第十話
―――あれは、私が15歳頃、正騎士の叙任を受けたくらいのことだったと思う。
騎士見習いの時期から馬術訓練はずっと受けていたのだけど、他の近衛騎士隊のメンバーに後れをとっていた私が、ようやく一人前に馬を操れるようになったのがその頃だった。
例年通り、初夏に長期休暇をとられるアルカディア国王陛下一家は西の保養地ウェスティンに滞在されていた。まだ正式に社交デビューもされておらず大人の仲間入りをしていなかった姫様は、狐狩りや遠乗りを楽しまれる国王陛下や兄君ユリウス様に置いてけぼりにされて、いつも留守番だった。晩餐でさえ、同行していたアルカディアの有力貴族との晩餐会や舞踏会が開かれている時には姫様は別行動で、よく私達騎士や使用人が利用する食堂に顔を出してはカードゲームやボードゲームを一緒に遊んであげたものだ。
そう言えばエメセシル様は本当に気さくで飾らないお姫様で、臣下達と距離感を全く感じさせないお方だったのだ。それはまだ精神的に成長しきっていない幼さゆえの、王族としてははしたない行動だったと言えるかもしれない。だが、そんな姫様のキャラクターを私達は皆大好きだった。
ある日、またウェスティンの離宮で国王陛下主催の晩餐会が開かれていて、王妃殿下もユリウス様もその会に出席されていた時、急にエメセシル様が私に陽が落ちる瞬間の地平線と後に続く星空を見たいと仰ったことがあった。
最初、もちろん私は反対した。晩餐会が開かれている日、私達随行の近衛騎士達も会場警護で駆り出され、一人二人エメセシル様の護衛に残されているものの姫様の守りがどうしても薄くなる。そんな時に夕方に出歩くなんてとんでもない、と私は答えた。しかも、その2年前に私がエメセシル様のお願い、を安易に聞いてしまったために、ウェスティン離宮の隣接した森で狼に襲われるという大事件を引き起こしてしまったことも、当時記憶に新しかった。
まだ見習いになりたてだった私は、命の遣り取りをする覚悟も命がけで主君を守らなければいけないということへの自覚もついておらず、姫様と一緒になって身をすくませてしまい、剣を抜くことさえ出来なかった。駆け付けてくれたエリックが狼を引き付けてくれなければ、私達はたやすく喉笛を掻き切られて命を落としていたに違いない。その時に、本気で怒ったエリックに言われた言葉が、私に騎士として生きる決意を固めさせるきっかけだったのだ。
そんな事件が過去にあったので、またエリックや他の近衛騎士隊達の目を盗み、ウェスティン離宮をエメセシル様と二人だけで抜け出すことにはだいぶ抵抗があった。
その私に、エメセシル様はその時いつになく食い下がったのだ。今日でなくては駄目なのだと。
当時エメセシル様は星にこだわりが強くて、よく王宮に勤めている天気読みに星について講義を受けていた。たしか最初のきっかけは、その時に姫様が読んでいた小説だったような気がする。その小説に出て来る主人公の少女が、星に導かれて仲間と一緒に理想郷に辿り着くという冒険活劇だった。姫様はそのストーリーがいたくお気に入りで、毎日その話をしていた。
そしてエメセシル様が私にお願いをした日は、たしか数十年に一度の流星群が降る日だったのだ。私は星について詳しくはなかったが、数十年に一度、と聞くと不思議なものでその機会を逃すのがもったいない気がして、つい了承してしまったのだ。
実際ウェスティン離宮からほど近い場所に広大な平原が広がっていて、馬での往復なら2時間もかからない距離だったことも、私の判断を促す要因だった。その流星群を見終わったら、他の隊員にバレる前に即離宮に取って返す、と姫様には何度も念押しをした。
丁度太陽が地平線に沈むくらいの時間に、流星群は姿を現すらしい、と王宮付きの天気読みから情報を得ていた姫様の言われる通り、私は夕暮れ前に姫様と馬でウェスティン離宮を抜け出した。
ようやく馬の扱いに慣れて来た当時の私といえど、二人乗りをする経験などそうそうなく、おそらく乗り心地は良いものではなかったはずだ。でも姫様はその小さな冒険に、大興奮で大きなエメラルドグリーンの瞳をそれこそ星のようにキラキラ輝かせていた。
『ルーシア、空がとっても綺麗ね!!』
平原までの街道を走りながら、周囲の景色を興味深そうに姫様はキョロキョロ見ていた。普段の移動は馬車だから、360度広がるパノラマにも終始ご機嫌だった。空は遠くにやや赤みが差して来て、まだ残る冷めるような青とその赤のコントラストが鮮明だった。
そして、目的地である、平原に一か所だけ大きな一枚岩が姿を覗かせている場所に辿り着くと、その上によじ登って私達は陽が落ちるのを待った。既に空の半分は群青色に染まっていて、いくつか煌めく星も遠目に確認出来た。
太陽が姿を隠すのにつれて肌寒くなって来る周囲の気温に、初夏ということで薄着のまま出て来てしまったことを悔やんだのを覚えている。二人して、持って来たカンテラのほのかな熱に手を寄せたんだった。
大岩の上に二人でしゃがみ込んで空を眺めて、十数分経った頃、ついに太陽が地平線に完全に隠れた。それから間もなく、いっぱいに広がる夜空を、無数の流星が横切ったのだ。
『わぁああー』
私達は二人で歓声を上げた。
地上に矢のように降り注ぐたくさんの流れ星の幻想的な光景に、心を奪われていた。私達を取り巻く空間全てが、まるで宝石箱の中にいるように煌めいていた。時が止まったように、私達は息をするのも忘れて空を見入っていた。
ふいに、エメセシル様が私の服の裾を引いた。
『お星さまが見えなくなる前に、お願いをするのよ』
『お願い?』
『知らないの?流れ星が流れ落ちる前に、お願いごとを唱えると、叶うのよ』
そう姫様は言うと、両手を顔の前で組み合わせ、小さく何事か呟いた。
願いが叶う、と言われ私も思わずその瞬間はただの普通の女の子に戻ってしまった。
『ずっと、エリックと一緒にいられますように……』
聞こえないように、小さく呟いたはずだったのに、耳の良い姫様には全部聞こえてしまっていたようだ。私の呟きに、姫様はさらに頬を紅潮させて見上げて来た。
『ルーシアは本当にエリックが大好きなのね!?』
『……えっ?ひ、姫様、聞こえたんですか!?』
エメセシル様に指摘されて私は真っ赤になってうろたえてしまった。
『隠しても駄目よ、ルーシア。ねぇ、エリックのどういうところが好きなの?』
目を欄欄と輝かせて質問を浴びせかけて来る姫様に、私は参ってしまう。そんなこと、恥ずかしくてとても言えない。
『……内緒です』
『駄目よ、ルーシア。私達の間に隠し事はなしよ』
『……どうしても言わないと駄目ですか?』
駄目だと、エメラルドグリーンの瞳がはっきりと意思表示をした。私は頭を抱えて唸ってしまった。ちょっとだけうだうだと考えて、観念したように口を開いた。
『……エリックは、いつでも私に優しいんです』
『……まぁ!ルーシアは優しい男性が好みなのね!』
好み、というかまさにエリックが私にとって男性の基準だった。だって私は彼の全てに恋していたのだから。でもそんなことを言ったら、よけいに恥ずかしい思いをするのは分かっていたから、黙っておいた。
『……ねぇ、いつからエリックを好きなの?どうして好きになったの?』
年頃の少女が二人きりになれば、恋の話題になってしまうのは致し方ないのかもしれない。もう既に流星群は姿を消してしまっていたけれど、私達は気にもしなかった。
『……いつから、というのは難しいです、小さい頃から私達は遊び友達でしたし。……いつの間にか、彼と過ごす時間が私にとって特別な時間になっていて、いつもお別れの時間がとても悲しくて、同じ家で暮らしていればさよならも言わなくていいのに、って私が思うようになっていて……そんな時に丁度良く私達の婚約が決まったんです』
『まぁ!初恋の人と婚約出来たルーシアは幸せね!』
素直な感想を漏らすエメセシル様に、私は少し複雑だった。
たしかに私にとってエリックは間違いなく初恋で、彼といつか夫婦になれることはこの上なく嬉しい。でも、彼の心には別の女性が……。
その時だけは、エメセシル様の可憐な顔を直視するのは辛かった。好きな人の好きな人を見るのは。
『わ、私の話ばかり、狡いですよ!姫様こそ、どんな殿方がタイプなんですか?』
私が話の矛先を変えようと、姫様に切り出すと、姫様は少し恥じらうように両手を頬に当てた。
『え、ええ……?私!?な、内緒~!』
『姫様も私に白状させたんですから、内緒は駄目です!』
『えー、そうねぇ……』
姫様は俯いて、少し考え込んだ。
現在のところ、姫様に四六時中控えていても、意中の人がいるようには思えない。でも恋に興味があるお年頃なのは間違いない。
ややあって、エメセシル様は夜空を見上げ、一つの方向を指さした。
『道しるべ星のような人がいいわ』
『道しるべ星?』
私はぽかん、としてエメセシル様の顔を見つめた。姫様は大きな瞳をいたずらっぽく輝かせた。
『知ってる?あの北の空に輝く一番目立つ星を道しるべ星と言うのよ。あの星は、季節も関係なく、変わらずにいつもあの位置にあるの。だから旅人はあの星を頼りに道を知るのよ。私は恋をするなら、絶対に自分を曲げない、揺るがない信念を持った人がいいわ。私の手をいつでも強く引いてくれるような、そんな芯を持った人。ルーシアにとってのエリックみたいに、私だけの道しるべ星』
いつになく情熱的に語る姫様のその目は、遠い夜空のさらに向こうを見つめていた。まるで未来を見通すかのように。
『道しるべ星……いつか、そんな方と、出逢えるといいですね』
私は、ささやかな祈りを込めて呟いた。エメセシル様は、そんな私に顔を向けると、少し寂しそうに微笑んだ。
『……でも、きっと私は恋を知ることはないわ。お兄様が、王族は人ではなく、国と結婚するのだと言っていたもの。だから、私は愛する人ではなくアルカディアのためになる人と結婚すると思うの、恋を知ってしまったらきっと辛くなるから、私はきっと恋をしないわ』
『……姫様……』
私は言葉を失い、再び夜空を仰いだ姫様の、儚げな横顔を黙って見つめた。その時の姫様は13歳の少女とは思えないほど大人びた、達観した表情だった。
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いつの間にか、まどろんでいたらしい。
休まれたエメセシル様におやすみの挨拶をして、自分の部屋に戻って来たは良いものの湯を浴びる準備をしていて、少し疲れを感じ寝台に体を預けた途端睡魔が襲って来たらしい。
部屋を明るく照らす蝋燭の蝋がそれほど減っていないことを見ると、そんなに長い時間眠っていたわけではないようだ。
……でも、随分懐かしい夢を見た。まだ、エリックとの恋が片思いだと思い込んでいた頃の。
エメセシル様もまだお転婆だった頃、でも、すでに王女としての自分の使命に目覚め始めていた時期。あんな小さい時から、一人の少女としてより王族としての生き方を良しとする考え方の片鱗を覗かせていたなんて……。まだ若輩者だった私は気付けていなかった。
姫様……本当に、統治者として国に全てを捧げる生き方が、一人の女性として誰かを愛し愛される幸せよりも尊いのでしょうか……?王族に生まれた者は、本当に個人としての幸せを追い求めてはいけないのでしょうか……?
私は心の中で思わず問いかけた。
大切な姫様に、自己犠牲的な人生を歩んで行ってほしくない……そう心底感じていた時、私の部屋のドアが遠慮がちにノックされた。