4 我が兄、脳筋
戦いの場はすぐにわかった。
村人達が逃げていくのに逆らって、森の方へ走れば、すぐにその巨体が目に入ったからだ。
なぎ倒された木々の中心に居た凶悪な魔猪は、直立する樹木に匹敵する巨体を誇っていた。
全身暗色の剛毛に覆われ、魔獣の証である、不気味に赤く発光する筋が走っている。
ぎらつく瞳もよどんだ赤。
2本の牙は太く鋭く天をつくようにのび、強靱な四肢を踏み出すたびに大地が揺れた。
倒れる木々は、十中八九この魔猪がなぎ倒したものだろう。その理不尽までの暴力が容易に想像できる。
全身から発散される、よどんだマナを感じるだけでひるみかねない威容を誇っていた。
事実すでに近くにいた、この村の狩人らしい男達は弓に矢をつがえたまま硬直している。
ただ、固まっている理由は別のところにあるようだ。
いま、魔猪は、目前にある村なんて見向きもせずに、たった一人の小さな人影を追い回していた。
けれどその小さな人間は、大型トラック並みの突進もひるんだ様子もなく、ごく気楽に身を翻してよけると、いかにも無造作に腕を振りかぶる。
胴体にたたきつけられた瞬間、衝撃音が響いて、魔猪の体が浮き、地面に転がったのだ。
魔猪の怒りの咆哮に混じって、軽やかな笑い声が聞こえた。
「ははははっ! こりゃあでっけえイノシシじゃあ! 殴りがいがあるじゃねえか!」
要するに、ヤスが魔猪を嬉々として素手で殴り飛ばしていた。
金色の束ね髪が動くたびにひるがえり、要素だけ見ればラノベのヒーローそのまんまで、かっこいいはずなのだが、顔が完全に好戦的なやくざで台無しである。
なんて考えながら、太い木の枝の一つで立ち止まると、耐えかねたように狩人エルフの一人が絶叫した。
「なんで、なんで、ただの拳があんなに効くんだよ!? 俺たちの矢なんて一本も刺さらないのに!」
無理もない。エルフの戦法は待ち伏せからの細密な弓の掃射だ。
精霊の加護を纏わせた矢の狙いはほぼ必中とはいえ、残念ながら魔猪の剛毛とスタミナとは相性が悪い。
唯一露出している目を狙おうにも、あれだけ動き回っていれば厳しい上、突進してこられればひとたまりもない。
ちらりと見れば、何人かが地面にうめきながら横たわっていることから、そのすさまじい突進の威力をその身に嫌と言うほど実感したのだろう。
だからこそ、たった一人で魔猪を翻弄し、拳一つでダメージを与えているヤスが信じられないのだ。
あ、訂正。いまやくざキックで魔猪を転ばせたわ。
「一応ただの拳じゃないんですよ。ヤスは体内のマナを常時、身体強化に使っているんで」
聞こえていたらしいエルフの狩人達が、全員あんぐりと口を開けた。
無理もない。魔法を使うのに必要なマナは体内と空気中両方にあり、エルフは体内から放出できるわずかなマナを触媒に、空気中のマナを纏うことで、強弓を引く。
それを行使するのもかなり体に負担がかかるので、使うのは引くときの一瞬だけだ。
そもそも体内のマナは、ほぼ生命維持活動に使われていて、9割以上制限がかかっているから、使えたもんじゃない。
だというのに、ヤスは、魔法なんてこれっぽっちもわかってないのに体内のマナを独自に練り上げて、四肢の運動能力を強化しているのだ。
エルフなのにむっきむきになっているのはそれが理由で、おかげさまで忍者も真っ青な立体機動と、腕力を手に入れているのだが。
「できるわけがない! そんなことをしたらあっという間にマナが枯渇して死ぬぞ!?」
「わかります、その気持ちめっちゃわかります。けど、それがヤスなんです。なにせ、あの人、エルフ百人分くらい体内マナがあるんで」
今度こそ、狩人達はあんぐりと口を開けて、美貌を台無しにした。
体内マナが9割以上制限されている理由は、生命維持に使われているからで、超過すればたちまち死に至る。
エルフが体内マナだけで打てる魔法は一発か二発が限度。
魔道士として大成できるかは、この体内マナの容量にかかっているのだが。
なのに、魔法も使わないのにヤスにはエルフ約百人分の容量があるらしいのだ。
つまり無駄遣いし放題!で、ばかすか魔法が使える量のマナをぜんぶ身体強化に使っているんだよこの脳筋!
ちなみに、どうやって計ったかというと、拳一発がだいたい魔法一発分だったから、マナで強化した拳を何発使えるかで計測した。
そうしたら的として使った樹齢1000年くらいの古木が百発ぐらいで粉々になってね……。
ヤスはまだ余力があったから、正確には百人以上ってことになるわけで、魔道士を志していた私は血涙を流したよ!
それはともかく、ヤスは独自の脳筋……けふん筋肉魔法というべきものを確立し、魔獣にすらカチコミをかけることができるようになったのだった。
エルフ達が絶句している間に、私がきていることに気づいたヤスがこちらをむいてにっかり笑った。
「おうきたかキヨ。ならいつものやつたのんまぁ!」
「はいはい」
ああなったヤスは止まらないし、ヤスの背中を守るのは、今は私の役目だ。
「希代子」である私が死ぬ前に願ったのは、せめて、この馬鹿な父親兼兄を助けられるようになりたい、だったのだから。
私は杖を構えて、周囲のマナを介して精霊達に呼びかけた。
『同胞たる精霊に希う 風よ 我が願いに応えたまえ』
すると、未だに近くにいてくれた精霊達がヤスの周囲を取り巻き、空中へといざなう。
それは、ヤスの意思に従う風のベールだ。
どこでも自在に特攻をしかけられるように。
怒りに目がくらんだ魔猪が、こちらへ突進してきた。
エルフ達が恐怖に顔を引きつらせて逃げていく中、ヤスだけは魔猪に向けて走って行く。
目障りだった小さな人が眼前に現れたのに、魔猪がますます興奮してトップスピードに乗った。
あれほどの速度でぶつかれば、ただの人なんてひき肉だし、そうじゃなくともあの牙に引っ掛けられただけで命が飛ぶ。
だというのに、ヤスはますますどう猛に歯をむき出しにして笑う。
どころか、一足飛びに距離を詰めて、マナの粒子を引き連れた拳を振りかぶった。
「これで仕舞いだァッ!!」
魔猪とヤスがぶつかり合った瞬間、すさまじい衝撃音と余波があたりに広がった。
だが競り負けたのは魔猪の方で、巨体は見事に吹っ飛び、先にあった樹木を何本もなぎ倒していく。
もうもうと立ちこめていた土煙が収まると、そこには頭蓋を陥没させた魔猪が事切れていた。
私が木の一つから降りて駆け寄れば、退避していたエルフ達も一緒についてくる。
「がははは、ええ相手だったな!」
金の髪をなびかせるヤスは、けろっとした顔で、倒れた魔猪の上に立っていた。
「ヤス、怪我は」
「んなもんねえよ。よし、キヨ、今夜は猪鍋だぞ! これだけでかけりゃ食いでがあらあな」
あの魔猪を倒したというのに、一切の気負いもないヤスがにっかりと笑えば、だんだんとエルフのお兄さん達の表情がきらきら輝きだした。
まるで恋するような眼差しに、私はああまたかという気分で眺める。
エルフは一生を森の中で過ごす。
外部からの来訪者なんてほぼなく、和を尊ぶ種族的な性質上喧嘩もほとんど起きない。
性差も希薄で、ある種純粋培養のお坊ちゃま気質なのである。
そんな若いエルフが、いきなり野性的なかっこよさを振りまくイケメンが現れて、殴り合いで華麗に勝つシーンを見せつけられたらどうなるか。
ちょっと悪っぽいものにあこがれてしまうのもしょうがないと思うのだ。
……まあ、悪い方向に走らないことを願おう。
それに、まだ終わってないから、うつつを抜かしてもらっちゃ困るのだ。
というわけで、私は杖を取り出すと、魔法を使って衝撃音を生み出す。
どかんっと大砲みたいな音は、ヤスに駆け寄ろうとしていたエルフ達を正気に戻すには十分だった。
「まだ、魔猪に追い立てられた獣たちが村近くをうろついてます。今から2人編成で巡回と掃討に取りかかりますよ。ついでにそこの人! 長老に魔猪は倒したと連絡して、魔猪の解体を始めてください」
「は、はいっ!」
こういうときは、なんで小娘がといわれる前に押し切るに限る。
私が、有無を言わせず適宜人員を分けて散会を命じれば、エルフ達は最敬礼で四方へ走って行った。
素直で助かった、と思っていると、ぐしゃりと乱暴に頭をなでられた。
「大の男をしたがえるたあ、さっすがわしの妹だの!」
「別に、たいしたことじゃないし。たぶんまだ終わってないし」
「あん?」
不思議そうにするヤスに、私が説明しようとしたとき、村の方から長老さんや例の人間の行商人やらが走ってくるのが見えた。
家の残骸の上に横たわる魔猪を見るなり、長老がその場にへたり込んだのは、村を捨てずにすんで心の底から安堵したからだろう。
後ろにいる人間の行商人もあんぐりと口を開けて、魔猪とヤスを交互に見ていた。
その姿は驚きに満ちていて、魔猪が倒されたという事実を受け入れられないように思えたけど。
ちらりと、傍らを見上げてみれば明白だった。
「臭えな」
行商人を見つめたヤスが唇の端をつり上げ、やくざそのものの暴力的な笑みでつぶやいたので、心は決まったけどその前に。
「ヤス、悪いけど、魔猪のお肉で猪鍋は作れないから」
「はっ!?」
「魔獣の肉は毒抜きしないと堅いしえぐいし食べられないの。今日はその用意もないから、無理だよ」
その代わりと言っては何だが、毛皮や骨、牙まで最高の加工資材になるんだけど。
「ワシの、猪鍋が……」
どう猛な表情から一変、なんとも情けない顔でがっくりと肩を落とすヤスをおいて、私は村長さんの元へと歩いて行ったのだった。