量子力学
量子力学って何? というのは、本書を丸々使っても説明しきれないでしょうし、筆者の全能力を注ぎ込んでも全容は理解できないので、そういう簡単な話はしません。
そもそも、広い意味での「量子力学」は、新しい学問の体系といっても過言ではありません。銀河や星から光だの素粒子だのまで含んだ「物の動き方」を記述する学問体系が、ニュートン力学や一般相対性理論まで含む「運動力学」だとすれば、その体系全部に真っ向から立ち向かえるほどの重厚さを持っています。
たとえば、1+1=2という簡単な式も、量子力学的に言えば「1っぽいなにか」「+っぽい演算子」「1っぽいなにか」=「2っぽいなにか」ということになってしまいます。なんだかいろいろぶち壊しです。
そんなんで学問として成り立つんかいな、と思う向きもあるかと思います。私もそう思います。でも、専門家たちは、「1っぽいなにか」をちゃんと数学的な関数(コレが決まればアレが決まる、という関係性)として書けます。同じように「+っぽい演算子」もちゃんと数学の記述法を発明しています。関数と関数を変な記述でぶつけて新しい「2っぽいなにか」という関数を導く方法をちゃんと作っちゃったんです。
一言で言うと、量子力学の専門家って、とてつもない努力家です。努力家であることがまず入り口。そこに天才性が加わって、研究者として生きていける道にようやく乗れるようなものです。
そう、筆者は努力家ではないので、入り口にさえ立てません。どんな学問でも式を一本でも解いてみて理解するのが私のスタイルですが、そんな努力はできません。ということで、威容を誇る量子力学ビルディングのエントランスにさえ入らず、こっそり窓拭き職人として外壁にぶら下がって窓から中をのぞいているわけです。
さて、ここまで長い前置き(という名目のイイワケ)を並べておいてからの、量子力学です。
先ほども書いた通り、量子力学では、数と数の関係性である「関数」を一つの要素として扱います。たとえば、ある運動物体の持つエネルギーは関数で表されるし、座標も関数で表されます。
と書くと、例えば、普通の運動力学でも、運動方程式の解は「関数」で出てくるじゃないか、というツッコミを入れたくなる人も出てくるかもしれませんが、大切なのは、方程式を解く前から運動物体自体が関数で表記されているということ。ある瞬時の物体の状態が、その内部にいろんな変化を潜ませていて、その次の瞬間には「内部のいろんな変化の仕方」そのものがぐにゃりと変化する、という入れ子構造になってるってことなんです。ね、聞いてるだけで、並大抵の努力じゃあそんな方程式は解けそうにないことが分かりますよね。
その物体の内側に潜んでいる変化の仕方ってのが具体的に何を表しているのかは、実は意味がありません。そこに意味はない、ということで大体合意がとれています。ただ、それをしっかり解きほぐすと、波動関数だのなんだのというどっかで聞いたような言葉が出てきて、そのうちの一つが例えば「物体が空間のどこに存在するかの確率分布を表したもの」と解釈してもよさそうだ、ということになっています。
で、さらりと「波動関数」なんて書いてしまいましたが、どうも、量子力学的にミクロな物体を記述してみると、どいつもこいつも波動、つまり「波」の性質が出てきてしまうんですね。いや、もともとは、量子力学のスタート地点は、「どうも波だと思ってた連中もなんだかどっか一点に集中した粒子のようなものに見える(飛び飛びのエネルギーを持ってるかのように見える)ことがあるぞ、記述方法が無いかな」ってところからスタートしてたわけで、それを作ってみたら、他の粒子と思ってた連中がぜーんぶ波でした、ということになったわけで、これはもう大事件だったわけです。
おおよそこのくらいのエッセンスが分かれば、「ああ、真面目に取り組むだけ無駄だな」とお分かりいただけたかと思います。量子力学は努力の学問。愚直に複雑な方程式を解いて解いて解きまくっていると、何の前触れもなく思いもよらない現象が予想されちゃう。しかもそれが大体合ってるから困る。そういうものです。
つまり、量子力学は、ちょっとややこしい妄想の裏付けをうやむやのうちに煙に巻くのにとても都合のいい理論体系です。誰もが検証するだけ無駄と思わせるくらい、前提条件をややこしいものにしてしまえば勝ち。ちょっと誰も考えていなかったような前提条件を置いてしまえば、解ける人はいなくなります。
事実、重力を量子力学で扱おう、ただそれだけの試みが、もう100年近く、失敗し続けているんです。ちょっと頭がおかしいレベルの天才によるガチンコの取り組みさえ退けて。たぶん、量子力学というメガネで世の中を見ると、その大半はまだ全然理解できてないことが分かる、そのくらい、「量子力学で世界を説明する」というのは難しいことです。うかつに踏み込まず、煙に巻く小道具として使うくらいがちょうどいい塩梅のように思うのです。