碧海に溺れる
心地よい海潮音に耳を傾けながら、ざくりざくりと波打ち際へと近づいていく。太陽の端が海に溶けかけた頃、その子は現れる。
「こんにちは」
「きゅう」
海から顔を出した少女はイルカのような声を上げながら、嬉しそうにこちらへと近づいてきた。彼女の何も纏っていない上半身が冷たい海風に晒される。太陽に照らされて光るその真っ白な肌は、少しぬめり気を帯びていた。これ以上こちらへ来られずに、再び「きゅ」と寂しそうに喉を鳴らした少女に応えるため、ゆっくりと靴を脱ぎ、風に膨らむセーラー服のスカートの裾をしっかりと結んでから、恐る恐る波の中へと入っていく。
膝と太ももを交互に撫でる小波が一気に自分の体温を奪っていくのが分かった。少女が足元に擦り寄ってくる。差し出された右手を握ると、氷のように冷たく、やはりぬめっていた。
少女の尾びれが私の足をくすぐる。水の中でゆらゆら揺れる尾びれは時折夕日に照らされてエメラルドのように輝いている。
少女と出会ったのは大体一ヶ月前。放課後、誰もいないこの海岸を散歩するのが日課だった私が、いつものように歩いていると、悲鳴のような甲高い声が聞こえ、声のするところへ駆け寄ると、漁網に引っかかった少女が浜辺に打ち上げられていたのだった。その姿は今まで見た朝露に濡れた花々よりも儚く、ガラス細工よりも繊細で美しく、雪のように白い肌が網に擦れ紅く腫れている姿すら凄艶な雰囲気を纏っていた。駆け寄る足を止め、思わず生唾を飲み込むが、少女の悲痛の叫びにハッと我に返る。急いで丁寧に網を外してやると、少女は長く美しい尾びれをバタつかせ、逃げるように海に帰っていった。これが彼女との最初で最後の遭逢だと思っていたが、それ以降、少女は自分が海辺に来るのを待っているようになった。
初めは海の中からこちらの様子を伺っているだけだったが、回数を重ねるうちに近寄ってきて、今では足元に擦り寄ってくるほどになった。
「きゅっ」
少女が差し出してきた左の手のひらには水色に透き通ったビー玉ほどの大きさの球体が握られている。初めて見る物体に首を傾げながら受け取り、親指と人差し指で挟んでみるとプニプニと弾力がある。何に使うものか分からず、少女へ目を向けると、少女は可愛らしい小さな口を開け、咀嚼する素振りを見せた。
「え、た、食べるの?」
得体の知れない物体を夕日に透かしてみる。外側の分厚い水色の膜に守られるように、内側で藍色の液体が波打っている。躊躇っていると、少女が急かすように私の太ももへと抱きついてくる。豊満な乳房が押し当てられ、思わず息を呑んだ。ドクドクと心臓が脈打つ。同性の身体に少なからず興奮している自分に焦り、誤魔化すように手のひらの球体を勢いよく口に放り込む。奥歯で噛み潰すと、ぷしゃりと弾けた。信じられないほどのしょっぱさを感じた液体は喉を通る頃には優しい甘さへと変化した。口の中には柔らかな甘味が残っているが、お世辞にも美味しいとは言えなかった。少女の期待するような眼差しを裏切れず、にっこりと笑うと少女も満足そうに笑った。
それからというもの、少女は毎日謎の球体を手渡してくるようになった。初めは不味かったそれは徐々に舌が慣れてきたのか、美味しいと感じるようになっていた。変化はそれだけではない。
「おいひい?」
「うん、美味しいよ。ありがとう、セクティオ」
少女が話せるようになったのだ。初めはイルカのような声に混じって言葉が聞こえるくらいだったが、今では普通に会話ができるようになっていた。そして、少女の名前がセクティオだということも知った。
「これ、これきいて」
セクティオが手渡してきたのは大きな巻貝だった。耳に当ててみると、波の音がする。
「海の音がするよ」
「そっあ」
何故かむくれたセクティオは、私の手から巻貝を取り上げる。
「ごめん、足が痛いからそろそろ」
季節は晩秋から冬へと変化し、五分浸かっているだけで足がジンジンと痛むようになっていた。それに、最近、なぜだか調子も良くない。じわじわと痛む頭を押さえながら砂浜へと上がる。靴下を履くために腰を下ろした私を、セクティオは寂しそうに見つめる。
「最近、調子良くないんだよね。学校でもなんだかぼうっとしちゃって。友達の話とか聞いているつもりでも全然頭に入ってこないんだ」
首を傾げるセクティオに「そんなこと言っても分からないよね」と苦笑する。
それからも体調は緩やかに悪くなっていった。先生の話も、友だちの話も、異国の言語のように聞こえて、いまいち頭に入ってこない。それに比例するように、寒気もひどくなっていた。どれだけ着込んでも寒くて仕方がない。
それでも海に行くのはやめなかった。セクティオだけが私の話をきちんと聞いてくれたし、不思議とセクティオの話はすっと頭に入ってきたから。
「セクティオ、聞いてよ」
靴下を脱ぎ、スカートを結びながら海へと入っていく。凍てつく風と違い、穏やかな海はほんのり温かさを帯びて私を歓迎してくれる。
「どうしたの、麻衣」
「今日も先生に怒られたの。話聞いてないわけじゃないんだけどなあ。友達にも呆れられて、最近クラスでも一人なの」
「それは悲しいね。はい、どうぞ」
「ありがとう。初めて食べた時はまずいと思ってたけど、これすごく美味しいよね」
「それならよかった」
口の中で弾けるそれは、どんな砂糖菓子よりも甘く、どんなチョコレートよりも滑らかだった。
「もう、何もかも嫌になっちゃったな」
ポロリ。口の中で蕩けた甘さが、我慢していた心まで溶かしていく。
「私をちゃんと理解してくれるの、セクティオだけだよ」
こぼれ落ちた涙が藍色の海に溶けていく。とっくに夕日は沈んで、孤月が少しずつ空へと上っていた。
「ねえ、これ、聞いてみて」
セクティオが手渡してきたのは、いつかの巻貝だった。そっと耳に当てると、軽快な民族音楽のような音色が聞こえてくる。
「海の音じゃない」
はっきり聞こえるわけではない。でも、それは確かに、一定のリズムの海の音などではなく、独自のリズムを刻んでいた。
「出会った頃から、全部、何も変わってないよ」
「え?」
「変わったのは、麻衣のほう」
意味深に笑うセクティオにぞわりと背筋が冷えていくのがわかった。
「海の中は、温かくて、綺麗で、優しいところだよ」
腰に抱きついてきたセクティオに応えるように、セーラー服が濡れるのも気にせずに海の中へしゃがみ込む。ゆっくりと私の頬を包んだセクティオの手は温かい。
「ずっと、一緒にいよう」
ゆっくりと近づく薄い唇に、私は目を閉じた。唇がそっと重なったと思った刹那、熱い舌と生温く甘い唾液が私の口に押し込まれた。驚いて唇を離すと、私の口の端についた唾液を舐めとってからセクティオが離れていく。その所作の妖艶さに目が離せないでいると、それに気づいたセクティオはふっと笑った。徐々に浅くなっていく呼吸に首を傾げると、セクティオの腕が首へとまわる。
「愛してる」
再び重ねられた唇は、優しく啄むようなものだった。うっとりと目を閉じると、じわりじわりと首にまわされた腕に力が入っていく。どんどんと傾いていく自分の体に不思議と焦りは感じなかった。もっと触れていたい、もっと重なっていたい、もっと一緒にいたい———。
ちゃぽん。全身が温かい海に包まれる。藍色だったはずの海は、目を開けると透き通った碧色で、月の光が風に膨らむカーテンのようにゆらゆらと揺れていた。
「私も——」
ゆっくりと沈んでいく私たちは、互いの気持ちを確かめ合うように、もう一度唇を重ねた。