第七話
「―――姫様、今日はお疲れでしょう、お着替えお手伝い致しますね」
「ありがとう、ルーシア」
案内された、エメセシル様用の客間に入るなり私は姫様の荷物から室内用ドレスを取り出し、着替えを手伝おうと姫様の側に寄った。セイクリッドが部屋付きとして遣わせてくれた使用人ももちろんいるが、まだよく知らない人間に姫様の私物を触らせるほど私も不用心ではない。
約8年の付き合いになる私達はもう、主従の関係以上に実の姉妹のような親しさがあるので、姫様も私と二人きりになると緊張が解けたように表情を和らげた。小さくホッとため息を吐かれたのを見て、今日はずっと気を張り詰められていたのだな、と改めて伝わって来る。
……あら?この金の鎖は……。
訪問用のドレスの背中のひもを解き、さらにコルセットも外していくうちに、見慣れないネックスレスがあるのに私は気付いた。首を詰めるタイプのドレスだったので、今まで姫様がネックレスを着用されていることに気付かなかったのだ。でもたしか、昼間バザールを見て回っていた時には着けられてなかったと思うし、そもそも装飾品に拘らない姫様が、外から見えないのにわざわざ身に着けるなんて、珍しいわね……。
「姫様?こちらのネックレス……」
「……!!」
私が言葉を言い終わらない内に、エメセシル様は体をびくっと跳ねさせ、いつにない素早い動きで振り返り首元を両手で覆った。
―――!?!?!?
見る見るうちにその顔が真っ赤になって来る。顔だけでなく、着替え途中の露わになった華奢な肩まで赤みが広がっている。私は予想だにしない姫様のその反応に、目を瞬く。
「あ……こ、これは……その……」
長い付き合いなのに、姫様のこんな反応は初めて見る。なんかまるで、恋する乙女のような恥じらい方じゃない……?
「姫様……?」
私が戸惑いながら、姫様に声をかけると、口をへの字に曲げ困ったように眉尻を下げた姫様が、上目遣いに私を見る。
「……アレクス様に買って頂いたの」
そう言って、恥ずかしそうにおずおずと両手を開き中に握りしめていた、ネックレスのペンダントトップを見せた。それは、丸い透明なガラス玉の中にまた別の、角度によって何色にも見えるそれ自体がほのかに光を放つ歪な形の石が埋め込まれたものだった。チカチカと光を反射する中の石は、まるで夜空の星を閉じ込めたようだ。
「……まぁ、アレクス様が?」
「……そう、バザールで」
こくん、と小さく頷いた姫様の頬はまだうっすら赤い。か、可愛い……!!
初めて見る姫様の照れている様子に、こっちまでこそばゆい気持ちになってしまうのは仕方ないと思う。
王宮育ちの姫様は、たぶん誰かに目の前で直接何かを買ってもらったことなんて初めてなんじゃないかしら。屋台で売られていたこのネックレスは恐らく、普段姫様が晩餐会で身に着けられるような装飾品に比べたら安物になるだろう。しかし姫様にとっては自分が外出した先で、何よりアレクス様に贈られたことが特別に違いない。
アレクス殿下……意外に小粋なことをするのね、と私の中で殿下の株が上がったは認めざるを得ない。
「姫様……それは、良かったですね。でも、私にまで内緒にされなくても」
「そ、それは……何だかどう説明していいか分からなくて……嬉しいような、恥ずかしいような、とてもふわふわした、自分でも良く分からない気持ちなのよ」
姫様、それはきっと恋だと思います!
そう言いたいのを、私はぐっと堪えた。エリックも言うように、こういった気持ちは自分で自覚して行かないといけないものね!
「そうだったのですね。とても綺麗なネックレスですね。……ガラスの中に別の石をはめているのが珍しいデザイン」
「そうでしょう……?限られた地域でしか産出されない星の石というのですって。……まるで、昔あなたと探しに行った流れ星がここにはめ込まれているみたいじゃなくて?」
そう嬉しそうにはにかんで笑う姫様の表情も、今まで誰も引き出せたことのないものだ。エメセシル様とアレクス殿下の気持が少しずつ近付いて行っていることが、私も自分のことのように嬉しい。
着替えを済ませ、部屋内のソファで寛いでいる姫様は時々思い出したように、ネックレスの石を触れては、嬉しそうにくす、と笑っていた。私もそれを盗み見て、つい口元がほころんでしまうのを抑えられなかった。
―――翌朝、用意された朝食を済ませたエメセシル様と私は、アレクス殿下が本日は議会に出席を求められているために、姫様の相手が出来ないと言う断りの知らせを受けた。代わりに、王宮内のどこを歩いてもいいという許しを得られたので、せっかくだからアルカディアとは違う様式の庭園を見て回ろうという話になった。
アルカディアの王都と、ここセイクリッドの王都は馬車で5日の距離ということからも気候はそう変わらない。どちらも比較的温暖で、過ごしやすい。しかし、アルカディアと違うのはより交易が盛んな上に複数の文化が融合しているセイクリッドでは、植えられている植物も多種多様で初めて見るものばかりだった。
また品種改良も進んでいるらしくアルカディアにもある花であっても、見たことのない色や形をしているものが私達を楽しませてくれる。
来て早々、予想外の展開ばかりで本来の目的も果たせていない私達だが、思いがけない小休止は姫様の精神的な休息には良かったかもしれない。
……そういえば、昨日解散してからエリックの姿を見てないわ。まぁ、アレクス殿下に連れ回されているか、何かしているのでしょう。彼については、案外器用な人なので心配することもない。
そんな風に私が考えていたところ、エメセシル様のはっと息を呑む音が聞こえた。
「……メルヴィナ様……」
姫様の小さな呟きに促されるように、私は庭園の奥に目線を向けた。そこには噴水のさらに向こうに、小さな東屋が建っており、そのベンチに物憂げな様子で一人の女性が腰掛け虚空を見つめていた。
私と姫様は、目配せをしあい邪魔をしてはいけないと進行方向を変えようとした、が、その前にメルヴィナ様が立ち上がった。
「……そこにいるのは、エメセシル様とルーシアではなくて?そんなところで何をしていらっしゃるの?」
声を掛けられ無視するわけにもいかず、仕方なくエメセシル様は東屋の方に歩み寄る。
「おはようございます、メルヴィナ様。朝食後の散歩をしておりましたの。メルヴィナ様こそ、ご機嫌はいかが?」
淑女らしく、優雅に一礼した姫様にメルヴィナ様は憂いた表情を変えることなく、何か心ここにあらずといった様子で「そう」と返すだけだった。
姫様もその様子に困惑し、眉尻を下げる。しばし沈黙が満ちた。
「あ、あの、メルヴィナ様?お邪魔して申し訳ありませんでした。私達はもう行きますから……」
「……ねぇ、あなたはマティアスのことどうお思いになる?」
「……え?」
遠慮がちにお暇を申し出た姫様の声を遮るように、唐突にメルヴィナ様の言葉が重ねられた。……こういうとこ、アレクス殿下とそっくりね。昨日の王妃様といい、セイクリッドの国民性なのかしら?
質問の意図が分からず、困惑を深める姫様にメルヴィナ様は苛々した口調で続けた。
「……昨日あなたも会ったでしょう。私の夫のことよ。彼には本当に失望したわ。何事も受け身で、人の意見に流されてばかり。彼はただ王位を継ぐことに、怖気づいているだけだわ。本当に、情けない」
「……まぁ、メルヴィナ様……。マティアス殿下のことが、心配なのですね?」
「ち、違うわ!あんな軟弱な男が自分の夫かと思うと、恥ずかしくて耐えられないのよ!なんでもっとアレクスのように、毅然と男らしくいられないのかしら。決断力に欠けるし、頼りないし……アレクスだったら、私にこんな惨めな思いはさせないわ。いつも迷いなく、必要な答えをくれるもの」
エメセシル様の言葉にメルヴィナ様は驚いたようで、非常に強い口調で否定した。アレクス殿下と比べるようなメルヴィナ様の言葉に、エメセシル様はどう返すべきかと困ったように胸の前で手を組み合わせた。
「それに比べてあの男は、初めて会った時から、何に対しても自信がないのよ!いつも後ろ向きで卑屈で、全く私の言葉にも耳を貸さなくて!どうして何でも最初から逃げ腰になってしまうのかしら!それはたしかに、4年前までは王宮の外で暮らして来て、政治なんて無縁に過ごして来たのでしょうし、いきなり降りかかって来た地位に驚くのも分かるわ。でも、自分勝手に自分は相応しくないなんて判断すべきではないのよ!それに、私のことだって……」
だんだんさらに興奮して、語気の荒くなるメルヴィナ様の話をエメセシル様は心配するように真剣な表情で聞き入っている。メルヴィナ様は自分の中の激しい感情を持て余すように、苦しそうに胸に手を当てた。
「もう結婚して3年は経つのに子供がいないことを周囲が揶揄していることも、私がそれでどれだけ肩身が狭い思いをしているかも、考えもしないのよ。子供が出来ないのは当然よ!だって私達、一度もそういった行為に及んでいないもの、結婚当初から寝室が別々なことも、この王宮にいる人間なら下働きの者でさえ知っているわ!彼は王太子妃である私を無視することでも、王位を継ぎたくないと意思表示しているんだわ!!」
メルヴィナ様の言葉や表情から、彼女がどれだけマティアス殿下との関係に苦悩しているかが痛い程伝わって来た。メルヴィナ様がマティアス殿下を男性として愛しているのかは、私には分からない。でも、幼い頃から王太子妃になるべく育てられ、その責務を叩き込まれて来たメルヴィナ様にとって、世継ぎを設けるということは最大の使命になる。それなのに長年その結果が出せないどころか、そもそもその努力すら拒否されており、それが周囲に知れ渡っているというのはとても辛い状況だと私も想像できる。だからと言って、若い女性の身で、信頼関係を築けていない夫にその行為を迫るなんてことも容易いことではない。
彼女の立場を考えると、自分は本当に気楽な立場だなと思う。私もエリックも家督を継ぐ必要がないために、必ずしも子供を設けないといけないことはない。もちろん私も将来的には、彼との間に子供が欲しいと思っているけれど、それが自分の使命だとか周囲の期待に応えないといけないとか別の要素が加わって来たら、心境も変化するに違いない。
頬が紅潮し、紅い瞳が潤んだメルヴィナ様にエメセシル様がそっと気遣うように、寄り添った。
「……メルヴィナ様。心中お察し致しますわ。……でも、ほんの少しだけ私、マティアス殿下のお気持ちが想像出来る気が致します」
「……え?」
エメセシル様の言葉に驚いて、メルヴィナ様は弾かれたようにその紅を姫様に向けた。
「……3年前、私の兄、ユリウスが病で亡くなる前までは、私は自分が王位を継ぐ可能性なんて、万に一つも考えたことありませんでしたわ。自分の国のことなのに、内政のことも、他国との繋がりについても、自国の歴史の事でさえ積極的に学ぼうということはありませんでした。優秀な兄に全て任せておけば大丈夫、と自分の将来の嫁ぎ先についても兄任せにしておりました、なのに……」
そこで、姫様は言葉を一度切った。緊張したように、そのエメラルドグリーンの瞳が揺れ、睫毛が伏せられられると同時に深いため息が漏れた。
「……愛する兄が亡くなり、突然、そのアルカディアの全てが将来自分に降りかかって来るのだと知った時、恐怖し、立ち竦みました。こんな、小さな自分に何が出来るのだろう、と何度も自問自答しました。国の頂点に立つ人間の誤った判断一つで、国民の生活を大きく脅かしてしまう、その事実の重さに、眠れぬ日々を過ごしました。生前に兄が、友人であったアレクス殿下に私を励まして下さるように頼んでくれていなければ、どこかで私は重圧に潰れてしまっていたかもしれません。それほど、アレクス殿下との文のやりとりが私にとって大きな支えでした。そして、私が将来背負わなければいけない責任を殿下が分け合って下さると言って下さった時、どれほど、心強かったかしれません。……マティアス殿下も、同じなのかもしれません。支えて下さる存在を知ることが出来れば、お変わりになるかもしれませんわ」
……知らなかった。
姫様があの頃、そんな風に悩みを抱えておられたなんて。ううん、愛する兄君が亡くなられ、心底悲しまれていたことも、将来王位を継がないといけなくなったことに戸惑っておられたことも、もちろん知っていた。でも、私やエリック、周囲で仕えている者達の前では姫様は王位を継ぐことへ非常に前向きに捉えられていて、不安や心細さを表に出すどころかそれまでの遅れを取り戻すように勉学に励まれ、時に父王陛下を励ますことさえあった。あの頃に、私達の目の前で姫様が涙を見せられたのなんて、ユリウス殿下が亡くなったその日と、アルカディアの歴代の王族方の姿を見て過去を回想した日の2回だけだった。
きっと、不安な気持ちを胸に秘めたままでおられたのだ。私達が、アルカディアの人間だから。為政者として、たとえそれが自分の臣下であり近衛騎士であっても、導いて行くべき国民を不安にさせてはいけないとお考えになったのだろう。思えばあの頃を境に、姫様はぐっとご自分の感情を抑えるようになってしまわれた。一人の少女としてより、将来の女王として何事も考えるようになってしまわれたのだ。その姫様が、
唯一弱音を吐けたのが、外国人であり、ユリウス様のご友人のアレクス殿下であったに違いない。
……誰よりも近くで仕えて来たのに。臣下としても親友としても不甲斐ない思い、アレクス殿下とエメセシル様の間に築かれた信頼関係を嬉しく思う気持ちと、少し嫉妬してしまう気持ちとがないまぜになり、私の中で複雑に交差する。ああ、でもそうか、私が思っていた以上に、エメセシル様にとってアレクス殿下は特別な存在になっていたんだ。
ふと見ると、メルヴィナ様も悲しそうな、苛立っているような、何とも形容しがたい複雑な表情で紅い瞳を揺らしていた。
「……私が、あなたのように優しくいられたら良かったのかしら……。どこで間違ったのか、どう彼に接していれば良かったのか、分からないわ。あなたのように出来ていたら、私は彼を失うことはなかったの?今となっては、もう、手遅れなの……?」
独白のように、かろうじて聞き取れるくらいの音量で、熱に浮かされたような声音でメルヴィナ様は呟いた。メルヴィナ様の言葉に出て来た『彼』が、アレクス殿下を指すのか、マティアス殿下を指すのかは分からない。
「メルヴィナ様……?」
「……あなたが羨ましいわ。私が得られなかったものを、持っているのね」
「それは、一体、なんのことを……」
僅かに、エメセシル様の声が震える。気付くと、姫様の手は首元に添えられていた。あの、アレクス殿下に贈られたと言うネックスレスに。
その時―――。
遠くにメルヴィナ様を呼ぶ複数の声が聞こえた。はっとしたように、メルヴィナ様は目線を周囲に巡らし、はぁと小さくため息を吐いた。
「……私の侍女だわ。勝手に部屋を一人で抜け出したことがばれてしまったようね」
「あ、あの……」
「エメセシル様、ごめんなさい。これで失礼するわ、明日の歓迎会でもし時間があればまたお話ししましょう」
エメセシル様の戸惑った声を遮るように、メルヴィナ様は早口に言った。
「歓迎会?」
「ご存じないの?明日、宰相殿主宰で小規模だけどあなたを歓迎する宴を催すようよ。私もマティアスも参加するから、またその時に会いましょう」
「え?メ、メルヴィナ様……!」
一方的に断片的な情報だけを残したまま、慌てたようにメルヴィナ様は自分を呼ぶ声のする方に歩き出してしまった。
私と姫様はそれをぽかん、とした様子で見つめるだけだった。