プロローグ 『別れは突然に』
カッと太陽が照り付ける夏。目覚めは最高。気分は快調。彼にとって、今日ばかりは快調でなければ困る。
今日、全国高等学校剣道大会の県予選が行われる。彼の剣道人生で最後になるであろう大会だ。
とはいってもたった今ベッドの上で目を覚ました彼にとっての剣道人生はせいぜい2年半だけだが。そんなことは関係ない。
この大会を勝ち抜いて全国にこの俺、一ノ瀬薺の名を轟かせるのだと言わんばかりに飛び起きる。
そして薺は、両手で頬を叩き、気合を入れなおしてリビングに向かった。
《行方......今日......5......》
リビングから玄関まで漏れ聞こえてくる朝のニュースが、右から左へと通り抜けていく。おそらく緊張しているのだろう。自分が一番わかる。おそらくではなく確実に緊張している。もう家を出なければならないのに玄関から立ち上がれない。まだ家も出ていないのに足が重い。
「大丈夫?」
そんな俺を見かねて母さんが心配そうに声をかけてきた。
その後ろで父さんは緊張する俺に向かって高笑いをしている。なんて薄情な親なのだろうか。
しかし、そんな2人の反応も当然のことであり、現に今は靴の紐を結ぶのにも5分以上かかっているし、朝ごはんも喉を通らず、かなりの時間をかけてようやくと言ったところ。
極めつけは起きてから今に至るまで、まだ会場に着いてももいないというのに緊張による激しい腹痛に襲われて七回もトイレに入りなおしている。
「だ、大丈夫!武者震いってやつだよ」
せめて母親の前で位はかっこつけておかねば。ここで緊張してるなんて言ったらママ友になんて言われるかはわかったもんじゃない。
しかし、顔は向けられない。ひきつっているのがばれてしまう。
それでも、行くんだ。
「じゃあ」
一息ついて玄関から立ち上がる。
『次こそは......』
「......?」
不思議な声が。聞き覚えのある声が脳裏をよぎった気がして。薺は周囲を見てみる。しかし、声の主はいない。いるのは不思議そうな顔をしている両親だけだ。
これも緊張のせいだろうか?
だが、この不思議な現象と父の高笑いのおかげで緊張は少し解けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
少しばかりの高揚感と、大きな虚勢を混ぜて挨拶を済ませた。その際も決して振り返りはしなかった。
もし、この挨拶が両親との今生の別れになるんだと、この時すでにわかっていたら、
『次こそは、お前が』
もっと、ちゃんと、顔を見て、今までの精一杯の感謝を含みながら、
『俺自身が』
「行ってきます」って
『みんなを』
言えたのだろう。
『救うんだ......!』
こうして薺が『この世界|の一ノ瀬薺』で生きられる、最後の日が幕を開けた。
そして、ここから数時間後。初戦で大敗することになる。
それがこれからはじまる物語の引き金になろうとは誰も思いはしていなかった。