回しはじめた。


「そうだ、紅茶でもどうかな。ええと、茶葉はどこだろう――」


「良いですから、少しそこに座って休んでいてください!」


 レアネットは思わず叫んでしまった。エリアンのたくましいはずの身体が、たったそれだけのことで揺れる。かれはその場で姿勢を崩し、彼女に胸のあたりを支えられた。またも青い顔をしかめる。


「ああ、ごめん。その、少しだけ疲れていて」


「見ればわかります。少しどころではないことが」


 レアネットの目に映るエリアンは、ほとんど病人だった。


 たしかに美々しくととのった顔立ちではあるし、さすがドラゴンを斃したほどの騎士だけはあってその体躯は頑健そうに見えるのだが、何しろ、全身に力がない。


 一歩歩くのにもふらふらと揺れるありさまで、その蒼白の顔色もあって、まったく健康とは思えないのだ。


「ひょっとして、寝ていないんじゃないですか? いますぐベッドに横になってください。お茶なんて淹れる必要ありませんから」


「しかし、きみは客人だし」


「客じゃありません。わたしはあなたの世話係です。良いから、さあ、寝て。ほら、早く」


 エリアンは躊躇するようだったが、レアネットはむりやりかれを急き立てて、隣室のベッドへ行かせた。かれはそのうえに座ったが、横になろうとはしなかった。


「すまないが、いまから友人が遊びに来る予定なんだ。寝ているわけにはいかない」


「だめです。いまのあなたはご友人と遊べる体調ではありません。ほんとうのお友達ならあなたのことを思って今日は余裕がないのだと納得してくれるでしょう」


「しかし――」


「いいから、とにかく寝てください! あなたは疲れ切っているんです。自覚しなさい!」


「――はい」


 エリアンは悄然とうなずいた。ゆるゆると床に入り、両目を閉じる。国家を救った英雄というより、風邪をひいたのに遊んでいて母親に怒られた子供のようである。


「わたしが、そのお友達には事情を説明しておきますから、心配しないで」


 レアネットが幾度かふとんをぽんぽんと叩くと、よほど長いあいだ寝ていなかったのだろう、かれはもう眠りの園へ旅立っていた。


 彼女はその顔を見下ろして、ちょっと首をかしげた。いったい、どうしてこの人はここまで追い詰められたのだろう?


「さて、と」


 まずは掃除からだ。彼女は腕まくりをし、ほうきをさがしはじめた。

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