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あなたと行きたい

作者: 桐谷 歩


 まばゆいばかりの朝陽を浴びながら、私が頼んだ二千円のエッグベネデクトにぐちぐちとケチをつける目の前の男は、トーストとスクランブルエッグを口いっぱいに含み、汚い咀嚼を繰り返す。パンくらい潔く飲み込め。

 ウェイターが怪訝そうな顔をして、私の水だけ注ぎ足した。


 地方に住む姪の結婚式のため前乗りした私たち夫婦は、式場から車で十分の、グランドホテルとは名ばかりの老朽化が目立つこのホテルに泊まった。結婚前に、一度二人で来たことを、夫は覚えているのだろうか。元妻との離婚が成立したばかりの彼に贈った慰安旅行。哀愁漂う背中を抱きしめたことなど、葬り去られた黒歴史。

 今じゃ卵のカスを口の端につけたままくちゃくちゃと音を立て食事を摂るこの中年男の一生は、あと幾年ほどのものだろう。何なら私が片手で収めてあげてもよい。

 「なに」

 夫が無機質な声を出す。私は答えることなく、エッグベネデクトの半熟卵にナイフを突き刺した。


                    

 

                ーーーーー

 


 

 それにしても青白い部屋だった。私たちが泊まった部屋だけではない、そのフロアすべてがどんよりと青白かったのだ。まるで永遠に夜明けなど来ないような、私は孤独で胸が押しつぶされそうだった。 

 ツインベッドの壁際には、らせん階段が描かれた絵画が掛けられていた。昨晩は、薄気味悪いその絵をしばらく見つめていたが、常備している耳栓を装着すると、壁を抱きしめるように丸まった。頭の奥で反芻するその「声」をかき消せずに随分ともがいた夜だった。



                     

                ーーーーー




 朝食を済ませた私たちは、部屋に戻るためエレベーターに乗った。夫が十二階を押す。私たちが泊まっているのは十三階だ。あの女のことでも考えているのだろうか。

 「あなた、違う階」

 乾いた声で否定する。夫は何も言わない。私は無感情のまま十三階のボタンを押した。

 全面鏡の箱の中、エッグベネデクトなど到底似合わない小太りな女と、禿げた中年男が所在なげに立っている。

 

 エレベーターは、チンという軽やかな音と共に十二階で停まった。私はすぐに「閉」のボタンを押し、箱が動き出すのを待った。しかし頭詰まりしたかのようにガクンと音を立て、再び十二階のドアが開いてしまった。私はもう一度「閉」のボタンを押した。


 「何これ」

 上昇を遮られた扉が三たび開く。

 ふと先に目をやると、そこは青白い十三階とは違い、鮮やかな「色彩」に満ち溢れていた。温かみのあるシャンデリアに赤、黄、緑が曖昧に混じり合った絨毯。正面にはらせん階段が見える。部屋で見た絵画の薄気味悪さからは想像もつかない、重厚感すらあるその階段に魅せられた私は言った。

 「あなた、あれで十三階に上がりま……」

 

 そう言い終えるか否か。突如後方から強い力が働いた。私は夫に突き飛ばされ、勢いよくエレベーターの外に弾き出された。サッカーなら一発退場かというほどの激しさだったので、私は前のめりながらも振り返り、持てる限りの憎しみを込め夫を睨みつけた。忌まわしき夜の出来事が蘇る。このやろう!

 

 夫はというと、まるで捨てられた子犬のような瞳をしていた。

 「何なのその目は!」

 私が叫ぶと、夫は冷静に、静かな声で。いや、それはもう声ではなかったかもしれない。しかしながら、わずかな微笑みを添えて、「もう行け」と言った。確かにそう言った。一瞬の出来事である。

 その直後、聞いたこともない不協和音と共にエレベーターがなだれ落ちた。



                     

                ーーーーー

 



 「はい、お連れの方が乗ったエレベーターが落ちたと。昨日よりお一人でご宿泊の斎藤様です。564号室です。ええ、当ホテルに十三階はないとお伝えしたのですが理解していただけず……」



                     

                ーーーーー




 カーテン越しにうっすらと見える人の背中。私は高校の保健室を思い出していた。

 なぜか体育の授業が始まる前にお腹が痛くなる私は、保健室の先生に毎日のようにお世話になっていた。三年の春、福祉の専門学校に合格したことを伝えに行ったら、先生は「あなたが福祉だなんて」と冗談なのか本気なのかわからない、冷たい笑みを私に向けた。

 それにしても寝心地の悪いベッドだ。アルコールの匂いが鼻をつく。


 「屋上から逝く気だったのか…」

 低い男の声がした。

 吐息の隙間に声を挟めたかのように、物寂しさだけが宙に舞った。男はきっと窓の外を見ている。ひとりごとだろうか。私に聞いているのだろうか。耐えられないほどの孤独が全身を駆け抜けた。

 

 しばらくの沈黙のあと、勢いのよい足音と共に若そうな男たちが、おつかれさまですと息を切らして入ってきた。ここは病室なのか。

 そわそわした空気か感じ取れる。必要以上に大きな音で雑に手帳をめくると、男たちは鋭く沈黙を切り裂いた。

 「自宅に女の刺殺体、沢木さんビンゴですね。共犯者はないものと思われますが、女の方はどれが致命傷かわからないほどやられてます。顔から全身めった刺しなんてもんじゃないですよ。死亡推定時刻からして男はスーツケースの中で絶命ですね。鼻と口をガムテで塞がれただけできれいなものです。どちらも殺されてるのにこの差…」

 説明しながら思わず絶句、といった男の横で、今度は幼げな声をした男が話し始めた。

 「一人で二人分の朝食を頼んでました。そのあとで仏さんが入ったスーツケース持って階段から転げ落ちたと。腑に落ちないのは、屋上まであと一階なのになんで敢えてエレベーターを降りたのかということ」

 すべてを無言で聞いている低い声の男。

 

 再び静まり返る病室。凍てつく寒さが頰を刺す三月の朝。そうだ、エレベーターが消える直前に夫は言った。もう行けと。だから私は答えたのだ。「あなたと逝きたい」と。

 潤んだ瞳にキスをした。禿げた頭を二度ほど撫ぜた。子守唄を歌った。そしてスーツケースを閉じたのはきっと夢。


 幼声の新米刑事が言った。


 「目が覚めたらすべては署で、ですね」



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