クラウディアの嘘
* * *
「これが、エーデルロート家の当主の証だ」
アドルフは嵌めていた指輪を抜き取った。
テーブルの上にことんと置かれたそれに、クラウディアの視線がつられる。
「ラーディ、お前が望むのならこれを譲ろう。お前にはその資格がある」
「お父様……」
アドルフは、エーデルロート家の婿養子だ。その優秀さにより当主として認められ、妻亡きあとも実権を握っている。
四十にも満たない若さで外相の位につく彼を尊敬の眼差しで見る者は多い。クラウディアもその一人だった。
「だが、お前も知っての通り、私の次にこの指輪を嵌める資格がある者はもう一人いる」
「存じております。お兄様でしょう?」
クラウディアの問いに、アドルフは頷いた。クラウディアの隣に立つディーデリヒは、沈黙を保ったままだ。
クラウディアの三つ年上の青年、ディーデリヒ。アドルフ譲りの理知的な黒い瞳と優しげな微笑は、クラウディアの目にもまぶしく映った。どうかそれを向けるのは自分だけであってほしいと、何度願ったかわからない。
「お前はどうしたい? 兄を蹴落として当主の座を望むのか、あるいはエーデルロート家の女として誰かのもとに嫁ぐのか」
では、と。尋ねられ、クラウディアは満面の笑みを浮かべた。
「ディー兄様と結婚し、エーデルロート家を継ごうと思います。……構いませんわよね、アディ義兄様?」
アドルフは、自嘲気味に口角を吊り上げた。
* * *
クラウディア・フォン・エーデルロートは、名門侯爵家の長女だ。子煩悩な父アドルフと聡明な兄ディーデリヒに愛され、蝶よ花よと育てられてきた。
だが、クラウディアはアドルフの本当の娘ではない。アドルフの義妹にあたる、エーデルロート家の女性の子だ。
母親はどこかの誰かと駆け落ちを目論んでいたが、それが露見して祖父に軟禁されていたらしい。その間に生まれたのがクラウディアだった。
母親は、出産の無理がたたってすぐ亡くなったという。当然父親は駆け落ち相手ということになるのだろうが、彼が名乗り出ることはなかった。
クラウディアが生まれてすぐに祖父も火事で死んだため、クラウディアは伯父のアドルフに引き取られることになった。アドルフも、その火事で伯母を失っていた。
クラウディアは生まれつき病弱だった。熱を出して寝台から起き上がれないと、ディーデリヒは本や花を持ってお見舞いに来てくれた。アドルフは仕事を早く切り上げ、クラウディアが心細くならないようずっとそばにいてくれた。
満足に外で遊べないクラウディアは、いつだって二人に気遣われていた。アドルフはことあるごとに地方や外国のお土産をくれたし、ディーデリヒは屋敷の中でクラウディアの読書やままごとに付き合ってくれた。たまに調子がいい時は、ディーデリヒのエスコートで庭園を散歩できることもあった。
姪であるクラウディアを、アドルフは実子のディーデリヒと同じだけいつくしんでくれた。ディーデリヒもクラウディアに優しかった。クラウディアは父も母も知らなかったが、それでも幸せだったのだ。
――――クラウディアがアドルフの罪を知ってしまったのは、運命のいたずらとでも呼ぶべき偶然だった。
その日はクラウディアの、十二歳の誕生日だった。
あまり派手に催すと身体に障るということで、招待客は限られていたがパーティーが開かれた。
食事は大好物ばかりが用意されていたし、会ったこともない人達からのプレゼントも山のように届いていた。
楽しいパーティーが終わってからも、クラウディアは興奮してなかなか寝付けなかった。
こういう時、メイドはホットミルクを淹れてくれる。ほんのささいな冒険心が、クラウディアの胸に灯った。いつものように、ベルを鳴らしてメイドを呼べばよかったのだ。けれどクラウディアは、そろそろと寝台を抜け出してしまった。
初めて出歩く深夜の屋敷は静まり返っていた。カンテラを手に、こわごわと歩く。
十二歳になった自分はもう大人であり、夜なんてちっとも怖くないことを大好きな従兄に証明したかった。いつまでも子供扱いする過保護な伯父に、立派なレディであると認めさせたかった。
だから、誰かがすすり泣くような声がかすかに聞こえても、クラウディアは驚いたりなんてしていないのだ。
幽霊かしらと思ったけれど、怖くないので見に行った。見に行かなければ、この夜の冒険を二人に話した時に怖がりラーディなんて呼ばれてしまう。
そこはアドルフの書斎だった。誰も入ってはいけないと言われている部屋だ。
ここに来たことは内緒にしたほうがいいかもしれない。でも、幽霊がいるかもしれない。放っておいたら屋敷のみんなが危険だ。クラウディアは勇敢なので、音を立てないようにそーっとドアノブを回した。鍵がかかっているはずのその扉は、今日だけはあっさりと開いた。
部屋の中にはアドルフがいた。アドルフは、壁に掛けられた肖像画の前に跪いて祈りを捧げるように泣いていた。
「ディア、ディア……。もう一度、君の笑顔が見られたなら……」
肖像画には、一人の少女が描かれていた。
「何度も何度も考えた。あの日、君を無理やりさらってしまえばよかったと。私にはそれができたのに」
真雪のような白い髪と、幻想的な勿忘草色の瞳。蕩けたような、無防備な笑み。年は十四、五歳ぐらいだろうか。触れたら融けて消えてしまいそうなほど、儚げな少女だった。
「ディア、許してくれとは言わない。私は君を守れなかった。それでも、君を愛し続けることだけは咎めないでくれ——どうかお願いだ、クラウディア」
華奢な硝子細工を思わせるその少女には、クラウディアの面影があった。
クラウディアの母親は、伯母の妹にあたる女性だ。クラウディアの父親は、母親が駆け落ちしようとしていた相手であるはずだ。
あの肖像画の“クラウディア”が、クラウディアの母親であるとするならば。
アドルフは伯父などではない。クラウディアの————本当の父親だ。
父親が名乗り出なかったことも、伯父に引き取られたことも、その伯父が我が子のようにいつくしんでくれたことも、すべて合点がいった。
アドルフは、妻の妹に懸想をしていたのだ。それがいけないことだとは、クラウディアでも知っていた。
クラウディアの名付け親は、何を思って母親の名を娘に与えたのだろう。怖かった。あんなに大好きだったアドルフが、気持ち悪いもののように感じられた。それでも、いつだって優しいアドルフのことを信じていたかった。
このことをディーデリヒは知っているのだろうか。従妹が実は異母妹であると、彼にだけは知られたくなかった。
だって、たとえ半分だけでも血がつながっているのなら、彼と結婚できなくなってしまう。
優しくて頭がよくて、気品があって見目麗しいディーデリヒ。部屋に籠ってばかりのクラウディアを疎ましがることもなく、勉強を見てくれたり一緒に遊んでくれたりする年上の男の子。屋敷の中という狭い世界しか知らないクラウディアにとって、理想の王子様はディーデリヒだった。
どんな物語に出てくる素敵な王子様も、ディーデリヒには敵わない。そのディーデリヒと結婚する花嫁は自分だと、信じて疑っていなかったのに。
アドルフに気づかれる前に、クラウディアはその場を立ち去った。
顔色の悪いクラウディアを深夜の見回りに来ていた執事が見つけたが、クラウディアは何も話すことができなかった。執事の手によって淹れてもらった甘いホットミルクも、クラウディアの震えを止めて眠りへいざなうことはできなかった。
*
「ラーディ、何かあったの? 兄様にこっそり教えてよ、父上に告げ口なんてしないから」
アドルフの罪を知ってから、クラウディアはアドルフと距離を置くようになった。養父だったはずの伯父が実は父親だと知って、どうすればいいのかわからなくなったからだ。
クラウディアは“クラウディア”ではない。アドルフから下劣な視線を感じたことはなかったが……彼がクラウディアを“クラウディア”の代わりと見ていない証拠はどこにもなかった。
クラウディアの記憶の中にいる、尊敬する最愛の父。彼が見知らぬ凌辱者に塗りつぶされないようにするためには、豹変する前にアドルフを拒むことしか思いつかなかった。
急にかたくなになったクラウディアに、アドルフはショックを受けているらしい。ディーデリヒも驚いたらしく、お見舞いに来るなり尋ねてきた。
それでもクラウディアが答えないとわかると、ディーデリヒは苦笑してクラウディアの頭を撫でる。
「君が言いたくないのなら、無理に話さなくてもいいからね。父上には反抗期だと説明しておくよ」
寝台のそばに腰掛け、ディーデリヒはお茶の用意をする。今日のおやつはいちごのタルトだった。
「……ねえ、ディー兄様。お兄様はわたくしのこと、好き?」
「当り前じゃないか、ラーディ。世界で一番大切な、僕のお姫様なんだから」
茶化すように笑いながら、ディーデリヒは切り分けたタルトの載った皿をクラウディアに渡した。甘酸っぱいタルトは、クラウディアの大好物だ。
「わたくしは身体が弱いから、きっとお嫁にはいけないわ。……お兄様の、お邪魔になってしまうかも」
「ラーディを邪魔だなんて思うわけがないだろう? ずっとここにいればいい。ここはラーディの家なんだから」
「でも……でも、お兄様と結婚する人は、そう思わないかもしれないわ。もしそうなら、わたくし、」
「ラーディ」
震える声を、ディーデリヒが遮った。
ディーデリヒは困ったような顔でクラウディアを見ている。けれどそれは一瞬のことで、ディーデリヒはすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「そんなこと考えなくていいんだよ、ラーディ。ラーディが悲しいと僕まで悲しくなってくるんだ。だから笑って、クラウディア」
ディーデリヒにそう乞われれば、普段のクラウディアならすぐに機嫌を直すことができた。大好きないちごのタルトだってある。けれど今日のクラウディアは、そんな子供だましの慰めでは引き下がることができなかった。
「だったら、ねえ、お兄様。お兄様がラーディを、花嫁さんにしてくださいな。そうしたらわたくしはいつまでもこの家にいられるし、お兄様のお嫁さんに追い出されることを心配しなくてもよくなるわ」
わがままを言うクラウディアを、嫌いになってほしかった。半分だけでも血がつながっているから無理だと、ディーデリヒに言ってほしかった。
大好きな人から嫌われてしまえば。
絶対に知られたくないことを、すでに知られているとしたら。
そうすればこの初めての恋を、諦められるような気がした————それなのに。
「仕方ないなぁ。あと四年経っても同じことが言えるなら、僕が君を世界で一番幸せな花嫁さんにしてあげるよ」
どうしてそんな残酷なことを言うのだろう。どうしてそんな無慈悲な約束ができるのだろう。どうしてそんなあたたかな声で、優しく笑ってくれるのだろう。
これではディーデリヒを嫌いになれない。それどころかもっと好きになってしまう。
こんなに苦しいのは、きっとアドルフのせいだ。アドルフがクラウディアの父親になってしまったからだ。
こんなにつらいのは、きっとディーデリヒのせいだ。ディーデリヒのことを好きになってしまったからだ。
真実を知れば、ディーデリヒはきっとアドルフを軽蔑して、不義の子であるクラウディアのことも嫌いになってくれるだろう。
だからクラウディアは決めた。真実を暴いて、この偽りだらけの家庭を破滅させることを。
暴いた先にあるものが真逆の結果であればいいと、本当は願っていた。そう信じていたかった。
だけどそうではなかったときに、もっと悲しまなくてすむように。クラウディアは、その大きな大きな虚勢をついたのだ。
————クラウディアの目論見が泡と消え、新たな絶望を突きつけられたのは、それから三年後のことだった。