ディーデリヒの嘘
――――ディーデリヒが秘密の書箱を見つけてしまったのは、運命の導きとも呼ぶべき必然だった。
その日ディーデリヒは、体調を崩して寝込むクラウディアの見舞いに持参する本を図書室で探していた。
エーデルロート家の図書室は広い。幼い頃から通っているが、先祖の代からある蔵書を読み切れる気はしなかった。
クラウディアは甘やかな恋愛小説も、胸が締めつけられる悲劇の戯曲も、まだ見ぬ世界を拓く冒険活劇もよく好む。嗜好の幅が広いということは、選択肢が多すぎて悩んでしまうということだ。屋敷の中しか知らない彼女に娯楽を提供するのはディーデリヒの重要な役目なので、選別に手は抜けない。
まだ彼女の読んでいない本はないか、うろうろと書架の間を縫うようにして歩く。ふと、これまであまり足を踏み入れたことない区画の書架が目についた。
並べられた本がばらばらで、どうにも収まりが悪い。他の書架は何かしらの規則性をもって本を収めているというのに、これだけ妙に乱れている。几帳面なディーデリヒは顔をしかめ、配置のおかしい本を戻していった。
「……ん?」
がたり、と。今、何かが動くような音が足元からしなかっただろうか。
視線を落とす。床板の一部がずれ、床下が見えていた。まるで秘密の収納庫だ。覗いてみると、箱が置いてある。
好奇心には抗えず、ディーデリヒは箱に手を伸ばした。鍵はかかっていない。中に入っていたのは、家系図だった。
ディーデリヒは知る由もなかったが、それこそがエーデルロート家に代々伝わる真実の記録だった。
エーデルロート本家の人間だけが隠し場所を知る、決して表に出てはならない罪の記憶。家系図というよりも、先祖の関係性を正確に理解するために残されたもの。生まれ持っての病気や障害などの不都合が子孫の代で現れた時、その親の血の濃さを確認するために。
婿養子はそのありかどころか存在すら知らないだろう。しかし本家の嫡男の業として、ディーデリヒは誰に教えられることもなく禁忌に辿り着いてしまった。
「どういうことだ……?」
分家のぶんを選別し、なんとか本家を探し当てる。広げてみた家系図は、ディーデリヒが知っているものとは形が違った。
過去のエーデルロート家の人間の配偶者として、他家から招いた妻や夫の名以外に、別の名前が繋がれている。それは、その者の兄弟姉妹や甥姪、あるいは父母の名だった。
たまたま同名の愛人を迎えたのかもしれない。だが、その偶然がこれほど続くものなのか。そもそも、もしそうなら何故親族の間を線で繋ぎ、さらに子までなしているのか。ほとんどすべての代で、その現象は起こっていた。
系譜を下る。祖父と祖母は従姉弟同士だった。
祖父は祖母の他に、分家に養子に出された彼の姉を愛人にしていたようだ。その間に娘がいた。名は“クラウディア”。ディーデリヒの知る少女と同じ名前だ。
これによれば、伯父は祖母と関係を持っていたらしい。では、母は。ディーデリヒの残虐な母の名は、確かモニカといったはずだ。
母と夫婦関係を示す線が繋がっているのは、父のアドルフだけだった。母は近親相姦を行っていなかった。けれど、安堵は湧いてこなかった。
アドルフに、別の女性との線が繋がれていたからだ。
彼女の名前は“クラウディア”。母の異腹にあたる、叔母だった。
アドルフと“クラウディア”の間に引かれた線は、下部に続いていた。
そこに結ばれていたのは、ディーデリヒの名前だった。
「エーデルロートは、こんなにも血の濃い一族で……しかも僕は、不義の子だって……?」
事態がうまく飲み込めない。頭が理解を拒んでいる。そんな混乱の中で、もっとも鮮烈にディーデリヒの心を突き刺す事実があった。
クラウディアの母親は、モニカの妹であるはずだ。叔母にあたる女性は、“クラウディア”しかいない。
この家系図によれば、“クラウディア”にはアドルフの他にもう一人、関係を持つ相手がいたらしい。
“クラウディア”のもう一人の愛人は、他ならない祖父だった。
家系図にクラウディアの名は載っていない。
祖父か、父か。どちらかがクラウディアの父親なのだ。けれどどちらであれ、ディーデリヒとクラウディアの関係は変わらない。
従兄妹ではなく兄妹。それも、これほど近親での交配を繰り返してきた一族の。
分家の家系図を見ても、やはりその関係は一族内に収束していた。そういえば、まだクラウディアが幼い頃に、病弱な彼女を見て親族達がこんなことを囁いていた。
「やはり短命はエーデルロートのさだめか」「真に高貴で美しいものは、どうあっても儚くしか生きられないのだろうな」「あれの母親のように知能に問題でもあったなら、出来損ないとして処分も進言できましたのに。虚弱に生まれただけなんて、運のいいこと」「あれほど可憐な娘なら、我が家で引き取ってやればよかった。エーデルロートの使命も知らぬ婿養子殿に任せるより、よほど可愛がってやれたのに」……意味のわからない雑音として聞き流していた言葉の数々が、ぶわりとあふれだしてくる。
親族達は、何もかもを知っていたのだ。エーデルロートの人間は、近親相姦を許容し、当然のように思っている。むしろ、崇高な行いだとみなしているのかもしれない。
その穢れた血は、ディーデリヒにも流れている。
けれどひとつだけ、ディーデリヒには感謝したことがあった。この身に流れるのは、残虐な母の血ではない。それどころか、少なくとも半分は最愛の少女と同じものなのだ。
書箱ごと家系図を燃やすために持ち出し、適当な本をばらけさせる。それだけで隠し収納の蓋は閉じられていった。
もしクラウディアが、ディーデリヒを選ばなくても。自分達の間には、決して消えない血の絆がある。従兄妹よりももっと強い、兄妹としての絆が。
そのつながりがある限り、クラウディアとの縁は切れない。配偶者といえどしょせんは他人だ、離縁が成立すればその関係は無に帰る。けれど血族であるなら、たとえ絶縁されたところでその身に流れる血は変わらない。
それは、ディーデリヒに歪んだ悦楽をもたらした。
けれど同時に背筋が凍る。自分もまた、この背徳の一族の人間なのだと思い知らされたのだから。
ここでは何も見なかった。ディーデリヒは自分にそんな嘘をつき、クラウディアのための本を再び探し始めた。
*
「……ッ」
「ラーディ!」
庭園を散策していると、クラウディアが不意によろめいた。すぐさまディーデリヒは彼女を受け止める。今日は体調がいいからと庭に出たがったクラウディアだが、無理はさせないほうがよさそうだ。
「そろそろ戻ろうか。疲れただろう?」
「大丈夫よ、お兄様。少しめまいがしただけだもの」
ディーデリヒにしがみつき、クラウディアは微笑む。そうは言っても休んだほうがいいだろうと、ディーデリヒはガゼボまで彼女をエスコートした。
「あまり無理をしてはいけないよ。来月には君の誕生日があるじゃないか。熱でも出して寝込んだら、せっかくのパーティーに出られなくなってしまう」
「誕生日……」
来月、クラウディアは十六歳になる。寝台の上でディーデリヒの来訪を無邪気に待っていた小さな女の子は、何度も病に伏しながらも大きくなった。あどけない笑みこそそのままだが、立派な淑女と呼んで差し支えない年齢だ。
「ねえ、ディー兄様。四年前の約束、覚えていらっしゃって?」
「……」
クラウディアの表情が曇っているのは、体調不良のせいだけではないはずだ。
心配げな眼差しは、ディーデリヒがどう答えることを望んでいるのだろう。なんのことだと返すべきか、もちろんだと返すべきか。クラウディアの憂いを晴らすには、果たしてどちらを選べばいい?
「覚えているよ、もちろん。けれど僕がそれを覚えているからといって、君の答えにはなんの影響ももたらさない。僕が願うのは、ラーディ、いつだって君の幸せなんだ」
そう言いながら、ディーデリヒは無意識のうちにクラウディアの手を握っていた。怖かったのだ。クラウディアの口から直接、きっぱりと決別を言い渡されてしまうことが。
選択肢を封じるように動きつつも、口ではクラウディアを尊重してしまう。それはディーデリヒの虚飾だった。綺麗事ではごまかしきれない身勝手な本音が、ディーデリヒ自身も自覚のないままにあふれていた。
「お兄様は、わたくしの願いを叶えてくださるの? それが、どれだけ恐ろしいことだったとしても……」
強く頷く。クラウディアは安心したように口元をほころばせた。
「わたくし達が、たとえ従兄妹ではなくて……本当の兄妹だったとしても。わたくしを、ディー兄様だけの花嫁さんにしていただきたいの。世界で一番幸せな花嫁さんに、してくださるのでしょう?」
「本当に……本当にいいのかい、クラウディア」
どうやら以前についた嘘は、もう意味をなさないようだ。隠しておかなくたって、クラウディアもそれを知っていて――――そのうえで、ディーデリヒと同じ想いでいてくれたのだから。
「ええ。ディーデリヒ、どうかわたくしと――どこまでも堕ちていってくださいな」
クラウディアの瞳に魔性が宿る。破滅へといざなう甘い囁きに、ディーデリヒは口づけで応えた。
*
「話とはなんだ、ディー」
大事な話があると伝えると、アドルフはすぐに時間を作ってくれた。ティールームで待っていると、アドルフが来る。メイドが給仕を終えて下がるのを見計らい、アドルフはそう切り出した。
「僕の結婚についてです。どうしても妻にしたい女性がいて」
「そうか、お前ももう身を固める年頃か。相手は誰なんだ?」
「……その前に、一つだけ訊かせてください。相手がどんな女性であれ、父上は認めてくださるのでしょうか」
「当たり前だろう? お前が選んだ相手なら、きっと素晴らしいご令嬢に違いないからな。私がとやかく言うことでもないさ」
言質は取った。撤回はさせない。ディーデリヒは拳を強く握りしめ、最愛の人の名を告げた。
「クラウディア。クラウディア・フォン・エーデルロートです」
アドルフは一瞬だけ、この世の終わりのような顔をして。
わずかな沈黙のあと、高らかに笑い出した。