第十一話
「……ルーシア、いるか?俺だ、エリックだ」
私が驚いて部屋の扉に目を向けると、良く聞きなれた声が扉越しに聞こえて来た。そう言えば、エメセシル様のことで頭がいっぱいで彼のことをすっかり忘れていた。あのあと、エリックはあの場に残っていたのかしら?
私はさっきの離れの塔で見た出来事をまた思い出して、不愉快な気持ちになりながら扉に近づき無言で開けると、案の定私の表情に少し弱った顔をしたエリックが、周囲を気にした様子で立っていた。もうすっかり遅い時間だものね、使用人達も業務を終えて自分の宿舎に戻っているくらいの時刻のため、エリック越しに見える廊下の様子はしんと静まり返っている。
「……悪い、今、ちょっといいか?」
「……入って」
声のボリュームを落として、私に囁きかけたエリックに私は仕方なく部屋に入るよう促した。
「……エメセシル様の様子は?」
「……色々思い詰められているわ……明日、アルカディアに帰ると仰ったのよ」
私が椅子を勧めるよりも先に、エリックは話を切り出した。私が簡単にエメセシル様の様子を伝えると、エリックはうーん、と考え込むように頭を捻った。エリックに当たっても仕方ないのに、私の言い方は刺々しくなってしまい、可愛くない。でもそのことについてはエリックはさして気にした様子もなさそうだ。
「……やっぱりか。少なくともアレクス殿下や他の王族方の許可なしにセイクリッドを出るなんて出来るわけない、明日すぐなんて無理だ」
「でも、国王陛下を見舞うという目的が果たせないのは姫様に落ち度がある訳ではないし、姫様だっていつまでもアルカディアを空けてはおけないわ」
あくまで教科書通りのエリックの反応に、私はつい反発してしまう。もちろん、エリックの言っていることが正しいのは私も分かっているのに。今度はさしものエリックも少し眉根を寄せて、難しい表情をした。
「それでも、アレクス殿下に断りを入れてからというのが筋だろう」
「……あんな風に姫様を傷つけておいて、どこにアレクス殿下の顔を立てる必要なんてあるの」
若干エリックの口調も、語気が強くなって来る。まるで役人のような物言いに私もヒートアップしてしまう。
エメセシル様に共感してしまっている私は、理屈よりもつい感情でアレクス殿下への敵対心を露わにしてしまう。でも、さっきのアレクス殿下の言動はいくら何でもあんまりだと思う。あの方が他人の心の機微に疎いのは私だって承知しているけれど、一般的な感覚としても婚約者を前にして他の女性、しかも過去に関係のあった女性と密室に二人きりでいて、さらにあんな風に抱き合った形で発見されて開き直るなんて最低ではないか。
私の恨みの籠った返事に、エリックはうんざりしたような表情で、一度大きく息を吸った。
「……ルーシア、それはごか……」
「姫様はアレクス殿下と婚約を解消するとまで仰ったのよ!!セイクリッドの王位継承がはっきりしない状態で、アレクス殿下を婚約者とみなすことは出来ないと!!」
私はエリックの言葉を遮り、大声で訴えた。エリックにも、どれだけエメセシル様が傷ついているかを理解して、共感して欲しかった。少なくとも、私の夫は同じ男でもあんな冷血王子とは違うんだと思いたかった。
「ルーシア、落ち着け!エメセシル様が傷ついて、感情的にアレクス殿下を拒絶したくなる気持ちは分かる、でもエメセシル様とアレクス殿下の婚約は国と国との間で正式に決められた契約で、本人達の気持ち一つで簡単に覆すことの出来るものじゃない!!お前だってそれくらいわかるだろう!?」
「国と国の契約って、エリックはそればっかり!まるで姫様を政治の道具のように扱ってるみたい!姫様のお気持ちはどうなるの!?姫様は人形じゃないわ、生きた人間なのよ、好きな人に裏切られたら悲しいしつらいわ、そんな相手と無理して一緒にいないといけないなんて、残酷だわ!!!」
「ルーシア、だから落ち着けって!俺は何も姫様の気持ちをないがしろにするつもりじゃ」
「ないがしろにしてるじゃない!!あなた、アレクス殿下のあんな自分勝手な振る舞いを見てなんとも思わないの!?よくも姫様の前で、他の女の人と一緒に過ごしていたなんてぬけぬけと言えたものだわ!!あんなに姫様を待ちぼうけさせて!!あなたも自分の主君がここまで軽く扱われて悔しくないの!?あなたがそんなに冷酷な人だったなんて思わなかったわ!!」
判で押したような、まるでお役人のような正論を振りかざすエリックを私は心底残念に思った。やっぱりエリックも他の貴族達と同じように、国や家の利益を優先させて個人の気持ちを軽んじる考えが根付いていたのかと思うと、ショックでやり切れなかった。こんなに長いこと二人でエメセシル様に仕えて来たのに、その彼女への思いやりがまるでないではないか。
売り言葉に買い言葉、私は完全に頭に血が上ってしまっていて、自分が彼にどんな暴言を叩きつけたのかについても自覚していなかった。
私が彼の人となりを詰った瞬間、エリックの青灰色の瞳がカッと見開かれた。しまった、言い過ぎた、と気付いた時には遅すぎた。
「………ルーシア、いいかげんにしろ!!!」
「……っ……!!」
空気を震撼させるほどに厳しい声音だった。瞬間的に、私はまるで雷に打たれでもしたかのように体を竦ませた。その私の両腕を力強い腕が押さえ込むように掴んだ。いつになく険しい表情を浮かべたエリックに射すくめられ、私は動けなくなる。全身を緊張が走った。そこでようやく、自分が何てことを彼に言ってしまったのか理解した。
「………ルーシア、いいか、よく聞けよ、俺はアルカディアの騎士だ、俺が昔から仕えている主君もお前と同じ、エメセシル様だ!!俺がそのエメセシル様を、大事に思わない訳ないだろう!!!」
「……エリック……!!」
怒りを滲ませた低い声が、かえって私を震え上がらせた。ここまで彼を怒らせてしまったのは、長い付き合いでも数えるくらいしかない。完全に、逆鱗に触れてしまったことを私は悟り、迂闊な自分の発言をたちまち後悔した。
彼が私の憧れる誇り高い騎士であることは疑いようのないことなのに、彼を侮辱するような言葉を吐いてしまった。
もし別の人間が彼に同じことを言ったら、私は絶対にその人間を許すことが出来ないだろうに。
緊張で、どくんどくんと、心臓が早鐘を打つ。
「俺を見損なうなよ……俺だって姫様の幸せを一番に願っている」
「………ごめんなさい、私、感情的になって、言い過ぎたわ……」
射抜くような視線に、感情に走った自分が恥ずかしくて仕方なくなった。どうして、彼のことを貶めるようなことを言ってしまったのだろう。誰よりも大切な人なのに。情けなくて、涙が込み上げて来そうで、でも自分の浅はかさに泣くなんてそれこそ愚かの極みだ。私はぐっと涙を堪えた。
すると私の心を見透かしたように、ふっとエリックの表情から険しさが消えた。途端に私は張り詰めた糸が緩められたような、それでいて逆に足元が覚束ないような心境に駆られた。
「……ルーシア、冷静になってくれ。俺はお前のその、真っ直ぐで誠実な性格が好きだ、大好きだ。お前がエメセシル様の気持ちを自分のことのように共感して、一生懸命支えようとしていることだって、家族としても同じ騎士としても誇らしい。でも俺達は姫様に一番近くで仕えているからこそ、判断を間違えてはいけないんだ。一時の感情でただ命令に従うんじゃなくて、本当に姫様が幸せになれる道がどこにあるのかを見極めなくちゃいけない」
「……エリック……」
もう既にいつもの思慮深く優しい色に戻っている瞳に見つめられ、私も見つめ返す。ゆっくりと、言葉を選びながら私に投げかけられる落ち着いた声は、じわじわと私の胸に浸透して、よけいに泣きそうになってしまう。こんなにも簡単に私の愚かさを許し諭す彼の懐の広さに、何とも言えない切ない気持ちと、安心感が広がる。
「考えて欲しい、あの二人が今までに、きちんとお互いの気持を曝け出し合ったことがあったか?ないだろう?彼らはまだ、互いの気持を伝え合ってもいないんだ。言葉にしないと伝わらない気持ちがあるのは、俺達がよく知っているだろう?それを疎かにしたまま、離れてしまっていい訳ないんだ。エメセシル様にとっても、アレクス殿下にとっても。二人はすれ違っているだけだ、ちゃんと奥底では通じ合っているのにそれを知らないまま諦めてしまうなんて悲しいじゃないか。俺達は、その二人を繋ぎとめる役割をしても、引き離す役目なんて絶対にしてはいけない」
「……エリック……、そうね、エリックの言う通りだわ。……ごめんなさい、私、感情的になって、周りが見えていなかったわ。それに、あなたに酷いことを言って、ごめんなさい……。本当に冷酷な人だなんて、思ってないわ」
今度こそしっかり彼の言葉を受け止めた私は、素直に自分の行いを謝った。
すると、彼は青灰の瞳を細めて、ふっと微笑むと私の頬に手を当てた。そしたらもう条件反射のように私の体に残っていた緊張が跡形もなく消えてしまう。私もその手に自分の手を重ね、目を閉じる。
でも、自分自身が彼を侮辱した自分を簡単に許せそうにない。だからそんなにたやすく、私を許さないで欲しい。
そう、思っているのに―――。
「……分かってる。ルーシアが思いやりが深いことも、エメセシル様をどれほど心配しているかも、全部。俺はお前のその無鉄砲なところも含めて、全部が愛しいんだ」
結局彼は私をまた丸ごと包み込んでしまった。どうしてあんな酷いことを言ったばかりの私に、そんなにすぐ優しくなれるの?
私はすぐに彼に甘え切ってしまう幼稚な自分を戒めるように、目を開けると大げさに頷きながら、気持ちを切り替えることに専念した。
「……エリック……!わ、分かったわ、今は、私達のことはいいから……!姫様とアレクス殿下の仲を取り持つことを考えましょう!」
「……。そうだな」
私が振り切るように話を元に戻すと、何故かこのタイミングでエリックの表情が一瞬また憮然とした顔になった。
「とにかく、明日になったら姫様も少しはお気持ちも落ち着いているかもしれないし、私からもきちんとアレクス殿下にお話をして頂くようお願いするわ」
「ああ……アレクス殿下は、俺の前ではっきりとエメセシル様を好いていると言及された。それに、メルヴィナ様との過去のお付き合いについても俺達が勘繰るような、深い仲ではなかったようだ。お二人の間に、友情以上の感情はないと断言なさった。メルヴィナ様とマティアス殿下の関係も、ずっとそのことが引っかかったいたようだがつい先ほどその誤解も解けたらしい。だから、エメセシル様とアレクス殿下がきちんと話し合って頂ければ、これ以上彼らの関係がこじれることはないと思う」
さっきとは打って変わって、現実的な対策を私が考え始めていると、エリックがさっき言いかけていた私達が離れの塔から去った後に起こった出来事の一部始終を話してくれた。
アレクス殿下とメルヴィナ様は男女の仲ではない?それに、アレクス殿下がはっきりと姫様への気持ちを認めて下さった?しかも、マティアス殿下とメルヴィナ様の関係も良い方向に向かっている?なんてこと、それはまたとない朗報だわ!!
私は驚きと喜びで、手をパン、と叩いた。
「……そうだったの!!ああ、だからエリックは誤解だって言ったのね……ごめんなさい、私、あなたの話を聞きもしないで」
「それはもういいさ……ただ、2日くらいはアレクス殿下はお時間が取れないかもしれない」
「……?どういうこと?」
肩を竦ませて再び私の謝罪をあっさりと受け入れたエリックは、思い出したように急に真面目に考え込むような顔をした。私は彼の表情に狐につままれたような心境になる。
「マティアス殿下の王太子位の正当性を議員達も含めて国中に認めさせないと、エメセシル様へ正式に求婚出来ないということをアレクス殿下も考えられているようで、まずはマティアス殿下の王太子位の確立を助けるおつもりらしい」
「そうなの……でも、どうやって?」
アレクス殿下も、多少は筋を通すことを考えられているようね。確かに、マティアス殿下の出生が疑問視されている今、その王太子位が安定していないということはアレクス殿下の立ち位置も微妙なままだものね、それではエメセシル様とアレクス殿下の気持ちが無事通じ合ったとしても今度は、政治的な理由で引き離されてしまう可能性だってある。
「……俺も詳しいことは良く分からないが、古い慣習でセイクリッド王家には王位継承者に課せられる試練があったらしい。今は廃れてしまっていたらしいが、その試練をマティアス殿下が突破することで、彼の王としての資質を証明できるとアレクス殿下が提案されたんだ。明日、マティアス殿下はそれに挑戦なさる、だがアレクス殿下としては自分がアルカディアに婿入りする条件を満たすためにも、絶対にマティアス殿下に失敗して欲しくない。だから裏からそれを手伝うつもりらしい」
「……そんなことして、もしバレたら試練の正当性を疑われるんじゃないの?」
マティアス殿下の王としての資質を問う試練なら、それをアレクス殿下が手伝うと言うのはルール違反になりはしないだろうか?私の感想をエリックもまったくだ、とでも言うかのように頷いた。
「……俺もそれは疑問だが、アレクス殿下のことだ、上手くやるだろう。……ただ、何故か俺もそれに駆り出されるらしい」
「……そう。……頑張ってね」
相変わらず私の旦那様は巻き込まれ体質なのね……。なまじエリックが賢く器用に立ち回れるためにそこをアレクス殿下が重宝されて、何かと便利に使われていることは知っていた。そもそも、エリックは私といい他の人物達といい、誰かの尻ぬぐいをさせられる役回りになることは絶えなかった。迷惑をかけている原因であるにも関わらす、同情を禁じえない。私には応援することくらいしか出来ないけど。
「………ああ。……だから俺を置いて、先にアルカディアに帰らないでくれよ。俺だけここに残されたら、セイクリッドに仕えろ、なんて言われかねないし」
「……そうね。わかったわ」
その、本気だか冗談だか分からない言葉に、私は思わず笑ってしまいながら請け負った。もちろん、あなたがセイクリッドに仕えるなんてことになったら一番困るのは私だわ、あなたは私の人生になくてはならないパートナーなのだもの。
「……じゃあ、明日朝早く出発するようだから、俺はもう休むことにする。ルーシア、寝る前に邪魔して悪かったな」
「あ……エリック」
「……なんだ?」
伝えるべきことは全て伝えた、という感じでエリックがあっさりと自分の部屋に戻ろうとしたのを、私は無意識に彼の袖を掴み引き止めてしまった。
本当なら、喧嘩したあとだからこそお互いの気持ちを確かめ合うためにもっと一緒にいたい。でも、今これ以上二人きりでいたら、彼を朝まで寝させてあげられないかもしれない。明日アレクス殿下のやっかい事に駆り出される彼に、そんな無茶は妻としてさせられない。いくら彼の逞しい胸が恋しくても。
生々しい温もりを思い出して、私は自分のはしたない思考にたちまち顔に熱が集まって来るのを感知した。彼に感づかれないように、私はわざと険しい表情を作り視線を逸らす。
「……な、なんでもないわ。気を付けて行って来てね」
「……ああ」
誤魔化すようにわざと彼の背後に回って、照れ隠しにその背中を両手で押し出した。困惑したエリックが不審な表情で、私に部屋から追い出された。……ごめんなさい、大好きよ。