第三話
エリックと後から会う約束をして彼にやっと納得してもらうと、私は出立の準備をすべく奥宮の自室へと足を進めた。アルカディアの王宮に勤める者は、24時間職務に当たれるように王宮内の宿舎に部屋を与えられる。基本的には同僚との相部屋になるが、一定以上の職位だったり、生家の身分によっては一人部屋になることもある。私やエリックのように。
長期休暇で自分達の屋敷に帰っていた私達だけども、業務に必要なものや生活に最低限必要なものは王宮内にある各々の自室に残してある。それゆえに、大事があれば今すぐにでも任務に当たれるのである。
自分達の身の回りを世話してくれる侍女は屋敷に滞在させたままだけど、騎士としての訓練を受けている私達は大抵のことは一人で出来るから何の問題もない。
自室に戻り、久しぶりに主を迎えた部屋の窓を開け、換気をする。そして遠征に必要な荷物を手早く準備して行く。今回は以前のクーデターの際のノルズ城砦への逃避行とは訳が違う。誰に命を狙われるということもないので、そういった意味では、気持ちも楽である。
ただ、順調に信頼関係を築かれていたアレクス王子の過去のやんちゃな女性関係を知ったエメセシル様の心情を思うと、一度治まっていた感情もまた波立ち始める。
そもそも、あの王太子妃メルヴィナ様は何でまた伝令を配下の騎士に任さず、自らアルカディアまで足を運んでこられたのだろう……!しかも、過去にアレクス王子と恋愛関係にあったことを初対面にも関わらず、現婚約者であるエメセシル様にあけすけに語ってしまうこと自体、悪意を感じざるを得ない……!
そんなことを考えながら、少し乱暴な手つきで荷造りを進めていたところ、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。
「ルーシア様?こちらにいらっしゃいますの?」
この声は……、エメセシル様の侍女エレナだわ!
「エレナ!……久しぶりね、ええ、部屋にいるわ、入ってらっしゃい」
私が呼びかけると、少し間をおいて扉が開かれ、いかにも礼儀正しい品の良い女性が入って来る。エレナは目立つような華やかさはないが、慎ましくしとやかな大人の美しさの持ち主だ。
実はエレナはクーデターの時に反国王派の間者だと疑われていた人物だった。しかしその後、実際は反国王派を警戒していたゲオルグ閣下がエメセシル様の身辺の警護のために遣わしていた連絡役だったと、あとから判明する。……まぁ、そのことにも色々問題はあったのだけれど、彼女自身に姫様に害をなすつもりもなく有能であることには違いないので、姫様のご厚意もありそのまま姫様付きの侍女の一人として仕えているのである。クーデターが収束した直後こそ、少しぎくしゃくしていた私達だけれども、今はそんなことも忘れ以前のような親しさが戻っていた。
部屋に入って来たエレナは私の前に広がっている荷物を見て、驚いたように口元に手を当てた。
「まぁ、もう旅立ちの準備をされていたんですのね」
「ええ、出立するとしたら明日中には王都を出るでしょうから、今から荷造りをしておかないとね」
なるほど、とエレナは真面目な様子で頷くと先ほどエメセシル様が国王陛下の私室から戻って来られたらしいこと、そして私の予想通り明日の午後には出発するつもりで旅の用意をエレナや他の侍女らに依頼をしたということを私に告げた。
「荷物の準備は私どもに任せて頂いて問題ないのですけど、どうにも姫様のご気分が優れないようで心配で……。部屋に戻られてから、何度もため息を吐かれていて、でもお話を伺おうとしても、大丈夫だからと口を閉ざされてしまうんですのよ。それで、誰よりも身近なルーシア様になら心を開いて悩みを打ち明けられるのじゃないかと思いまして」
「……そうだったの。エレナ、教えてくれてありがとう。私も姫様を心配していたのよ。今からお話を窺って来るから、引き続き姫様の旅立ちの準備をお願い」
私がそう依頼をすると、エレナはもちろんですわ、とふわりと微笑んだ。
―――私が一旦準備を止めエメセシル様の私室を訪ねると、姫様は出窓の側で椅子に腰かけられ、物憂げな様子で外の庭園を眺められていた。
元々物語に出て来る妖精のような浮世離れした美しさをお持ちの姫様だけれども、成長と共にその可憐さ、艶やかさは磨きがかかり同性の私でさえも思わず息を呑むほどだ。
セイクリッドの王太子妃殿下も、目も眩むような美女だったけれど私の主に叶う人はこの世にいないと、胸を張って言える。こんな、いたいけな姫様を悲しませるなんて……!と改めてアレクス殿下への怒りが湧いて出て来るようだ。
「姫様……」
「あ……、ルーシア。来ていたのね」
また一つ、ふう、とため息を吐かれた姫様に遠慮がちに声をかけると、ぼんやりした様子で姫様は私に顔を向けられた。
「お父様の許可も頂いて、明日の午後に、セイクリッドに向かうことになったわ」
「ええ……エレナから聞いております」
「……休暇中なのに申し訳ないのだけれど、やっぱりルーシアがいると心強いわ。……付いて来てもらえるかしら?」
「姫様……水臭いことを仰らないで下さい!もちろん私は姫様の行かれるところにはどこへだってお供致します!」
私は姫様に駆け寄ると片膝を着いてその小さな手を取った。すると姫様はふっと花がほころぶように微笑んだ。
「ありがとう……本当は、途方に暮れていたの。アレクス様とどんな顔をしてセイクリッドまでの道のりを過ごしていけばいいのか、分からなくて。セイクリッドに着いても、勝手も何も分からないし、心細くて……」
「まぁ……姫様!もっと、アレクス様に対して腹を立てても良いんですよ!礼を失しているのは、アレクス殿下であり、メルヴィナ様なんですから!」
私が強い口調で言うと、エメセシル様は困ったように眉を下げた。
「……本当に、どうしたら良いのか分からないのよ。さっきは混乱して思わず泣いてしまったけれど、そもそも私とアレクス様は恋愛関係にある訳でもないし。国同士の契約による結婚だもの、本来私達の個人的な感情なんてどうでも良いことだわ。ましてや、私達が出逢う前の殿下の女性関係について、とやかく言えるはずもないのだし……」
「……姫様」
姫様の少し悲しそうな物言いに、私自身気持が落ち込んで来る。しかし、姫様の仰ることも痛い程理解出来た。
実は以前、私がまだエリックと婚約関係にあった時に、私は彼が姫様を好きなのだと勘違いをしていて、そのことを承知の上自分の本当の気持ちを隠して結婚しようと考えていた時期があった。当時私達の婚約が家同士が決めた政略結婚だったと思い込んでいた私は、それでも初恋のエリックの正妻の地位が得られるなら彼の愛情が自分に向けられていなくても構わない、と思うように自分に言い聞かせていたのである。
今思うと、何でそれでいいと思ってしまっていたのか、自分でもはなはだ疑問である。こんなにも深く愛されている幸せを知った今では、私はとても欲張りになってしまって、彼の気持が他の女性に向けられるなんて、絶対に耐えられない。
姫様の場合は、それが恋愛感情によるものではなく使命感によるものなのかもしれないけれど、相手の気持ちが自分だけに向けられていないと知りつつ、配偶者として寄り添うと言うのは頭で考える以上に過酷なことだ。
ましてやエリック以上に、繊細な乙女心に疎い、そもそもが何を考えているのか読めないアレクス殿下である。姫様のこれからを思うと同情を禁じ得ない。
「でも、アレクス様が育ってこられた国を訪れて、あの方の親しい方達にお会いするのは、お互いを良く知るための良い機会だと思っているわ。今後何十年も共に過ごす方ですもの、どこまでお互いの考え方や価値観を擦り合わせて行けるかは分からないけれど、出来る限りの努力はしたいと思っているの」
「ひ、姫様……!」
もう、姫様のいじらしさに私の方が泣けてくる。
アレクス様、今後姫様を泣かすようなことがあったら、誰が許しても私が許しませんからね!
私は人知れず拳を固く握りしめた。
―――その夜、アレクス殿下の私室から退出したエリックがセイクリッドまでの道のりが描かれた地図を携えて、奥宮内の私の部屋に訪ねて来た。
驚いたことに、エリック自身がアレクス殿下に直接随行の騎士に指名されたとのことだった。
私自身はエメセシル様に同行することを決めていたから良いのだけど、エリックまで休日を返上する羽目になってしまったことに、少し申し訳なく感じる。と同時に、かつての同僚であり、私生活においてもなくてはならない存在である彼は、私にとって誰よりも信頼を置ける頼もしい相棒であるために、彼と久しぶりに同じ任務に当たれることに嬉しさを隠せないのもまた事実だった。
「……国境にあるノルズ城砦までの道のりが、早くて3日だろ?そのあとセイクリッドの王都までが、直線距離で2日か……」
「……意外に近いのね」
彼が机に広げた地図を指し示しながら、私に説明する。昔から地図を読むことが苦手な私は、彼が行程を考えてくれるのは本当に心強い。
なるほど、と頷いているとエリックはチョークでさらに地図に情報を付け加えて行く。どうやら休憩箇所を定めているようだ。
「まぁ、馬車でなければほんとはもっと早く着けるだろうけどな。アレクス様や俺達はともかく、エメセシル様がいるからそこまでの強行軍をするわけにはいかない」
「1年前のクーデターの時とは違うものね」
そう私が言うと、エリックは「そうだな……」と頷きながら、とても真剣なまなざしをして思案するように顎に片手をやる。
当時のことを思い出しているのかな、とその表情を見ながら私も思いを巡らした。
1年前のクーデターで反国王派の一派が国王陛下を軟禁し王宮を占拠した時、国王陛下御自身の機転により私達はそれよりも以前にエメセシル様を王宮から連れ出すことに成功していたのだけれど、執拗に襲って来た反国王派の追手に私達の仲間の騎士の一人が命を落とし、私も怪我を負ったためエリックにエメセシル様を託し一人危険な場所に残る決断をする事態に陥った。予想通り別の敵襲に遭い、誇りを汚されそうになった私はあと少しで自ら命を絶つ、というところまで追い込まれていたのだけれど、エメセシル様を安全な場所まで送り届けたエリックが、疲労困憊の体を押して私の元まで引き返してくれて、危機を救ってくれたのだ。私が自ら招いた身の危険であったにも関わらず、彼は文字通り命を懸けて私を守ってくれた。そしてその時に、彼がどれだけ私を大切に想ってくれていたかも思い知ったのだ。
内容が内容だけに、決して良い思い出だとは言い切れないけれど、あの時に彼が示してくれた深い愛情を知った時の喜び、力強い腕に包まれた時の安心感は決して忘れることはないだろう。
……お互いに少し感傷に浸っていたみたい。あの時の一人取り残された時の心細さが顔に表れていたのだろうか、エリックは淡く微笑むと安心させるように私の頬に手を添えてくれた。その温かさにじんわりと心が解きほぐされるようで、私もつられて微笑んだ。
「……大丈夫だよ。今回の旅は誰に追われている訳でもない、道中にトラブルに見舞われることはないだろう」
「そうよね……」
エリックの優しさに、つい仕事のことを忘れて温かさに浸りかけてしまう自分を戒めるように、私は顔を引き締める。
「それよりも、セイクリッドに着いてからの方がきっと大変だわ。王太子妃であるメルヴィナ様とアレクス様の会話の様子じゃ、王太子殿下の地位についてセイクリッドの議員達の間で論争があるみたいだし」
「論争?」
私の言葉に、初耳、というようにエリックは眉をひそめた。
「ええ。その時の会話では詳しくは分からなかったのだけど、議員の一部にはアレクス殿下の兄君の第一王子よりアレクス殿下を次期国王にと推す動きがあるようね。その上、現王太子妃であるメルヴィナ様と再縁組させたがっているらしいわ」
「それは気になる話だな……」
私の説明に、エリックは再び思案するように腕を組み、顎に指をやる。その知的な仕草は私が特に好きな彼の姿の一つだけれど、不純なことを考えている場合じゃないと、ときめいてしまう胸を無理やり落ち着ける。
「……とにかく、今回の俺達の任務はセイクリッドまでのお二人の警護と身の回りの世話だ。お前がエメセシル様に肩入れをする気持ちも分からなくはないが、必要以上に口出しするなよ?」
しばらく何かを考え込んでいたらしいエリックだけれど、突然思い出したように私に少し強い口調で告げた。さっき問題を整理しようと話していた通り、アレクス殿下にも謁見して彼は彼なりに事態の分析をしたのだろう。感覚で考えがちな私に比べて、常に物事を広い視野で見ている彼の判断が間違うことは少ない、それは分かっているのだけど、何だか小さい子供のような扱いをされて面白くない。
「……でも、姫様の心の平安を守るのも騎士の務めだわ」
思わず言い返すと、少し呆れたような色がその青灰の瞳に浮かんだ。
「ルーシア。男女の関係のことは当人同士にしか分からないことがあるのは、君だって分かっているだろう?ましてや、アレクス殿下とエメセシル様は一般の若い恋人同士とは訳が違う。お二人の結婚は国同士の契約でもあるんだ。俺達はただの騎士、それ以上に踏み込んではいけないんだ」
「……分かったわよ」
論理的に諭されて、結局私は言いくるめられる。
それにアレクス殿下との会話でエリック自身何か思いあたるところもあるようで、あえて様子を見ているようでもあった。
―――その後、私達は積み荷の内容最終確認や出立時間を決めて、二人だけのミーティングを終えた。
そのやりとりに、何となくエリックが近衛騎士隊にいた頃のような既視感を覚えていると、彼も少し感傷に浸るような顔をしている、―――と思うと、何を思ったのか私の腰に手を回して来た。
「……エリック?打ち合わせはもう終わったのだから、自分の部屋に帰ってくれる?私も明日に備えて寝たいから」
私はにっこりと笑いながら、怪しい動きをするその手の甲を、思い切り抓り上げた。
「……ルーシア、俺の部屋は右宮にあるんだけど」
私に抓られた手を引っ込めながら、不服そうな目線を向けて来る彼を、私はためらいもなく黙殺した。ちょっとさっきの反発心も残っていたかもしれない。
彼の私室のある右宮に隣接した王国軍の宿舎は、ここから徒歩で20分くらいの位置にある。遠いから、このまま私の部屋でなし崩し的に寝てしまおうと思っているのでしょうけど、そんなに甘くはないわよ。
「そうね、……それが何か?」
「……いえ、何でもありません」
有無を言わさぬ口調で私が張り付けた笑顔に力を込めると、観念した様子のエリックがこちらが一瞬怯んでしまうくらい、あからさまに落ち込んだ。
そ、そこまでガッカリしなくてもいいのに……!
……仕方ないな。ほんの少しだけ申し訳ない気持ちも芽生えて来て、私は一つ小さくため息をつく。そして、彼の首に両腕を回し少し踵を上げる。
「私の愛する旦那様?誰よりも格好いい騎士でいてね?」
彼の唇に自分のを軽く触れ合わせると、びっくりしている青灰の瞳を覗き込む。……やだ、そんなに嬉しそうな顔しないで、つられるでしょ。
私は少しだけ澄ました顔で、自分からキスしたのに不覚にもときめいているのを誤魔化す。でもその後の彼の満面の笑顔には、さらに隠す労力が必要だった。
「……承知しました、俺の最愛の奥様」
……これだもの。