1 はじまりは父
かん、かん、かん、と、私はさび切ったアパートの階段を上がる。
端から四番目の角部屋の扉は、一応鉄製だけれども、いつか衝撃で壊れてしまうんじゃないか、と思うくらいきしみをあげて開いた。
中は八畳二間。
バストイレ別で、ちゃんとした台所のついた小さいなりにいい感じの我が家だ。
「ただいまあ」
いつもなら空の空間に吸い込まれていくだけなのだが、今日は返事があった。
「おーう、キヨ。おかえりぃ」
そんな太い声で応じてくれたのは、一言で表現するなら派手な巨漢だった。
奥の畳敷の部屋に悠々とねそべる180センチはくだらない長身に、相応の横幅がある体にはみっしりと筋肉がついている。
岩を削ったような顔立ちは、ほほに残った古傷のせいで強面度が増し、小学生はおろか気の弱い高校生くらいだったら全力でちびるだろう。
極めつけは、その背中を彩る極彩色の仁王だ。
ここまで描写すればわかるだろう。
我が父であるこの巨漢、松木泰虎は、やくざである。
関東の一角を縄張りとする、森垣組の幹部らしい。
詳しくは教えてくれないが、舎弟の人に挨拶をされることもあったからそれなりに高い地位にいるのは知っている。
ちなみに私は梅竹希代子。
名字が違うのは、父が昔の弟分であった本来の私の父親から赤子の私を引き取ったからで、つまり、血はつながっていない。
そのせいか、お父ちゃんと呼ぶと怒られるので、小さい頃から呼び方はヤスだった。
「ヤス、シャツくらい着なよ」
「こんな暑い日にシャツなんて着ちゃ、ワシの仁王がゆだっちまうだろ」
競馬中継を見ているヤスにいつもの文句を言えば、いつもの胴間声が返ってきた。
人によってはこの体に響くような声は、威圧されているように思うだろうが、物心つく頃から聞いていた私にとっては聞き慣れた声だ。
「それが仁王じゃなくて、きれいな花だったら見応えがあったんだけどねえ」
仕方ないと肩をすくめつつ、私はそれでも久方ぶりに会えたうれしさにうきうきと紺のセーラー服のままキッチンに立つ。
まあ、私の死んだ表情筋のせいで、顔はそんなに変わんないんだけど。
「ねえヤス、今日の夕飯はハンバーグにするけど、食べていく?」
ヤスとは高校を上がるのを機に離れて暮らしているから、なかなか会うことができなかった。
昔は事務所によく遊びに行ったものだけど、最近ではヤスに止められているし。
理由は重々承知しているとはいえ、3ヶ月ぶりにもなれば弾みもする。
「キヨのハンバーグは嬉しいが。おめえの飯なんだからおめえの好きなもんにすりゃあいい」
「なにいってんの。誕生日プレゼントをもらったんだから、お返しするのは当然でしょ」
呆れた声にそう返せば、重い音とともに床が揺れた。
見ればヤスは肩肘に乗せていた頭を落として、背中の仁王をつぶしていた。
その強面の顔を驚愕に固まらせている。
あー怖さが4割増しだし、やっぱり忘れていたな。
「おめえ、今日誕生日だったか!!!」
息を吹き返したとたん、隣の部屋にまで響くような声で怒鳴ったヤスは慌てて立ち上がった。
「そりゃあいけねえ、今すぐケーキ買ってくるぞ!」
「え、いいって。偶然だってのは知ってたし。夕飯いっしょに食べてくれるだけでうれしいから」
ヤスが忙しいのは元から知ってたし、なんだか組の様子が怪しいことになっていると聞いていた。
「いいわけあるか、てめえの16の誕生日は一生に一度しか来ねえんだぞ! 祝わないでどうする!? 誕生日プレゼントも買ってやらねえとなあ! 前にほしがってた柔らけえ絵の乗った本でいいか。な?」
柔らかい絵の載った本は、ライトノベルのことだろう。
倹約しているさなかにバイトの時給が飛ぶ値段の本は買いづらい、とついこぼしたことがあるが、以前に買ってきたのはがっつり18禁のエロ小説だったからやめてほしい。
……未知の世界でそこそこおもしろかったけど。
まったく、ヤスが覚えるのが苦手なことは昔っから知っているから、偶然を喜ぼうと思っていたのに。
こういう風に思い立ったらまっすぐに祝ってくれようとするところが、くすぐったいくらい嬉しい。
とはいえ。
「ケーキだけでいいから、シャツ着てシャツ! おまわりさんに捕まっちゃうよ!?」
「おうよ! 一等上等なショートケーキ買ってきてやる!」
全く聞いている風でなく、金歯になった歯をむき出しにして笑ったヤスが上等な革靴を履いて出て行くのを、私は内心うれしく思いながら送り出したのだった。
ヤスは自分をクズだと言ってはばからない。
それはそうだろう。今時珍しいくらい昔気質のヤクザらしいけど、私だって高一にもなれば、ヤスが何をしてお金を稼いでるかぐらいよくわかる。
「仁王のヤス」とか呼ばれて舎弟からはずいぶん慕われているようだけど、深く考えるのは苦手ですぐ暴力に訴えようとするし、声もでかいし、言うのも何だが馬鹿だ。
それでも「兄弟の忘れ形見だから」というたかがそれだけの理由で、母親にも捨てられた私を育ててくれた大事なお父さんだった。
だから私は幸せ者だ。
なんて言ったって、久しぶりに会えただけじゃなく、一緒にご飯を食べてケーキを買ってくれるお父さんがいるんだから。
ふんふんと、柄にもない鼻歌を歌いつつ、ハンバーグを焼いていれば、ピンポーンと家のベルが鳴らされる音がした。
浮かれていたせいで、いつもの注意を怠ったことを、私は一生後悔する。
のんきに声を開けて、ドアを開けた瞬間、どんっと体に衝撃が走った。
おなかが熱い。
一歩二歩と揺らめいて、目の前の妙にすさんだ顔つきの男が奇妙に顔を引きつらせた、瞬間視界から消えた。
殴られて飛んでいったのだ、と気づいたときには、出かけてきたときと変わり果てた姿のヤスがいた。
腕と太ももと、胸とあらゆるところから血を流していてもなお、その眼力も衰えないヤスは、確かに仁王だ。
けれど、限界を超えていることは一目でわかった。
「キヨ、すまねえ。叔父貴がワシを邪魔に思ってんのは知ってたんだが。仁義、なんてもんは古いってよ、ドスにチャカまで持ち出されちまった……おめえは、無事か」
私はとっさに自分の脇腹を陰にしてうなずけば、ヤスは心底ほっとした顔で体を揺らめかせた。
どうっと、床を揺らして倒れたとたん、おびただしい血が、命の素が、せまい玄関に床に広がっていく。
私が這いずって近づいて、ヤスの頭を抱えれば、すでに目の焦点は合っていなかった。
だって、見ただけで死んでいなきゃおかしい傷なのだ。
「ごめんなあ。誕生日も、祝ってやれねえ、クズで……」
「じゅうぶん、だよ」
手から血まみれのケーキの箱と、ビニール製のレジ袋がおち、そこからはみ出てきたのは、金髪碧眼に長い耳をしたエルフのイラストが描かれた書籍だ。
遅いと思ったらやっぱり書店に寄っていたか。
だけど、おっぱいの大きさとタイトルからして、やっぱり18禁ぽそうだけど。
十六の乙女にそのチョイスはどうかと思っても、それでも十分すぎた。
「ああ……おめえと、ほんもんの家族に、なりたかったなあ……」
「ばかだよ、父ちゃん」
ずっと家族だと思っていたのに。
その声が届かなかったのは、腕に抱えた頭の重みが一段と増したことで知れた。
ああ、良かった隠し通せた。
私は血にまみれてシャツから透けて見える仁王の上に、自分の体を横たわらせた。
もう、さっきの男に刺された脇腹の感覚がない。
傷口を押さえていた手を見れば、べっとりと自分の血が滴っていた。
意識ももうろうとする。
ああ、これはだめだな、と思った。
ヤスに気づかれなくて良かった。
そしたら無理矢理にでも起き上がって、私を刺した人とその叔父貴とやらを虐殺しに行くだろうから。
……あれ、もしかしたらそっちの方が良かったか?
まあもうおそい。心配させたくないと思ってしまった私のミスだ。
かすんできた視界に、おっぱいの大きいエルフの表紙が目に入る。
ああもう、来世があるんなら、美人でおっぱい大きくて、それで……
梅竹希代子、今日で16歳。
そんなくだらないことを最後に考えながら、私の意識は途切れ…………―――――――――――――…………なかった。