アドルフの嘘
それからしばらくして、ギュンターが隠居の準備を始めた。義兄に当主の座を譲り、領地の片隅に別邸を建てて余生を過ごすという。
クラウディアに世話をしてほしいと誘いが来たようだが、体調不良を理由にしてモニカが断らせていた。実際、クラウディアはひどく体調を崩していたので、ギュンターはおとなしく引き下がった。
その原因がつわりだとわかっていたのは、アドルフとモニカだけだった。
モニカは妊婦のふりを始めた。アドルフとの愛が奇跡をもたらしたと吹聴し、そのたびにアドルフを縛る視えない鎖はより強く巻きついた。
身重の女主人の暇つぶしをさせるためにと、本邸で暮らしていたクラウディアはアドルフ達の屋敷に転居することになった。
やがてクラウディアは一人の男児を生んだ。ディーデリヒと名づけられた彼は、その場でモニカに奪われた。借り腹としての役目を果たしたクラウディアは、自分が生んだ命の重さすらも理解させてもらえなかった。用は済んだとばかりに、彼女は本邸に連れ戻された。
限界だった。自分もクラウディアも、どこまでも人として扱われないままエーデルロート家に囚われることが。理解できない愛の形を振りかざしたモニカに束縛されることも。あんなひどいことをしたのに、まだ自分を愛してくれるクラウディアの眼差しに晒され続けることも。
やり直したかった。エーデルロート家とは無縁の場所で。暖かく穏やかな人生を歩むふつうの人間として。もしも許されるのなら、クラウディアとディーデリヒともに。
「ディア、私と一緒に逃げてくれないか」
アドルフはもう、これまでの無力な子供ではなかった。鎖に繋がれたまま諦観と絶望だけを抱え、エーデルロート家にひれ伏す日々は終わりにしよう。
これまで外交官として勤めていたおかげで、隣国に伝手があった。それを頼って隣国に逃げ、これまでの知識や経験をもとに生活していくのだ。
駆け落ちしたアドルフ達を受け入れる話はついていた。売国奴としてそしられることがあっても構わない。亡命先で、もう一度人間として生きられるのであれば、どんな罪も背負う覚悟だった。
「アディがいるなら、ディアはどこにでも行くわ」
それがクラウディアの答えだった。クラウディアは無邪気に笑い、アドルフにキスをした。
けれど、約束の場所にクラウディアは現れなかった。
ひっそりと用意した馬車の傍で、アドルフはディーデリヒとともにずっと彼女を待っていた。モニカが家を空けていて、他の家人もアドルフ達に注意を払っていないのはその日しかなかった。それなのに。
まさか彼女の身に何かあったのだろうか。はやる心を抑え、エーデルロート家の本邸に急いだ。
使用人達は、娘婿が孫を連れて遊びに来たのだと思ったらしい。疑われることなく屋敷に入れてもらえた。前触れなくギュンターが訪問していたらしく、家人はその対応に追われていた。下に見られているアドルフは自由に動くことができたのだ。
「ディアは、アドルフにつきまとわれているだけよ。アドルフが言えと言うから、お話することはあるけれど。ディアはアドルフのこと、好きではないわ。それにアドルフは、モニカねえさまのだんなさまなのよ。どうしてディアがアドルフを好きになるの? おとうさまったら、おかしいわ」
その声が聞こえたのは、庭園からだった。ギュンターとクラウディアが楽しげにお茶会をしている。二人とも、アドルフには気づいていないようだった。
どうやって帰ったかは覚えていない。その日以来、クラウディアはアドルフの前から姿を消した。
不覚に陥っていたとはいえ、夢中をさまようクラウディアに無体を働いたのは大きな罪だ。そんな自分に、クラウディアを愛する資格などなかった。わかりきっていたことだったのに、何を勘違いしていたのだろうか。
償えることがあるとすれば、去ったクラウディアの影を追わないことだけだ。会えばきっと、クラウディアを苦しめてしまうのだから。
けれど、ただ一つ。なすべきことがあった。ディーデリヒのため、エーデルロート家を手中に収めることだ。
クラウディアに償えないなら、その子供の幸福のために尽くすしかなかった。怨敵の家ではあるが、その金と地位は利用できる。それらをディーデリヒに捧げれば、きっと彼の未来の一助になるだろう。
アドルフは隣国との繋がりを深め、いっそう職務に励んだ。
ずっとエーデルロート家に尊厳を踏みにじられてきたのだ。誰かに跪いてその靴を舐めることなど、アドルフにとってはもはや苦痛でもなんでもなかった。自尊心がゼロまで擦り切れたアドルフは効率と計算だけを信奉し、それを研ぎ澄ませることで様々な成果を生み出していった。
数年ほど経って、他国が戦争を仕掛けてきた。多くの民が犠牲になり、モニカの兄姉も死んだ。混乱に乗じれば暗殺はたやすかった。少年時代ならいざ知らず、今のアドルフには疑われないだけの下地があった。
宮廷の重鎮が何人も消え、アドルフのように生き残った者達の地位が繰り上がった。他の誰かもアドルフと同じように、目障りな重鎮を暗殺していたのかもしれない。
戦争はすぐに終結した。アドルフが隣国を同盟軍として戦線に引き込み、祖国に有利な条件での和平を取り付けたからだ。隣国に顔の利くアドルフの外交手腕は認められ、その地位を盤石なものにした。
そして講和条約が結ばれ、アドルフは外相に選ばれた。エーデルロート本家で唯一残った直系の子はモニカしか残っていなかった。当主の座もアドルフのものになった。
これでこの家の次期当主はディーデリヒだ。あとは機を見計らい、モニカを亡き者にすればいい。
すぐにモニカを殺せば婿養子のアドルフはたやすく追い出されて、ディーデリヒは分家の人間に奪われるだろう。そんなことがあってはならない。まずは自分の立場を盤石にしなければ。
ある日のことだった。田舎で暮らすギュンターに突然呼び出され、アドルフはモニカとともに別荘へ向かった。そこには赤子が一人いた。
ギュンターはアドルフ達に赤子の養育を命じた。女児であるため次期当主にすることはできないが、この子が取る婿には家督相続の権利を与えるのでそのつもりで育てるように、と。
何を言われたのかわからなかった。この老爺は、またどこからか愛人を見つけてきたのだろうか。
だが、この子がいればディーデリヒの立場がない。困惑するアドルフの横で、モニカは呆れたようにため息をついた。
「お父様、クラウディアはどうなさったの?」
クラウディア。何故、その名をここで聞くのだろうか。
一瞬、ほんの一瞬、嫌な想像が頭をよぎった。まさかそんなわけがないと、慌ててそれをかき消す。
「ディアはもともと強い子ではなかったからな。この子を遺して儚くなってしまったのだ。だが、この子はきっとディアの生まれ変わりである。ゆえにクラウディアと名を与えたぞ」
今日は泊っていけと言い、ギュンターは部屋に下がった。渡された赤子を、モニカは汚らわしいものを見るような目で抱いている。すべての理解を拒むアドルフだけが、世界に取り残されていた。
「わたくしがあの子に教えてあげたのよ、もしもお父様に貴方との仲を疑われたらこう言いなさいって」
呆けたアドルフが珍しいのだろう、晩餐の後のモニカは酔いも手伝い饒舌だった。
そのモニカの口から告げられた言葉は、あの日聞いてしまったクラウディアの本音とまったく同じものだった。
「お父様はクラウディアを溺愛しているから、クラウディアに恋人がいるなんて知ったらきっと相手を殺しかねないわ。そうおどしたら、あの子、足りない頭で必死になって覚えようとしたのよ? ちゃんと言えたのかしらね」
どうしてあの日、簡単に引き下がってしまったのだろう。
これ以上クラウディアの負担になりたくないと言い訳して逃げなければ、未来は違っていたかもしれないのに。
「結局お父様はクラウディアをここに監禁してしまったから、処女でないこともすぐにわかってしまったでしょうけど。貴方が今も生きていることだし、あの子はどうにか秘密を守り通せたんでしょうね。そういえば、本邸の使用人や出入りの業者が何人か行方不明になったらしいけど……貴方の身代わりになってくれたのかしら」
モニカは笑う。何が楽しいのか、アドルフにはさっぱりわからなかった。
借り腹の役目を果たしたクラウディアがどうなろうと、モニカにはどうでもよかったのだろう。ディーデリヒすらクラウディアの息子で、アドルフ達への嫌がらせのためにもうけた子だ。老い先短い父親から異母妹を託されたって、誰かの権利をおびやかされる心配はない。
それに、アドルフがクラウディアへの恋を封じたことで、モニカはクラウディアを嫌う理由を一つ失っていた。互いの本心を知らない夫婦は、永遠に交わることはない。
「ここの使用人が教えてくれたのだけれど、あの子の最期の言葉、聞きたい? “アディがいつか助けにきてくれるから、ディアは平気なの”ですって! あははははっ! おかしいったらないわね! 自分がとっくに忘れられているなんて、馬鹿なあの子は考えもしていないのよ!」
――――ああ、エーデルロート家はどこまでも、アドルフの理解の埒外にある。
赤子の泣き声は、別荘が燃え落ちる音にも負けずに響いた。
駆けつけた人々は、わずかに生き残った使用人と軽い火傷を負ったアドルフ、そして彼の腕にいる傷一つない赤子をすぐに保護した。
焼け跡からは、エーデルロート家の先々代当主とその実娘の亡骸が見つかった。
その赤子は、と問われたアドルフは、淡々と答えた。「駆け落ちに失敗した義妹が遺した、父親のわからない子です。義妹が二度と馬鹿なことをしないよう、義父は彼女を目の届くところに置いていたんです。まさかこんなことになるなんて」と。
そしてアドルフは、永遠の恋人クラウディアの忘れ形見であるクラウディア・フォン・エーデルロートを己の養女として育てることになった。
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