その一 王宮のとある午後のひと時(ルーシア視点)
こちらは、ヒーロー視点の拙作『君は僕の真面目な婚約者』の結末を踏まえたお話になるので、『不真面目な騎士』の結末と少し繋がらない部分がありますが、ご容赦下さい。
私はその日珍しく、奥宮の近衛騎士隊が主に会議などに使う部屋で、事務仕事をしていた。新しく入隊した見習い騎士達の教育方針を、先ほどまでエリックからリーダーを引き継いだハインツと相談していたのだ。新人たちの個別の能力や、性格的特徴、それと騎士としての必要技能の学習進捗具合などを改めて浚いつつ、今後の実習計画を練って行く。今私は王女エメセシル様の近衛騎士隊において、新人教育の責任者を任されていた。
本当は、私はあまり人に物事を教えることに適さないのだけれど、今回公募で志願して来た新人見習い騎士達の中に、数人の貴族令嬢も含まれていたため王国唯一の女騎士であった私がその先達として、彼女達に指導するのはまぁ当然の責務だと考えている。エメセシル様、アレクス様も今後は男女の分け隔てなく、志ある人間を広く取り立てて行かれる方針のようなので、女性も働きやすい職場作りというのも目下重要な課題である。
そんな風に、あまり得意としていない事務仕事に没頭していると、だんだん頭が痛くなって来た。こめかみをほぐす自分の左手の何か固いものが頬に当たり、私はそれを見やる。これは、ほんの少し前に頂いた休暇で、婚約者のエリックと王都を出てピクニックに出かけた時に、彼が私に贈ってくれた婚約指輪だ。
その、琥珀の石がついた周りを小さな青い石がぐるりと囲んでいる指輪を見て、私は思わず微笑んだ。私の瞳の色と、彼の瞳の色を模したその石達が、彼がどんな時でも私を守ると言う決意を表しているようで、何だかくすぐったい気持ちになる。彼と婚約してもうすでに10年以上経っているのにも関わらず、彼は改めて私に真摯な言葉でプロポーズをして、この指輪を贈ってくれたのだ。その時の幸せな気持ちは、言葉に表せない、大切な思い出だ。
思えば私が彼の気持ちを長い間勘違いをしていて、ずっと無視し続けていたのに、彼は私を見限ることなく、本当に、大きな愛情で私を見続けてくれた。これからは、きちんと彼の気持ちを取りこぼすことなく、私も彼を支えていけたらと思っている、のだけれど―――。
あのプロポーズの日から、私達はまた1ヶ月くらい会えていない。
私が忙しいのもその原因の一つで間違いない。でもそれ以上にエリックの忙しさは比較にならない。彼が同じ所属だったエメセシル様の近衛騎士隊から、思いがけない異動によって王国軍の一師団の師団長に任命され、さらに新たに就任された軍事顧問ゲオルグ閣下の副官も兼任することが決まってからは、彼の忙しさはこの王宮中を探しても5本指に入るだろう。しかもゲオルグ閣下が軍事顧問に就任されるまでの複雑な経緯から、閣下に対する反発や不満を、エリックが間に入って仲裁をしているようだから、忙しいだけでなくそのストレスの多さも想像に難くない。
そんな訳で所属が変わって以降、私の主な職場はエメセシル様の居住区である王宮内奥宮であるのに対し、彼は軍事施設の集中する右宮で働いているものだから同じ王宮にいると言っても、例え休憩時間や業務後であっても私達が顔を合わせる機会はほとんどなくなってしまったのである。彼に比べて私の方が忙しくないのだから、私の方が会いに行けばよいと思うのだけれど、いったん自分の任務のことで頭がいっぱいになると、いつの間にか彼の事を思い出す暇もなく時間が経ってしまうのだ。
……え?寂しくないのかって?
もちろん、私も彼が恋しいし会いたいとは思う。でも彼と心を通じ合わせてからは、私の中で彼に対しての絶対的な信頼感というものがあって、いつでも彼の気持ちは私と共にあると分かっているから、以前のように会えなくて不安になると言うことはないのである。それに、あとほんの少しだけ我慢すれば私達は婚儀を上げて、正式な夫婦の誓いを交わす。その後は住まいも一緒にする予定だし、アレクス殿下にも婚儀の前後にまとまった休暇を頂くことも確約して頂いている。そう考えると、あと少し待つくらい私にはどうということもない。
―――そんな風に私が考えていたところ、部屋の外側にやたらと騒々しい足音が響き、それがこの部屋に近づいて来ているのに私は気付いた。
バタンッという乱暴な音と同時にこの部屋の扉が開かれる。私は驚いて思わず扉に注意を向ける。
「……ルーシア……俺は、もう限界だっ……!!」
そこには、肩を怒らせ、目を血走らせた我が婚約者殿が、息も絶え絶えな様子で立っていた。
「エリック……!?」
私はその物々しい様子に目を丸くし、思わず書類を落とし立ち上がった。
エリックはそんな私の元に歩み寄って来るわけでもなく、おもむろに会議用長テーブルよりも奥にある休憩や歓談用の長ソファのところに大股で進むと、ドカッと体を横たえてしまった。私はその様子を鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、あっけにとられながら見ていた。
「……仕事を抜け出して来た……少し、休ませてくれ……!!」
呻くようにそう言うと、エリックはシャツの襟元だけ緩め、上着も脱がないまま仮眠をとろうとしてしまう。
「……エリック?」
私が恐る恐る様子を見に行くと、エリックは目元を覆うようにかざしていた腕の隙間から青灰色の瞳を少しだけ覗かせた。緩めたシャツから覗かせる首筋がやけに色っぽくて、どきりと胸が高鳴る。
「……気にしないでくれ、まだ業務中だろ?邪魔するつもりはないんだ……ただ、君の顔を一目でいいから見たかった」
少しだけ恥ずかしそうに呟いたエリックに、私の頬に熱が集まって来るのが分かった。もう、どうしてこの人はこんな風に、照れ臭いことを正直に言えるのだろう。
思いが通じ合って以降、彼はとても直接的に私に自分の気持を伝えてくれる。とても嬉しい反面、同じことが素直に出来ない可愛げのない私は、いつも戸惑ってしまう。いつも、彼のリードに頼ってしまうのだ。
……会いに来てくれてありがとう、私も寂しかった。会えて嬉しい。
そのシンプルな言葉が言えない。
気にせず仕事を続けろ、とでも言うかのようにエリックはまたその瞳を閉じてしまう。
私は少しそこでどうしたものかと思いを巡らし、結局長テーブルに戻ってしまう。もう一度仕事に集中しようとして……ああ、駄目だ。元々煮詰まりかけていたのに、こんな状況で集中なんて出来る訳がない。
私は一度ため息を吐いて、でも物事は進む時と進まない時があるし、たまには思い切った行動も必要だと思い直した。
書類を整頓し、私は立ち上がりエリックの傍に再び歩み寄った。
「エリック、上着くらい脱いで。制服が皺になってしまうわ」
ああ、可愛げがない、と思いつつ彼に声をかける口実を探す。
エリックは私の言葉に素直に「ああ……」と少し寝ぼけまなこで一度上体を起こし、上着を脱ぎ始める。私はその上着を受け取り、畳んで別の椅子にかけると、私の動作をもうろうとした様子で見ているエリックの横に腰を掛けた。そして、ちょっとだけ強引に彼の頭を私の膝の上に引き寄せた。
「!?…ルーシアっ!?」
私に膝枕される形になったエリックは、驚いたように、慌てて身を起こそうとする。それを私は彼の肩を押さえて制する。
「少し寝るんでしょう、この方が楽だと思うわ」
ちょっとだけ素っ気ない言い方をしてしまった。あなたを心配しているの、って言いたいのに。
「俺は、君の仕事の邪魔をするつもりは……!」
「いいのよ、どのみち煮詰まっていたから、私も休憩」
顔を赤くしたエリックに、私は何でもない風を装って答える。ああ、本当に、なんて可愛げのない。
エリックは少し迷うように目線を宙に泳がすけれど、疲れからかすぐに観念して彼の肩に置いている私の手に、自分の手を重ね目を瞑った。
「……ルーシア、君に会いたくて仕方なかった……」
低いかすれた声で言われると、胸の奥が切なさにきゅうっとなる。
「私も……会いたかったわ」
やっと、素直な気持ちを一言だけ言えた。彼はいつも、私のこんがらかった心を解きほぐしてくれる。
「うん……」と嬉しそうに頷いた彼は、そのまま吸い込まれるように眠りにつく。その疲れが溜まった目元は、濃い隈がしっかりと自己主張をしている。
それなのに、一度寝入ってしまうとそのあどけない口元は、いつかの少年時代を思い起こさせるものだから、私は本当に困ってしまう。彼への愛おしい気持ちから、その唇にキスしてしまいたくなって、ああでもやっとひと時の睡眠を貪る彼の邪魔をしてはいけない、と自分を戒める。
そうっと彼の柔らかい金茶色の髪を撫でつけると、彼が嬉しそうに鼻を鳴らした。……ふふ、まるで小さな子供みたいね。
本当に、彼はいつでも私に幸せな気持ちを教えてくれる。こんな時間をこれからもずっと彼と共にして行くのだと思うと、その奇跡にも思える幸福におののいてしまう。
ずっと、このかけがえのない時間を大切に守って行きたい。
「……ルーシア……」
寝言なのか、不明瞭な声で私の名を呼んだ彼は体の向きを変え、その腕が甘えるように私の腰を抱きしめる。私は微笑んで、さらに彼の頭を撫でる。
うららかな暖かい午後のひと時。窓からは明るい日の光が差し込み、部屋中をふわりと包み込んでいる。
そんな、穏やかな時間が流れてしばらく経った頃―――。
バタバタというまたしても騒々しい足音が近付いて来るのが、外から聞こえて来た。しかも、遠くに彼の名を呼ぶ若い声が響いている。
エリックの名を呼ぶ若い男の声に、むっ、と彼の眉がしかめられた。明らかに不機嫌になっている。
「エリック様ー!!どこですかー、エリック様ーーー!!」
その声がいよいよ近づいて来て、エリックは私から腕を外しむくりと起き上がった。
「……アーウィンの奴……」
これ以上ないと言うくらい不機嫌な声でエリックは呟いた。
アーウィンと言えば、エリックが王国軍師団長に任命されてから彼の補佐役につけられた、私達より少し年若の青年騎士のはずだ。
―――ドンドン、という容赦のないノックのあと「失礼します!」という声と共に、会議室の扉が開かれた。そこには真面目そうな明るい榛色の髪をした騎士が立っていた。
「ルーシア様、お仕事中失礼致します!上官であるエリック様がこちらに立ち寄られていると聞き、参りました!」
「……アーウィン~~~!!!」
苛々した様子を隠しもせず、エリックはその青年騎士を睨み付ける。
「俺は少し休憩をとると言っただろう……!!ほんの2、3時間の休みくらい自由にさせてくれないか?!?!」
頭を押さえながら低く唸ったエリックに、アーウィンは申し訳なさそうに肩を落とす。
「申し訳ございません、しかし、ゲオルグ軍事顧問に反発する若い騎士の一部がまたしてもゲオルグ閣下に嫌がらせを!!」
「何だと!?」
途端にエリックの顔が真剣な、仕事モードのそれに変わる。一瞬不覚にも、その顔が素敵だと思ってしまった。
「ゲオルグ閣下ご自身は気にしない、放っておけと仰っていますが、あそこまで露骨にされるとその騎士らを処分せざるをえないと、エリック様に仲裁して頂きたく……!」
「分かった!」
言うなり、エリックはソファから立ち上がり、別の椅子に掛けていた上着をつかみ取る。
「ルーシア、騒がせてすまない。また、時間を見つけて会いに来る!」
エリックは申し訳なさそうにそう言いながら、扉の方に足早に歩いて行く。
「あ、待って、エリック!」
私は慌てて自分も立ち上がり、彼に駆け寄る。
「シャツの襟が乱れているわ……」
私は彼の曲がったシャツの襟を引っ張り整える。エリックは大人しく一度立ち止まり、私にされるがままになっている。その真剣な青灰の瞳を見て、何だかとてつもなく恋しい気持ちが込み上げて来た。
この何とも言えない不思議な感情が、いつもはグズグズしている私の決断を、後押しした。
私は彼のシャツを引っ張ったまま、私より背が高い彼にほんの少し背伸びをして、その唇に軽く重ね合わすだけのキスをした。
途端に彼の瞳が驚いて丸く見開かれる。私から彼にキスをしたのは初めてのことだった。しかも、人前。
「……お仕事、頑張ってね」
赤くなる顔を押さえながら、私は少し素っ気なく彼に告げる。彼の顔はすでに耳まで真っ赤だった。
「……あ、ああ……。い、行って来る!」
アーウィンのニヤニヤとした視線を受けながら、エリックは誤魔化すように私に頷いた。そして踵を返すと、今度こそアーウィンと部屋を出て行く。
「エリック様、いいなー……俺も恋人が欲しいです!」
「う、うるさい!仕事に集中しろ!!」
バタバタと上着を羽織りながら駆けて行くエリックの声が、次第に遠くなっていく。
その音を、会議室に突っ立ったまま聞いていた私は、思わず自分のしでかした大胆な行動に、両手で頬を押さえた。
うわぁ……、と途端に羞恥心が自分の頭のてっぺんからつま先まで埋め尽くす。
―――やっぱり、想いが通じ合って行動が変化しているのは、彼だけじゃないみたい。どんどん彼に引きずられて、引き込まれて行く。でも、悪い気は全然しない。
そっと、自分の唇に触れてみる。ささやかな感触がまだ残っている。思わず微笑んでしまう。
これからは、彼が私に伝えてくれる気持ちと同じくらい、私もこの想いを彼に届けていけたらいいと、ドキドキと波打つ鼓動と共に噛みしめた。
両想いになった後の、ルーシアとエリックの甘々エピソードを、というリクエストを頂き生まれた後日談になります。膝枕、不意打ちキスというのが甘々エピソードの王道の一つだと個人的には思っています。ご要望に沿えていたら良いのですが……(^^