ツイッター文学
ツイッターをぼんやりと見ていると、自分のフォロワーだけでも膨大な情報量を吐き出している事がわかる。そこには色々なものがある。イラストレーターは自分のイラストを紹介し、小説を書いている人は小説を紹介し、愚痴であったり、時事ニュースであったり、誰かの心に刺さった引用であったり…。実に巨大な量の情報が流れていっている。
僕はそれを見ていて、ヘーゲルの「承認を巡る闘争」を思い出した。ここではそれぞれが、認知し、認知し合う混沌として成立している。これは、現実世界においても、ネットにおいても同じ事で人々は他人を認知するが、それ以上に、認知される事を念頭に置きたがっているように見える(僕も含めて)…。
だから、認知される為のどんな過激な行為もほとんど許されるのであり、どう考えても馬鹿げた行為、馬鹿げた事柄だとしてもそこに無数の認知が発生されればよしとされ、力と金も寄ってくる。人々はこの混沌の中で、互いの力を賭けて承認の闘争を行っている。どこに行っても…。
世界はある種の方向に行こうとしているのだろうか。誰しもが正論を言う事が可能なのは、誰しもが同じ船に乗っているからではないか。僕は不安になる。
そして、僕の不安もまた、承認闘争の中の一事物となっていくのだろう。それもまた「正論」になったり、「異論」になったりするのだろうか。僕は不安だ…。不安になる事に不安だ。
もう誰の声も聞きたくない。ノートパソコンの蓋を閉じる。パタリ。無数の声は止んだ。僕自身の声も。
声を失った歌姫は何を歌えばいいのか? …答え、何も。もう声帯をもがれてしまったんだよ。もう歌う事はできないんだよ。
空を見上げると、立派な月が出ていた。「天、何をか言うや。四時行われ、百物生ず」 孔子の嘆きの声が聞こえてくるようだ……。
ああ、僕は考えた。孔子の事、自分の事、黙している天の事を…。
で、僕がやったのは次のような事だ。ノートパソコンの蓋を開いて、ツイッターを開け、「孔子の嘆きが聞こえる…」と呟いた。その呟きは誰もいない電脳空間に虚無の欠片として拡散された。




