アドルフの愛、あるいはクラウディアの夢
これほど笑ったのは、一体いつ以来なのだろう。
大事な話があるからと、ディーデリヒに呼び出されて来てみたらこれだ。ディーデリヒがついに、ラーディとの結婚を望むとは。
昔から、兄妹の距離感の危うさには気づいていた。従兄妹と思い込んでいるからこその親しさかもしれないが、アドルフはそんな二人をなんとしてでも引き離しておくべきだったのだ。
だが、どうしてもそれはできなかった。子供達を束縛することはしたくなかった。なによりも、自分とよく似たディーデリヒと、ディアの面影を強く残したラーディが一緒に笑っている姿は、在りし日の自分達を想起させたのだ。
自分達は結ばれることがなかった。あの二人も、結ばれるのは難しいだろう。けれど自分が沈黙を保っていれば、あるいは。だからといって、エーデルロートの因習に子供達を巻き込んでもいいのだろうか。
その答えは一向に出なかった。幻影の中で幸せを追うことで、アドルフは答えを出すことから逃げた。結果がこれだ。
叶えられなかった夢を押しつけたわけではない。ディーデリヒとラーディは、自分の意志で破滅を選んだ。けれど、引き止めることを怠ったのはアドルフの罪だ。
「父上。僕達は、自分の血筋を理解しています。ラーディの両親についても、ラーディに教えてもらいました。……異父兄妹である僕達の結婚は、決して祝福されないでしょう」
「お前の本当の母親については、分家の人間達にも隠してあるんだ。あの子の本当の父親のことも、連中は公にはしないだろう。だからお前達が望むのなら、従兄妹として結婚できる。……エーデルロートの一員に、身を堕とす覚悟はあるのか?」
尋ねると、ディーデリヒは無言で首を横に振った。
怪訝な顔をするアドルフに、ディーデリヒは告げる。「彼女から説明したほうが早いでしょう。そろそろ来るはずです」その言葉通り、ほどなくしてノックの音が響いた。
「失礼します、お父様、お兄様」
ラーディは、覚悟を秘めた眼差しでアドルフを見た。
その意志の強さは、夢中をさまようディアには見られなかったものだ。けれど口元に浮かんだわずかな笑みには、確かにディアのそれに通じる柔さがあった。
「お父様は、お兄様からすでにお聞きになられたかしら」
「ああ。だが、お前の口からも意思を聞いておきたい」
ギュンターの娘でもあるラーディは、本来であればその遺言により家督相続に強い影響力を持っている。
女性の継承は認められていないため立場としては当主夫人にしかなりえないが、実質的な権限は彼女のものだ。血筋から言っても、婿養子と庶子の間に産まれたディーデリヒよりラーディのほうが本家の人間としてふさわしいだろう。
かつてアドルフは、ディーデリヒが幸福を掴む助けになればとエーデルロート家の家督を彼に継がせようとした。だが、ラーディもディアの子である以上、彼女の幸福のためにも尽くしたい。
「これが、エーデルロート家の当主の証だ。ラーディ、お前が望むのならこれを譲ろう。お前にはその資格がある」
「お父様……」
「だが、お前も知っての通り、私の次にこの指輪を嵌める資格がある者はもう一人いる」
「存じております。お兄様でしょう?」
ディーデリヒは、ラーディへの愛を取った。エーデルロートの人間でいることを拒んだのは、そういうことなのだろう。エーデルロートと縁を切り、誰も知らない新天地でやり直すのだ。それならラーディは、何を選ぶのだろう。
「お前はどうしたい? 兄を蹴落として当主の座を望むのか、あるいはエーデルロート家の女として誰かのもとに嫁ぐのか」
無意味な問いだ。我ながら意地が悪い。ラーディが何を選ぶかなんて、わかりきっているようなものなのに。
「では、ディー兄様と結婚し、エーデルロート家を継ごうと思います。……構いませんわよね、アディ義兄様?」
「……わかった。それなら好きにしろ。ラーディ、この指輪はお前のものだ」
ディーデリヒに視線を移す。ディーデリヒは絶望も、失望も浮かべていなかった。ただ愛しげにラーディを見ている。
それを疑問に思えたのは一瞬だった。力強い宣言をしたばかりのラーディが、嗤ったからだ。
「新たな当主として、わたくしはエーデルロート家のすべてを支配しようと思います。ですからその生き死にすらも、わたくしの掌の上ですの」
「何を……」
「わたくし、考えましたのよ。わたくしとディーは、結ばれてはいけません。それではエーデルロートのけだもの達と同列になってしまいますもの。けれど、この想いはもう止めることはできなくってよ」
――ですから、魂だけでも結ばれたいの。
頬を染めたラーディは、うっとりとディーデリヒの手を取る。恋する乙女の声音には、青年への無垢な愛の他に甘やかな狂気が混じっていた。
「罪を重ねたエーデルロートの血統も、浄化してさしあげましょう。肉体を失って魂だけになれば、その身に流れる血の濃さなど問題にもなりませんわ」
ディーデリヒもまた、指をしっかりとラーディの指に絡めている。昏い熱を帯びた眼差しは、ラーディしか見えていないようでもあった。
「ねえ、お父様。わたくし、貴方を恨んでいますのよ? だってお父様がおじいさまのような下衆であれば、わたくしは貴方のことも、ディーのことだって嫌いになっていたでしょう。……けれど貴方は、いつだってわたくしのお父様でいてくださいました」
ラーディはラーディだ。ことあるごとに彼女の中にディアの影を見つけてしまってはいたが、それでもアドルフの最愛はただ一人だけだった。
呪いのように同じ名を与えられたラーディを、彼女の父のように慰み物にするなど考えたこともなかった。喪った唯一の代わりなど、決して存在しないのだから。
「あるいは、恋人を奪った男の子供であるわたくしを、いじめ抜けばよかったのです。貴方の品性が下劣であればあるほど、貴方の息子であるディーを愛することもありませんでした。わたくし達の仲を引き裂く非道を演じてくださってもよかったわ。わたくしがディーを愛してしまったのは、貴方のせいでもあるのではなくって?」
涙が静かにラーディの頬を伝う。悲痛な彼女の声に、アドルフは深く頭を下げた。
「勝手な言い草であるとはわかっている。それでも私は……お前達の、父親でありたかったんだ。お前達には、ディアのぶんまで幸せになってほしかった」
「では! その責任を取ってくださいませ、お父様! 貴方が中途半端にわたくし達をいつくしんだせいで、このようなことになったのです!」
さめざめと泣くラーディの肩をディーデリヒが抱き寄せる。ディーデリヒも、ラーディの主張に異論はないようだった。
「僕とラーディの幸福は、もはや現世にはありません。二度と僕達のような恋人が生まれないよう、忌々しい呪いをもたらしたエーデルロートを破滅させること。そして、二人で魂の楽園へ旅立つこと。それだけが、僕達が求められる最期の幸せなんです」
愛した人の忘れ形見が、それを願うというのなら。
叶えてあげるのが、アドルフが示せる最期の愛だ。
*
本家の養女の誕生日を祝うため、エーデルロートの一族、その全員が本家の屋敷へと集まっていた。
これほど一度に招かれるのは、異例のことと言っていい。しかも招待者は、分家筋と折り合いの悪い本家の現当主だ。親族達はいぶかしんだが、次期当主である本家の嫡男の婚約発表も兼ねていると聞けば行かないわけにはいかなかった。
ディーデリヒとクラウディアが婚約するのだろう。親族達は皆そう思っていたし、今日の主役が花嫁衣装にも似た純白のドレスを纏っていたことでその憶測は確信に至った。正装に身を包んだディーデリヒと並ぶと、まるで華燭の典のようだ。
「我が娘クラウディアの誕生日を祝うため、お集まりいただいて光栄だ。この佳き日に、エーデルロート家の皆さんとお会いできたのは嬉しく思う」
アドルフは笑みを貼りつけ、ワイングラスを片手に思ってもいないことをぺらぺらと述べる。
エーデルロートの一族はみな、晩餐の並べられたテーブルについている。親族が一堂に会すると、その異様さがはっきりとわかった。輪郭やら目元やら、誰も彼もがあまりにも似通いすぎているのだ。直系の親兄弟だけならまだしも、いくら親族とはいえ異常なほどだった。
「すでに気づいている方もいると思うが、クラウディアとディーデリヒは婚約することになった。婚礼は今日、すぐにでも執り行われるだろう」
笑いが起きる。恋人達は照れたように礼をした。
「エーデルロートの次代を担う恋人達と、栄光あるエーデルロートに、乾杯!」
晩餐は、なごやかに始まった。
*
「ディア、君にもあの二人の婚礼衣装を見せたかったよ」
アドルフは食堂を去り、書斎に戻っていた。語りかける相手は肖像画のディアだ。かつての本家の人間の遺品はほとんど捨てたが、ギュンターが描かせていたこの肖像画だけはどうしても手放すことができなかった。
晩餐に混ぜた遅効性の猛毒は、すでに効果を発揮している。
高貴な血統を自称する穢れた血族は絶えたのだ。残っているのはディーデリヒとラーディだけだろう。
「ディーもラーディも、とても幸せそうだった。……私達にも、あんな可能性があったと思うかい?」
答えは返ってこなかった。アドルフは諦観のにじむ笑みを浮かべ、書斎机の引き出しを開ける。拳銃の重さはいやに手に馴染んだ。
日頃から部下達には政務のすべてを叩き込んでいる。付き合いのある他国の外交官達にも、後任との顔合わせはすでに済ませた。引き継ぎは順調だ。
アドルフが唐突に辞職したことを知っているのは、ごく一部の重鎮だけだ。引き止められたが、別にアドルフがいなければ回らないほどやわな組織でもない。元々効率のために人材育成には重きを置いていたし、むしろ部下達のほうが混乱も少なかった。
今日の晩餐会を最後に、使用人には暇を出している。
通常より色をつけた退職金を渡したし、希望者には信頼できる知り合いの貴族に紹介状を頼んだ。アドルフからの紹介状は、すぐに役に立たなくなるかもしれないからだ。使用人によっては、そのまま雇用してもらえたらしい。
犯行を自供する遺書はとうにしたためた。政争に敗れて没落した、シェーンブラウ家の生き残り。動機としては十分だろう。
虜囚の日々も、恨み言たっぷりに綴ってある。これで人々の目は、アドルフにしか向かない。ディーデリヒとラーディの秘密は守られる。
「……さようなら、ディア。地獄に堕ちても、君のことを愛してる。君の待つ天の楽園には、ディーとラーディがすぐ行くだろう」
銃口を咥える。撃鉄を起こし、引き金を引いた。
――アディがいるなら、ディアはどこにでも行くわ。
それは、死の間際のまぼろしだったのだろうか。
肖像画の中にいる柔く甘やかな無垢が、アドルフに向けて手を伸ばす。聖女のような笑みに抱かれて、アドルフはその場に崩れ落ちた。