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アドルフの罪

* * * * *


 ――――エーデルロート家は、謀略と愛憎を礎とする家だ。


 多くの政敵を葬ることで受け継がれてきた血は淀んだ赤色をしている。己の身にその血が一滴たりとも混じっていないことは、アドルフにとっては数少ない幸運だった。


 アドルフは十二歳の時に、人質としてエーデルロート家にやってきた。

 実家であるシェーンブラウ家がエーデルロート家との政争に敗れて没落したからだ。どうやら、歴代のエーデルロート家の嫁や婿養子には何人か、アドルフと境遇を同じくする者がいるらしかった。


 覚えのない罪で一族が死罪に処されていく中、子供達は罰を免れた。本家の嫡男のアドルフがエーデルロート家に隷属を誓うことで、生きることを許されたのだ。


 エーデルロート家の当主ギュンターは、アドルフにとっては家族を奪った怨敵だ。

 しかしまだ幼いアドルフの庇護・・をエーデルロート家が約束したことで、彼に遺された遺産や権利はすべてエーデルロート家のものになってしまった。アドルフがいることによってシェーンブラウ家は取り潰しこそ免れたが、もはや何も残っていない名ばかりの家だ。

 そしてアドルフはギュンターの次女だった同い年のモニカと婚約させられ、一生エーデルロート家に服従することを定められた。


 曲がりなりにもエーデルロート本家の人間の婚約者ということで、学だけは身につけさせられた。もともとシェーンブラウ家で学んでいたことを忘れないように、とのことだったが、その本質は別にあった。

 教師の教え方は他の子供達に向けたそれよりはるかに厳しい。少しでももたつけば体罰の雨が降る。かといって、飛び抜けて出来のいいところを見せればエーデルロート家の子供達はこぞってアドルフをいじめた。

 勉強の時間が終われば、遊びの時間とは名ばかりの蹂躙が始まる。自由時間は寝る前のごくわすかな時間だけだった。マナーの講義の時間以外で椅子とテーブルを使って食事したこともない。

 屋敷の中にいる時は、必ず首輪をつけさせられていた。アドルフに自分の立場を弁えさせるための、わかりやすい証だ。首輪から伸びた長い鎖をモニカに掴まれて引きずり回されたり、這って歩くことを強要されたりするのは日常茶飯事だった。

 人間の尊厳をすり潰してエーデルロートに逆らえない人形に変えるのが、人質に施すエーデルロート流の“教育”だ。エーデルロート家の中で、その一族……特に本家の人間は神にも等しかった。


 それでも、逃げ出すことはできなかった。この肩にはわずかに生き残ったシェーンブラウ家の子供達の命が乗っていたからだ。

 富も誇りも奪われて、アドルフを捧げることで助かった命。アドルフが人質の役目を放棄すれば、アドルフより幼いいとこ達が犠牲になるかもしれない。それはあまりに酷だった。


 人質として家畜以下の扱いを受ける中で、ひとつだけアドルフには希望があった。それは、クラウディアという少女の姿をしていた。


 クラウディアは、夢幻の中で受肉したかのような、無垢で美しい少女だった。

 事実、その勿忘草わすれなぐさ色の瞳が現実に向けられることはほとんどなかった。いつも夢見るように笑う白痴の少女に、アドルフはいつからか恋をしていた。


 クラウディアはギュンターの庶子だ。とうに死んだ愛人に生き写しだという彼女は、ギュンターにたいそう可愛がられていた。そのせいか本妻やその子供達からは嫌われていて、ギュンターが家を空けるたびに陰湿ないじめを受けていた。


 特にモニカからの嫌がらせは顕著だった。モニカは嗜虐癖があり、弱いものをいたぶることに生きがいを見出す性質たちだった。

 アドルフとクラウディアは格好の的だ。逆らえないアドルフと、助けを求められないクラウディアは、ただ耐えるしかなかった。


 クラウディアを庇うアドルフを、クラウディアはそういう遊びなのだとみなしていた。モニカの苛烈な振る舞いすらも、クラウディアには非道なことだと認識できていなかったからだ。


 モニカはそんなクラウディアを嘲笑った。彼女の兄姉も、彼女の母親も、それを助長させていた。

 それでもアドルフは孤独なクラウディアの傍にいた。ギュンターがいる間は父親が彼女を守る、ならばその父親が不在の間は自分が盾になろう、と。


 エーデルロート家では、誰もがアドルフを人間として扱ってくれなかった。虐待を受け、辱められて生きてきた。命さえ残っていればそれでよく、むしろ自我や自尊心があると邪魔だとでも思われていたのだろう。

 そんなアドルフを奴隷とも道具とも呼ばず嗤いもしなかったのは、無知で清らかなクラウディアだけだった。だから、彼女に報いたかったのだ。


 アドルフとクラウディアが一緒にいるところを見て、弱い者同士が寄り添うさまは実にみじめだとエーデルロート家の人間は嗤った。むしろ愉快な見世物として容認された。けれどただ一人、モニカだけは憤怒と嫉妬にまみれた目を向けていた。

 アドルフの決意は、モニカが彼に向けていた支配欲と独占欲をより刺激していたのだ。結果としてモニカが持つクラウディアへの加虐心は増幅され、クラウディアへのいじめは続いた。


 しかしアドルフは、よもや一番苛烈に自分を苦しめている女が自分に恋しているなどありえないと思っていたので、それが原因だとは気づけなかった。

 アドルフにとって恋とは、相手を大切にいつくしむものなのだ。人質として軟禁され、婚約者として紹介されたときからずっと、モニカはアドルフを奴隷と見下して尊厳を踏みにじってきた。

 モニカが口を開けば罵倒と嘲笑ばかりがぶつけられる。そんなモニカのことを、好ましいと思えるはずがない。もしもその行為自体がモニカの屈折した愛情表現だと理解できていたとしても、アドルフは彼女を受け入れられなかっただろう。


「アディはどうして、ディアをぶたないの? とてもたのしい遊びだと、モニカねえさまはおっしゃるのに。アディがよろこんでくれたら、ディアはうれしいのよ」

「そんなことより楽しい遊びを知っているからだ。さあ、今日はこの本の続きを読もう。厨房からくすねてきたお菓子もある。ディアは甘いものが好きか?」

「アディがすきなら、きっとディアもすきだわ!」


 クラウディアはゆっくりとアドルフに心を開いていき、知性とまでは呼べないものの人並みの情緒と感性を得るに至った。幼く未熟な想いではあったが、クラウディアはある種の感情すらをも芽生えさせた。クラウディアは、アドルフを愛するようになったのだ。

 一方で、アドルフはだんだんと鈍くなっていた。度重なる苦痛と羞恥に心が麻痺し、閉ざされたのだ。唯一研ぎ澄まされていたのは、クラウディアに対する想いだけだった。


 クラウディアへの愛は、アドルフを人間たらしめる最後の楔だ。

 クラウディアも、アドルフなしで生きる自分というものを想像できていなかった。

 甘いぬるま湯に揺蕩うように、二人は互いに依存しあっていた。


 モニカが父親の目を盗んで行う加虐行為の趣向が変わったのは、アドルフが十八歳、クラウディアが十六歳になってからのことだった。


 その年の春、アドルフはモニカと結婚していた。当主の娘と結婚して婿養子になったところで、アドルフへの扱いは変わらない。これはアドルフの生家を乗っ取ることに正当性をもたらすための婚礼だからだ。

 エーデルロート家はモニカの兄が継ぐ。婿養子である以上無能でいることは許されないとばかりに王城での仕官を命じられていたが、アドルフの立場は奴隷のままだった。


 仕事は数少ない安らぎの時だった。クラウディアと二人きりで過ごす時か、外交官として政務に携わっている時だけが、アドルフが自由でいられる時間だった。

 仕事も性に合っていたのだろう、すぐにアドルフは頭角を現した。名門貴族の名を背負う期待の若手官僚が奴隷でしかないことは、上司にも同僚にも悟られずにすんでいた。エーデルロートの傀儡であるとは、思われていたかもしれないが。


 エーデルロートに飼われる犬と妾腹の下女が恋仲であることを、目ざといモニカだけが知っていた。

 モニカは美しいアドルフに、歪んだ執着を持っていた。

 モニカは生まれつき、子供を望みにくい身体だった。


 アドルフとクラウディアの仲が清いものだったことは、モニカにとっては幸運だった————だって、それを踏みにじる悦びがあるのだから。


 夕食に多量の媚薬を盛られていた。それを知らないアドルフが謎の火照りに苦しみながら寝室に一人で戻ると、クラウディアが待っていた。

 モニカに命じられ、薄く扇情的な夜着を着ていたクラウディアは、アドルフを聖女のような笑みで出迎えた。すべてを許し受け入れてくれるような、やわく甘い無垢がそこにいた。


「アディ、なんだか苦しそう。ディアがいい子いい子してあげる。そしたらね、なのはすぐになくなるわ」


 朝、アドルフが目覚めると、クラウディアのあどけない寝顔があった。

 敷布を染めた赤色とあふれた白濁、そしてすべてを見ていたモニカの哄笑で、アドルフは己の罪を理解した。欲望に突き動かされてクラウディアの純潔を散らし、あろうことかそれをモニカに捧げる見世物にしたのだと。


 錯乱するアドルフを前にして、目覚めたクラウディアは不思議そうに首を傾げた。そして微笑み、こう告げた。


「ディアは、アディが大好きよ」


 幼子にするように、クラウディアはアドルフを抱き寄せてその頭を撫でる。このままではいけないとわかっているのに、アドルフはクラウディアから離れられなかった。

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