第5章 現場に戻る
第5章 現場に戻る
東京都中央区晴海に建つ、階数77を誇る、現時点では世界で最も高い住宅用マンションーディア・テレポーレは20
22年、つまり由良姫のデビューした年に落成し、入居が開始された。最も、それより七年も前から販売が行われていた
ので、デビューを果たした由良姫がすぐにその最上階に入居できたのは、元々の買主と更なる取引をして、買い取ったか
らだ。タワービルの頂上を見上げながら、敏光は考える。この上で一日中、火が燃え盛んでも、気付かれないことなんて
あるだろうか?確かにこの高さと広さなら、煙がなんメートルか登っても下からは全く分からない。そして、このビルよ
りも高いビルは都内にならたくさんあるが、殆どが新宿にあって、会社のビルばかりだ。東京タワーとも距離が若干離れ
ている。望遠鏡でこのビルを覗く人間がたまたま居なかったから、今回の状況になったのだろうか。
「典子様、由良姫の死体が6日間も放置されたことは、野口守弘の予想したことでしょうか?もしかすると、彼は知らな
い誰かに第1発見者になって欲しかったのかもしれません。だって、考えても見て下さいよ。もし彼が殺し屋なら、仕事
が確かに完了したことを確かめたいのではありませんか?死体が完全でした。つまり、彼が由良姫の首を持参し、誰かの
ところに報告することはできません。由良姫が殺されたニュースが必要だったのでしょう。ところが、ニュースを6日間
も待っても、それが全く来ませんでした。しかし、現場に戻って確認するのは危険すぎます。なので、もし私が彼なら、
たぶん5日目ぐらいに、一般人でも入れるような、ここより高い場所に登って、確実に見えるような長焦点望遠鏡でこち
らのビル屋上を覗いて、報告ようの写真も撮ったのかもしれません。いや?報告の必要がなくても、彼はきっと見たいと
思います。これほどの悪行をした重犯罪者だから、私の経験則では、9割が芸術家気取りです。自分の作品をもう一度見
たいのですよ。彼らは。ズバリ東京タワーの特別展望台です。由良姫が無事に、確かに亡骸になっていることを確認して
から、安心して、でたらめの遺書を創作し、最後の仕事を行ったのではありませんか?特別展望台の入場者リストを、警
察の方に依頼して調べて見たらいかがですか?」
「ほほー、すごい自信ですね。典子さん、こちらの方は?」
と、上野伽椰子。伽椰子は相変らず、その膝の裏に届かんばかりのブロンドが艶々として滑らかで、人の目を引く。典
子による事前情報によれば単なるカラーリングのようだが、地毛のブロンドに見間違えるほどのクオリティーだ。173
センチの長身の上にハイヒールを履いているその姿は、ファッション雑誌のモデルとして最適な人材に見える。スタイル
とファッションも、詳しくない敏光からみれば様になっているように思える。顔を見れば、肌の調子は満点をつけてもい
いほどさらさらである。化粧は派手すぎにもならず、地味すぎもしないという程よい具合に、今日のシチュエーションに
合わせて施されている。最も、瞳の色と骨相から見て普通の日本人女性であり、ハーフであることは決してない。ここの
ところは、専門知識を持っている敏光がさすがに惑わされない。典子もファッション写真を撮ったら、カジュアル男装誌
に乗ってもおかしくない容姿の持ち主ではあるが、それについて褒めたら彼女にとってはいい迷惑だろう。容姿という物
は及第点に達せば良い。というのが典子の持論だそうである。その基準で判断すれば、少なくとも上野伽椰子が落ちるこ
とは断じてない。自分がどうなのかは、知らないが。いちおう経済的に余裕があるから、身のこなしにある程度の金銭は
使っている。センスを求められたら、正直、困る。
「彼はそうだな。私の雇った私立探偵だ。まぁ旧知でもあるから、気軽に接してあげて構いませんよ。残りは貴方が自分
で紹介してください。これを良い機会に、私が貴方をどういう風に評価しているかが聞ける、と思っても無駄だ。私はそ
のようなドジを踏まない。さぁ、自分でどうぞ」
「うふふ、その扱いでだいたい分かりましたわ。要は、使用人同然?」
「それは誤解になります。上野さん。私はちゃんと新宿で探偵事務所の看板を上げているプロです。貴方もこれから何か
お困りのことがあった時に、是非こちらをご贔屓ください。まぁ、決して安価ではありませんが、評判は、典子様に保証
して頂きたいところですね」
「何を言う。私だってはじめて依頼したのではないか。最も、今回のことが上手く行けばね、もちろん、貴方の望むよう
にとことん宣伝してやるよ」
「上城さん、本当に、今回のことを片付けてくださったら、私と、結婚してくださいね」
こういったジョークに対応できないほど、敏光は社交の場での経験に欠けていない。
「それは、どうして?」
「だって、私には典子さんの100分の1のお金もありませんよ?謝礼金は支払えません。支払える物と言えば、もう...」
「そのことでしたらご心配は無用です。典子様がまとめて全額支払ってくださいますので」
「いいえ。そういうわけには参りませんよ。ユラさんは、私の生きる意味でもあったのですから。私からも、正式にご依
頼させて頂きますよ」
唐突に真正面から見つめられて、この女性の真剣さが伝わって来たから、さすがのベテランの敏光も一瞬返答に困った。
「お嬢さん。これは冗談では済まされませんよ?本当にその気なら、このあと事務所にお越しいただいて、契約書を書い
てもらいますよ? まぁ、支払いは、分割でもなんでも...」
「ええ。是非そうさせて頂きますよ。期待しております。上城さん」
表情が一変し、鮮やかな微笑みを浮かべた目の前の美しい人を見下ろしながら、敏光は思わずたじろいだ。異性に人並
みの興味を持っていない敏光でさえ、この相手は警戒せざるを得ないという警報が鳴ったのである。完璧すぎる容姿はあ
まりにも強い武器である。異性にも同性にも通用してしまう。それが典子と由良姫が。ナチュラルにこの女性から親密間
を感じ、彼女の存在を受け入れた理由ではないかと、この一瞬でわかった。油断はならない。そして、敏光自身は女性の
こと研究対象として観察している。結婚をしたら奥さんに申し訳ないから、していないし、これからもするつもりがなか
った。まぁ、せっかくのハイレベルの美人だから、彼女が本気でその気なら、斉藤にでもくれてやろうか。と、敏光は内
心で冗談を言って、緊張感をはぐらかした。
そして一方で、典子はこのやりとりが下らないと思いつつも、水をささなかった。敏光がこれで、伽椰子の本質まで行
かなくても、だいたいのイメージが伝われば良いと思ったからである。伽椰子は非常に可愛らしくて感じの良い女性であ
る。という大切な事実は、言葉で伝えるのでは物足りないからだ。
それから、伽椰子は「ここで立ち話をするのもなんですから」と言い、2人をマンションの中に案内した。伽椰子の済
んでいた66階ではもう引っ越しの箱詰め作業が殆ど終わっているから、来客を座らせる状態ではなかった。なので、3
人は直接、現場に向かうことに決めた。それにしても、ロビーが広い上に入口も多く、ホテルのように初めて来る人のた
めに道案内の矢印が貼っているわけではないから、伽椰子の案内がなければ、フロントを見つけるのに一苦労をするとこ
ろだったのかもしれない。
「66階の上野です。あぁ、鍵を忘れた?いや、そういうわけではありません。その、和ノ宮さんの77階に入ってもら
ってもよろしんですか?」
「上野様、申し訳ございませんが、77階はいま封鎖状態になっておりまして...」
「警察庁の捜査一課の山本課長に話を通してあります。そちらに連絡して聞けば分かります。水戸が今ここに来て、入り
たいと言ってもらえれば、結構です」
と、典子が。
「はい。かしこまりました。可及的速やかに対処致します」
緊張のあまりに不自然な身動きで逃げ去ったスタッフを見て、伽椰子はやれやれと言った感じでため息をついた。
「行けませんよ。典子お嬢様?驚かせてしまったじゃありませんか」
「ほほー、貴方に任せれば、ユラの部屋に入れたとでも思いますか?」
「いいえ、面もくないです。典子さんが居てくださって助かります。上城さん?お分かりですね?これが支配階級と庶民
の歴然とした差です」
敏光はわずかに微笑みを浮かべ、この話題を流した。このマンションに住むことができる上野伽椰子も一般人から見て
はブルジョアかもしれないが、確かに彼女自身がいま言っているように、典子と由良姫とは、住む世界が違うはずだった。
それなのに、彼女は入って来た。俗に言うと、成り上がりである。しかし、この伽椰子という女性は、普通なら避けたく
て仕方がないはずの話題を、さも自嘲気味に語り出している。ここのところの自信が、確かに典子が言ったように、「感
じの良い女性」の雰囲気を醸し出している。
典子の方から警察に圧力を掛けたのが理由かどうかは知れないが、幸いなことに、由良姫の自宅は殆ど元々の状態を保
っている。この事実について、上野伽椰子が証言した。
「私が来た時も、いつもこの感じでしたね」
広いリビングルームの真ん中辺りに置かれているソファセットの長い方に座り、カーテンを全開にすれば、フランス窓
越しで東京湾の海面の都内のビル群が俯瞰できる。これがもし夜中なら、都市夜景の絶景ポイントに違いあるまい。敏光
はまず窓を開いてみて、仕様を確認した。上から少し隙間が開けるぐらいで、全開にすることはできない。隙間の大きさ
は、細身で頭蓋骨の小さい大人ならがぎりぎり通るぐらいだ。鉄格子はないものの、外部からの侵入はあまり現実的とは
思えない。そして、やや遠い部屋の角のところに、バー形式のカウンターとカウンター用高い回転椅子がいつくか並んで
ある。バーの棚にはもちろん、数多な銘酒と思われる酒瓶が並んである。その奥が台所に繋がっている。由良姫は料理を
しないため、台所は栄養食品類とスナック菓子の貯蔵庫になっているようだ。賞味期限をチェックした限り、この一ヶ月
以内に生産されている物もあれば、三ヶ月以上経っている物もある。ゴミは何処にもない。おそらく警察が捜査のために
持ち帰っただろうと想像する。そして、リビングルーム全体がベージュ系の色を基調にしており、絨毯も柔らかくて非常
に良い素材が用いられていることは分かるが、模様のない一色系でした。印象としては、これは由良姫の趣味でもなけれ
ば、居住空間でもなく、ただの来客と話をするためのスピースというように思えてならない。伽椰子としては、「ざっと
こんな感じでしょう」と言った軽いテンションで、自分の家かのように気にすることなく、近くにあるソファを探して腰
を下ろした。一方で典子はまた糸の切れたマリオネットのように話しかけにくい雰囲気で、しばらく何かを考えているよ
うだ。まあ、典子の感想はだいたい敏光にも予想がつく。典子は一度もユラの自家に上がったことがないと言った。しか
し、実際にこの部屋を見たらどう感じたのだろう。由良姫は、来客を決して拒んでいないようだ。むしろ迎えるつもりで
この部屋を用意したではないか。なので、上野伽椰子が何度も来ていることも、決して彼女が図々しいというわけではな
いだろう。むしろ、単に典子がユラのことを意識しすぎて、ストーカーである自覚を持っているから、由良姫の考えてい
ることを誤解したのにすぎないだろう。そしてこれで、野口守弘が何故あんなに容易く由良姫の自宅に入ることができた
ことの説明も付いた。由良姫はもともと、知人を自宅に上がらせる習慣を持っているようであった。
敏光は典子の精神状態がだいぶ回復して来た頃合いを見計らって、2人を連れてまず由良姫の寝室に入った。むろん、
これはアトリエを最後にするという、典子への配慮のためだ。由良姫の寝室はぱっと見、一般的なセレブの女性のそれと
は、さほど印象が変わらなかった。真ん中に置かれてある、キングサイズと思われるベッドの天蓋はチーミングな彫刻が
施されている4つの柱によって支えられており、レース張りのカーテンが何枚重なって縛られてある。カーテンを括って
いる紐がさすがに凝っていると、一瞬感心した敏光である。調度品のすべてのデザインから洗練されたセンスが伺え、精
密な作り、使われている素材と生地の良さからは上品さが伝わる。ただ、この部屋は、由良姫がリラックスをして、体力
を養うためには十分な機能が備わっていると思われるが、やはり、彼女の創作意欲をそそるような、強いアイデンティテ
ィを主張する物が見当たらなかった。
ただ一つ驚いたのは、鏡台の隣の棚には、香水の瓶が、ざっと見たところ、何千という数で並んでいて、デパートの香
水コーナーをも越えている貯蔵量に違いない。典子も何か思い当たったらしく、香水棚の前に足を止め、何分間佇んで眺
めていた。それを見た上野伽椰子が後ろから典子に抱きつき、体重を典子の肩と背中に預けるような感じで語り出した。
「ユラはね、一度も昨日と同じ匂いをしなかったのよね」
「あぁ、言われてみれば、いつも違う香水を使っている印象は確かにあった。しかし、こんなにたくさん買ったとはなぁ。
まるで、香水のコレクションをしているみたいじゃありませんか」
「まぁ、ユラさんは結構匂いにこだわりました。香水だけではありません。アトリエを見たらもっと驚くだろうと思いま
すが、たくさんの花の香りをアレンジしたアロマディフューザーが使われていました。彼女の話では、いい景色を見た時
の情景を匂いまでが再現したいそうです。でもね、典子さん、貴女のいま考えいることを、当てて見ましょうか?貴方は、
さぞかし納得が行かないでしょうね。ユラさんがねぇ、普通に女の子をしていたという事実が」
「うるさい。しかしまぁ、そんなところです。私はあまりにも多くことで、ユラに謝らなければなりません。一番のファ
ンですって?私はいったい彼女の何を知っていたのでしょう」
寝室には下着とパジャマ類を入れるタンスのみが置かれてい、クロゼットがなかった。着替え室が別に用意されている
からだ。着替え室には別だん記憶に留めておくべき物はなかった。ただ、由良姫が実際に町中に着て行けるような今どき
の服から、研究目的と思われるために集められた舞台衣装を大量に持っている事実が分かるだけだった。全てが女性服だ
が、ジャンルはとにかく豊かで、古代ローマのトガから、エリザベス一世時代で流行った車輪状のパニエが使われている
ドレス、後のロココ時代のローブ・ア・ラ・フランセーズ、ローブ・ア・ラ・ポロネーズ、ルイ16朝末期に流行ったカ
ントリー調の服、ヴィクトリア時代に入ってから使われるクリノリンのドレス、それから産業革命後、シャネルやディオ
ールなどの有名人が作った代表作もひと通りあった。着物類が比較的に少なく、十二単が2セット等身大の人形に着せら
れているぐらいだ。分かったことと言えば、由良姫が服に対しては、好みと言うものがさほどなく、浅く広く研究しつつ
楽しんでいたように思われた。ちなみに、由良姫の絵に登場した服は全てこの部屋に実物を見つけることができた。彼女
は決して服のデザインを自分からしようと思わなかったようだ。他の芸術家の作法はしらないが、敏光は由良姫の考え方
が間違っているようには思えなかった。巨人の肩に乗る。彼女はどうやらどこまでもそれを実行して来たようだ。
それから、人体模型・人形ルーム、飛行機・軍艦・自動車類のモデルルーム、書庫、書斎、物置部屋、楽器ルームなど
があった。機材部屋のショーウィンドウの中に並んでいる数多くのレンズ交換式カメラ、レンズ、ビデオカメラ、照明器
具は15年ぐらい前の各メーカーのフラグシップモデルから、最新型までが揃っている。敏光は思わずここで、典子の話
した、由良姫の取材に付き合ったカメラマンの話を思い出した。由良姫はいつも撮りたい情景に合わせて、自分から適切
な機材を持って行くが、操作することをプロに任せているようだ。彼女はその間に肉体で感じることに集中すると言う。
最も、彼女は撮影に関する知識に欠けることなく、ここをどのように撮りたいという質問をされる時に、全部任せるとい
う時もあるが、彼女の求めるイメージに合うように細かく指示を出すこともできるそうだ。とはいえ、協力したカメラマ
ンは付き合い難いと感じることがなく、とにかく彼女のセンスと、機械の特徴と限界をよく理解している知識の量を賞賛
するばかりだった。
残りはアトリエのドアのみとなったところで、敏光はふっと一つの疑問を思い出して、上野伽椰子に聞いた。
「由良姫は、自分の温室を持たなかったのですか?」
「いいところを聞きました。ユラさんは植物もとても好きで、全部屋上階で育てていますよ。日本の気候帯で育てられる
殆どの樹木から、季節のお花畑までいろいろありますよ。だからここの屋上階つきの最上階でなければならなかったそう
です。ただ、彼女は専属の使用人をとにかく持ちたくなかったから、園芸師さんは家政婦さんと同じく、週に一度来ます。
普段の水差しはタイマーでなんとか維持していますね。最も、本人やたまに来る私も暇がある時にお花たちのお手入れを
します。知識の許される程度にね。ユラさんも私もお花は好きですが、育て方までが詳しいというわけではありませんか
ら」
なるほど、由良姫は限界を知っている。無理をしないタイプである。彼女と付き合ったあらゆる人間がそう言った。敏
光はとりあえず頭でメモした。屋上階には事件の現場があるから、植物も観賞してみたいところだが、後回しにして、ア
トリエを先にする方が順当のように思えたから、もうソファに腰掛けて休憩に入っている典子に声を掛けた。
「さて、典子様。いよいよアトリエですよ」
「あー、もう飽きたか?収穫はあって?」
「いやいや、典子様こそ、意外と興味がなかったご様子ですね。いかがされました?ご体調が優れないのですか?」
「まぁ、体調が良くないというか、体力がないのはいつものことだろう。それよりも、興味を引く物が特になかったのは
確かだな。ありてに言えば、ただの博物館だろうこの家は。ユラが集めたのは好物ではない。ただの、素材のようだ。だ
から改めて思ったというか、幻滅したというか、芸術家といえど、職人だな」
「全員が全員そうだとは限りらないと思うが、由良姫がそういう類の芸術家だったということですね」
「そうだな。分かっては居たが、さすがサラの妹というところだな。さて、心が折れるのはもうこれで十分だから、準備
はできた。行くとしよう」
アトリエのドアには厳重な指紋認証ロックが施されていたが、警察が捜査に入る時にそれを解除したようだ。家全体は
来客用も兼ねているようだが、この部屋だけは思い入れが違うことが伝わった。ここのところが有名人というかセレブ階
級の不便なところだと敏光は思う。人に見せれるようにしなければならない。自宅だろうと何処だろうと。プライベート
が許される範囲はほんの僅かしかない。由良姫にとって、それがこのアトリエだということである。ドアを開けたとたん、
まず困惑してしまったのは電気の付け方が分からないところだ。50平米ぐらいあるだだびろい部屋に窓が一切なく、真
っ暗闇の状態である。典子のそうだが、最近の人間は極度までに時間を効率的に使うために、日光の影響で作業のペース
を邪魔されたくないのがむしろ多数派になりつつある。
「ロックを外す際に、部屋全体の通電までが断ってしまったでしょうかね」
「役立たずめ!」
「でも、なんとなく、分かりますの」
典子はナチュラルに警察の不手際に憤慨したが、上野伽椰子の反応が敏光の興味をさそった。
「と言いますと?」
「この部屋は、由良姫そのものだったもの。ですから、その、ユラさんと共に眠ったのも、自然なことではないでしょう
か」
なるほど、一理はあるように思えるが、それでもこの巨大な亡骸をじっくり観察しなければならない。そう思えた敏光
予め用意した懐中電灯を3本持ち出し、他の2人に渡した。懐中電灯といえど、今どきの製品だと発光量に余裕がある上
に、フラットにして柔らかい照らし方をするから、不都合はない。まず、部屋全体を囲んで、天井から、入り口のドアが
ついている壁以外の3方向の壁全体までが、無数のモニターに覆われている。モニターの間に隙間がなく綺麗に繋がって
いるものの、サイズは不揃いである。3つの中の2つの壁には、真ん中の100インチぐらいのある大きいモニターがあ
り、周りに小さいモニターで囲んでいる。もう一つの壁には、同じ大きさの9つのモニターが、横縦3行3列で綺麗に並
んでいる。天井そのものもが、特注仕様のモニターのようだ。そして、デジタルにある程度知識を持っている敏光には分
かるのだが、このモニターたちは全て仕様が違っており、ティテールに関しては最先端の技術が使われているため、密度
が十分に高いが、発色がそれぞれ違うのである。そして、この部屋は決して、贅沢に映像の美しさを頼むための物ではな
い。今では、バーチャル・アイデンティティ・マルチメディアという技術を使えば、平たいモニターなど観なくても、3
60度の全方向から立体的な映像を観ることができるのだ。由良姫が部屋をこの仕様にしたのは、あくまでも作業をする
時に、同時に複数の画像が見たいという理由しか考えられない。平面型液晶ディスプレイがもはや黄昏を迎えているこの
時代を、感傷的に感じている生産技術者がこの部屋に入ったら、さぞかし熱い涙を流しただろうよ。思えば、ブラウン管
が終わる時にも、そういう人間がたくさん居た。敏光には、出番の終わった巨人までをこき使う由良姫の存在がますます
楽しく思えて来た。
「由良姫は、この部屋で世界を見ていましたね」
「ええ、ユラは持って帰って、じっくり見る派だったからな」
「ユラさんはいつもヨーロッパに取材しに行きましたね。絵の背景も、殆どがそちらでした。一層のこと、そちらに引っ
越したらどうですか?って提案したこともありましたよ。けれどね、ユラさんは、人間の限られた時間を言語学に使うの
が勿体無いと言って、外国語を学ぶのが嫌だったそうです」
「まぁ、分からなくもないな、その気持は。私やサラのような分野では、すぐに使わなければならないから、学ぶしかな
かったが、何れは、機械が完璧にやってくれることですからね。計算がそうであったように、翻訳も何れ人間の仕事じゃ
なくなる」
「でも、センスを養うと私は思うけれどね」
「そういえば、上野さんはデザイナーでしたと伺いましたが?」
「一応はそうですよ?でも、恥ずかしながら、最近はあまり仕事を受けていないんです。父の会社の業績が良くなってか
らね」
相変らず考え方が上品ではないが、包み隠さないところが潔い上野伽椰子である。そして敏光は改めて思う。由良姫は
巨人の肩に乗ることのみならず、光速に乗ることの重要さも良く知っていたようだ。ニュートンとマクスウェルの子孫と
して恥ずかしくない人間である。英国人ではないのだが。そしてとうとう、この部屋で何よりも存在感をアピールしてい
る、ソレを観察する順番になった。真ん中の作業スペースの隣に置いてある、巨大のソレは、21世紀初期の工業を描い
ているようなこの部屋の雰囲気とはかけ離れた、スチームパンク的なデザインをしている。無数の歯車がボディからはみ
出していて、長さ3メートル余りのドリル状のマシンが、複雑な機能を持っていそうな台座に重々しくのしかかっている。
歯車の間に、役割の分からないレンズや鏡などがたくさん突き出している。先端には半メートルほど長くて、極細の針が
ついていて、その先にあるのは画用紙である。どうやら、ペンのようである。
「これは?」
「ディア・ハート・ターグ・ゴットと言うそうですよ。ドイツ語で、神の手という意味。どんなに小さい紙にも、ほぼ無
限に拡大して細かく書き込むことができるそうです。メーカーは、分子に絵を描くペン、と言っているようだが、さすが
にそこまでは行かないと思います」
と、伽椰子が説明する。どうやら、典子もこのモノについて、由良姫本人から聞いたことがない様子である。
「ほほー、世の中にこんなモノが存在したとは...」
「あら、そんなに珍しいモノでもないそうですよ?これが、5台目ですって」
「いや、世の中には1桁の数しか存在しないほど珍しいということですか。こんなモノを使っていたら、そりゃ...」
「でしょう?そう思うのでしょう?私も最初見たとき、ずるいって言いましたよ。こんなモノに、普通のペンを使ってい
る並の人間が、こんな、神のツールに勝てるわけがないじゃないですか。こんなに圧倒的な性能の差があると知ったら、
使っていない画家の方が不憫に思えるのも、仕方がないことでしょう?」
「ユラの目には、最初から並みの相手なんて映って居なかったのでしょう。これを見たら更に確信します。彼女はあくま
でも、人間の技術の限界を駆使して、とある高みと戦っているように思えます。それは、正しいことです。人間は、神の
摂理を知って、神のツールを作って、それに乗ってこそ、神の指定した場所へ、近づくことができるのですよ。神のツー
ルに力勝負を仕掛ける人間の方が愚かですよ。勝てる相手を選ばない根性は、蛮勇です。私は、みっともないだと思いま
す」
「そうかな?私は、美しい、と思うのです。絶大な存在に挫けない姿勢が」
おもしろいことに、上野伽椰子はどうやら、価値観では由良姫に同調しないようである。どんなに仲良くても、価値観
の合う典子の方が由良姫のファンになり、違う上野伽椰子の方が彼女の普通の友人になった。改めて考えて見れば、とて
も自然なことではあると敏光は思えた。そして、この部屋の真ん中の作業スペースに座り、頭にはレンズがいっぱい付い
ているヘルメットを被り、白衣を着て、ディア・ハート・ターグ・ゴットを操作している由良姫のイメージが敏光の脳内
に過った。まるで、手術をしている外科医のようである。結論から言うと、どこからどう考えても、由良姫という人間は、
すっかりの現実主義者としか考えられない。しかし、そんな現実主義者が、知識として芸術とロマンチックという物を知
り、創ることに成功した。
何もかもが理不尽なほどに感情的に間違っていて、しかしながら理屈は通っているのが世の中かもしれない。いや、そこ
までスケールを大きくして考えるのは良くない。それが、由良姫の世界であると言うべきだ。
「さて、典子様はこれで納得されましたか?」
「あぁ、十分だ。ユラが分かって来たようで、ますます分からなくなるようだ」
「同感です。とても首尾一貫しているようですが、何のために、と言うのがますます不可解になります。ところで、由良
姫に限らず、この事件に関わる全員にその傾向があります。類は友を呼ぶと言いますか。そうですね。人間らしくないん
です。皆が皆」
「あら、そうですか?私のような凡人がとても場違いで心苦しいのですが、一応、存在していますよ?」
そんなことはない。と、敏光は思わず口に出してしまいそうになった。上野伽椰子も、十分に一貫している。そう、す
ぎるぐらいに。
「さては、現場に行きましょうかね?」
屋上階へはデザインの洒落た廻り階段でも上がって行けるが、部屋の中にも専用のエレベーターがあった。階段と言う
のはいつ見ても目の保養になる物だが、実際に使ったら転ぶかもしれないから、特に老人への配慮のために最近の建物で
はエレベーターが別に置かれることが多い。ちなみに、典子の家にはなかった。毎日階段を登って行く彼女の姿を想像し
てみると、近代的な設備には理解を持っているものの、やはりクラシックな趣味が典子にはあると思えてならない。少な
くとも、由良姫よりはだいぶクラシックな人間だとは思える。こういった、ほんの少し意外に思えるところを持っている
のは、やはりナチュラルである。あくまでも一貫しているのよりは、納得できる。ここのところに関して、上野伽椰子は
どうなんだろうと想像して見たが、やはり今のところ、彼女についての情報が不足していると自覚して来た敏光である。
屋上階は、もう一つのワンダーランドであった。季節がちょうど夏だから、花壇に植えてあるラベンダーの花畑が風に
漂い、小さく波打つ湖の水面かのように美しい。そして寄って見たら、一本一本の花の花びらと葉っぱに、朝の露が日差
しを反射して、キラキラと美しい。最も、朝の露ではなく、タイマーの噴水が掛けてきた水の水滴だろうが。そしてもち
ろん、ラベンダーをここに植えた由良姫の望む如く、薫りをぷんぷん醸し出している。
「そういえば今はもうすっかり真夏ですものね。ラベンダーも咲きますは。ユラさんには、今年のラベンダーが見えませ
んでしたね。5月はチューリップの季節でしたものね。ユラさんはチューリップもとても好きだったから、好きだったか
ら、だから、何よ...」
話しているうちにいきなり涙を流し出した上野伽椰子である。
「伽椰子さん、落ち着いてください。貴方は引き続きお花の説明をしていていいですね。もちろんユラさんのことを思い
出したら落ち込むのは仕方のないことですが、その時はそうですね、泣いてても構いません。今のように、余りカロリー
を消耗しするような泣き方じゃなければね」
「伽椰子は、まだ私より良い方だよ、回復が早い。私は落ち込むと、泣けない代わりに頭痛が長引くのだ」
「泣く方法はご存知ですか?」
「知らない」
「それがもしかしたら涙腺がうまく機能していないせいかもしれないから、サラさんの旦那さんに診てもらったら、治る
んじゃありませんか?」
「私が泣きたいために、荻原光國に診てもらうか?貴方、最近ブラックジョークが上手くなって来ていないか?荻原につ
いては、写真こそニュースなどで嫌でも目に入ったことぐらいはあるし、サラの結婚式にも普通に参加したが、話したこ
とはないな。いや、人の旦那さんの陰口を言うのも何だけれど、世間の評価があれだし、怖いんだよ、さすがの私でも。
だってそうでしょう?実際に、どこかの実験場に連れて行かれそうだもの。檻から抜け出したライオン並だよ、あれの怖
さは」
まぁ、典子に怖い物があったのは実に意外だったが、荻原光國は人間にしては確かに危険過ぎる相手である。いまや絶
大な力を持っていて、アンチモラルのマッドサイエンティストという評判だしね。狙われたら全ての意味に於いてオシマ
イである。怖く感じるのは、普通だ。さすがに理由もなく典子をどうこうすることはないと思うが、関わらないことに越
したことはあるまい。それにしても、サラはいったい何なんだろうか、魔神のしもべになったつもり?それとも、魔獣を
操った魔女になったつもり?まぁ、彼女と荻原博子が具体的にどういう関係かについては、敏光が個人的に興味を持って
いるのみならず、世界中の注目の的である。考えているうちに、伽椰子が泣き止んだそうである。
「そしてあちらの、今は何も咲いていない寂れた花壇は、彼岸花なんです。9月中旬になったら本当に、いっぱいが深紅
に、鮮やかに咲き乱れますよ。昔はお墓の近くにしか咲かない花だから、地獄花、死人花と言われたこともあるそうで、
花言葉もネガティブな意味ばかりですが、咲いたら本当、ゴージャスさではバラに負けることがなく、花の世界のクイー
ンだと私は思っているのですよ。ユラさんがここに彼岸花を咲かせたのは、あの桜の絵を描くためだそうですよ。みんな
蒼い桜の花びらに目を引かれてようたですが、実は下の方に一面に彼岸花が咲いていたんのです。白い彼岸花が」
敏光は割りと由良姫の絵を細部までよく記憶しているから、言われて見ればあったのは分かる。しかし待って...
「上野さん、貴方がこのマンションに入った入居日はまだ覚えていますか?」
「いいえ、正確にはもちろん今直ぐ思い出せませんが、それが役に立つ情報なら、契約書を調べたら分かるし、探して来
ましょうか?」
「いいえ、だいたいで結構です。ほら、季節によって、する苦労も違って来るでしょう?」
「でしたら、ちょうど3年前の春でしたね。桜が、確かに満開してましたな あー、入居日も思い出しました。4月26
だったと思います」
「それはたいへん結構なことです。由良姫はちょうどその三年前の春から夏に渡って、蒼き枝垂れ桜の製作をしていたそ
うですから、あなたも運良く、作業の現場を見ることができたんですか?」
「それはさすがに、ユラさんは私のつまらない好奇心のために、わざわざアトリエまで見せてくれましたが、創作してい
る最中の姿や、製作中の作品はさすがに見たことがありません。そんな...見せてくれると言われても、たぶん遠慮したと
思います。それに、ユラさんが創作に集中している期間はあまり外出しないのですから、私とたまたま、このビルの五十
階にあるバーで知り合うこともなかったでしょう。会ったのは、ちょうどユラさんがその絵を発表し終わった時期だと思
います。あぁ、オーダー作品だから、発表ではなく直接送り届けたのかもしれませんね。なので、「無題の桜の絵」の話
はユラから聞いただけで、実物は見たことがないんです」
なるほど、そういえば、由良姫にとって、「蒼き枝垂れ桜」の絵は無タイトルだったよね。確か。
「今なら典子様の「コレクション」ルームにありますから、見たいと思ったら、本人さえ許可してくれたら、いつでも見
れますね」
「あら、じゃ、その、野口さんの絵はいま典子さんに買収されたんですか?」
「こら上城!それは余計な情報だ。その通りだが、私の物になるかどうかはまだ交渉中でね、一応私が自宅で管理してい
ます」
上野伽椰子がいきなり典子の方へ歩いて行き、典子に抱きついた。彼女の性格から考えると理解できる反応ではあるが、
いささかリアクションが大きくないかと、自分でも下らないと思いながらも、ツッコミした敏光である。
「本当に、典子さんが居て助かります。お分かりでしょう?これら全てが、もうユラさんなんです。ユラさんはこれらの
絵の中にしか生きていませんから、本当に、典子さんが管理してくださったら誰よりも安心できますし、嬉しいですよ」
「あぁ、ユラの絵の他に気になるのがあるとすれば、天上と女子生徒ですね。まぁ、今川様なら間違いなく丁重に管理し
てくださるだろう」
「えー、でも、司教さまなんでしょう?今川様のよう方には、私はとてもとても、会いたいとは思わないんです...」
「あら、意外とやさしいおじいちゃんですよ?あぁしかし、今川様の持っておられる絵が見たいのなら、うちのプロジェ
クターでも見えますよ。データをシェアしてくださいましたから」
「はい、いつの日に是非。でも、本当を言うと、今直ぐでなくてもいいです。ほら、私は絵が分からないから、ただ、ユ
ラの絵が全部無事に残ったことが、何よりも嬉しいですよ」
「全部ではありません。アーシャ夫人と言うな名の絵が、野口守弘の死により行方不明になりました。」
と、敏光。
「ええ、でもアーシャ夫人は... どういう絵なんですか?」
戸惑う伽椰子に、典子が助け舟を出す
「こら敏光、また余計なことを。ほら、「火の中の女」の前のオークションが確かオーダーのだったでしょう?そして野
口守弘が勝手、注文した絵の前がその、「アーシャ夫人」でしたよ」
「なるほど、私の方全然、この「アーシャ夫人」のことについて聞かされていませんね」
「まぁ、ユラは乗り気じゃなかったのだろう。なんとも、好きな小説の登場人物をユラに書いて貰うために、小説まるご
とユラに押し付けて、読んで、ユラの受けたイメージで描いて欲しいそうだ。なんとまぁ、凝ったことを考えてくれたが、
ユラにとってはいい迷惑だったのかもれないよ」
「ええ?でも?私には、すごくロマンチックなことに聞こえますよ、素敵じゃありませんか。小説を読んで、その登場人
物を思い通りに描くなんて。私がユラさんなら絶対喜んで描きます」
「それは、貴方がデザイナーだからではありませんか。私たち探偵と同じく、依頼人の意思に配慮をしつつ、協力して行
って行く仕事なんです。そういうのに慣れているから、少々難しい依頼が来ても、逆に珍しくてワクワクします。それは
私も同じですよ。でも、芸術家の彼女がどうだったのでしょう。オーダーを受けること自体の考えが未だによく理解でき
ていません」
と、敏光
「あぁ、オーダーについてならユラは話したことがありますよ。確かにオーダーを描く時期は余り気が進まないようで、
いつも怠そうにしていましたが、自分の希望ばかり描いてもメリハリがないから、他人の物もたまにやったらそれはそれ
で楽しいそうですよ」
「描いているうちに、他人のこころが見えるから楽しいとか言ってなかったですか」
と、典子
「えぇ?それはどうでしょうー ユラさんがあんな他人の秘密を楽しむようなサディストとは思いたくないんですね」
「ほらー、思いたくないってことは、思うでしょう?」
「もう典子さんたらやめてよ、不謹慎です」
「故人に対してそういう話題をするのは確かに良くないが、今はそれを語っている場合じゃありまえんよ。むしろ、必要
なことです。さて、これで息抜きはもう十分でしょう。そろそろ私たちは、彼女と対峙してこなければなりません。ここ
まで来たんですから、さぁ、行きましょう」
押しに弱そうな伽椰子はいきなり真剣になって来た典子に異論を唱えるわけもなかった。敏光にしても、典子が自分か
ら何かをしようとすることほど楽な展開はないから、基本的に従う。こうして、3人は樹木に囲まれた石畳みの小道を辿
って、問題のあったプールを目指した。プールは由良姫が引っ越したら自分の考えで改造を行った物で、白に近い淡い水
色と深緑色のタイルが市松模様になっており、周りの植物との協調性もよく、それでいて幻想的でチャーミングなデザイ
ンをしている。プール底面のタイルその物が正方形なものではなく、引っ張られている形で真ん中へどんどん小さくなっ
て行く。それに合わせて実際の物理的な深度も真ん中へ近付くほど深まって行くので、非常に強烈な視覚的遠近感を演出
している。真ん中の深度や斜面の角度が外側での目測では判別しにくい。その歪んだ市松模様のタイルの描く中心部に、
黒ずんだ焼け跡があった。そこが犯行の行われた場所が明らかである。死体は無論だが、ゴミも既に片付けられたあとの
ようだ。3人は4隅にある長さ1メールほどの短いハシゴを下り、目を狂わせるタイルの上を転ばないように慎重に歩い
た。目標の場所に到達してから振り返って確認してみたところ、深さはだいたい2メートルほどだとわかった。これだけ
広くて深く、なおかつ火と熱の伝導体になる物がない場所に燃やしたから、火事にならずに済んだのだろうか。
「これではまるで、この難解極まりない事件のためにわざわざ用意した場所のようではないか」
「そのようですね。私の知っている限り、ユラさんはもともと余り体を動かさない方ですから、このプールに水が入るこ
とは見たことがありません。実際は使われていないでしょう。言わば、彼女の設計した芸術品みたいな物ですね」
「それにしては珍しいですね。由良姫はインテリアから服装まで、自分ではデザインしない派だと思いましたが」
「そんなことはないと思います。既存の素材も積極的使いましたが、イメージの調整はだいたいあります。よく見たら、
絵に描いた物と現実に集めた素材とはだいぶ違います。何から何まで自分で、というのが欲張りすぎる考えだと言ったこ
とは確かにありますね」
「ほほー、上野さんは由良姫とデザインの理念についてもよく話しましたか」
「よくという程かどうかは主観によると思いますが、何度か話したことはありますね。私はあまり仕事をしませんが、デ
ザインを考えるのが嫌いになったわけではありません。ユラさんも、デザインに関してはおおらかな人でしたから、わた
し程度でも話に付き合えました。彼女は道具に何処までも高性能を求めたのでしょう?でも、ことデザインの関しては、
とにかく有名人のがいいというわけでもありませんでした。自分もデザインするし、直感の好き嫌いで判断しましたね。
あぁそうですね、彼女はデザインの理念をお母さんからしか学んだことがないから、いまさら系統的な流儀を求めないと
言っていました」
「ほほー、母から学んだと、確かにそう言っていたのですか?」
「はい。お母さんも芸術家だったそうですが、それほど有名ではなくて、早くお亡くなりになったそうです」
「なるほど、家庭の事情について深く語りませんでしたか?」
「いいえ。ユラさんはそうですね。いま話している話題に必要な情報を惜しまずに話しますが、あまり広げたりしないタ
イプですかね。聞いても、何故それを?と必ず聞き返して来ます。それで、理由が下らないと判断された場合、答えませ
ん」
「あぁ、それなら私も経験したことがあります。昔からそうでしたね。警戒心が強いからだろうか、他人が自分にしたこ
とに必ず理由を尋ねました」
「なるほど、さて、あの夜ここで起こったことを再現してみましょうか。よろしいですか?典子様」
「ああ、頼む」
「警察の情報によれば、使われている燃料がエリクシルオイルという最新式の車で使われているガソリンの派生型で、特
徴として、ガソリンで燃やす火より熱が低いものの、燃焼時間が長いのです。それを野口守弘が持ち込んだと思われます。
エレベーターの監視カメラで撮影された映像で確認された、彼が持っていた長方形のバッグに、それを入れた容器が入っ
ていたと思われます。バッグの大きさから推測される容器の容積では、少なくとも2リットルのエリクシルが入れます。
それを、直径40センチぐらいの大きさの、鋼などの高熱に耐えられる素材で作られた皿状の容器に注いで燃やしたら、
およそ50時間の燃焼が継続できます。死体を表皮から内蔵まで全焼にするのに十分でした。骨が粉末化までは行きませ
んので、残りました。燃料も彼が持っている車で使われている物なので、特別な事前準備は必要なかったと思われます。
皿は彼が持ち込んだのではなく、由良姫の家で見つかった物だと思われます。さらに、一番不可解なところは、由良姫の
死体を支えていた十字架型のスタンドも、彼が持参した物ではありません。2日間の継続燃焼に耐えられるほどしっかり
した素材で作られたそのスタンドは、重さ50キロほどあり、由良姫の人体模型室から持ち出された物と思われます。そ
の皿とスタンドの存在が都合よく、彼に「火の中の女」を再現させることを可能にしたわけです。最も、警察の解釈では、
彼はおそらく最初からあのような形にするつもりがなく、ただ昏睡状態にさせた被害者の体を床に寝かせて、エリクシル
を塗って燃やす予定だったかもしれません。あるいは、そもそも被害者の家で放火をするつもりだったのかもしれません。
そこで、たまたま、特別に用意されたかのように存在している、この場所と十字架のスタンドがありました。それで、被
害者を「火の中の女」の絵のように燃やし殺した挙句、火事にもならずに済むことができた、と解釈されています」
「強引すぎる。彼がこの家にある物を事前に調査した可能性は?」
「その方法が今のところ確立されていません。彼がこれまでに、一度も由良姫の自宅に来たことがない事実は、一年中2
4時間、一度も中断したことのないこのビルの監視カメラシステムによって保証されています。もちろん、スパイ映画で
は監視カメラの目を盗んで侵入することがよくありますが、彼では実現が不可能でしょう。あるいは、由良姫が自ら彼に、
自宅の説明をしたという可能性はあります」
「ユラの性格を知っている人間だと、そんなことを話すシチュエーションがあまり想像できないね」
「その通りです。由良姫はとにかく必要以上な情報を他人に漏らさないようにしている慎重な性格の持ち主であることは
私も理解しました。しかし、必要性があると思われる時に、不自然に拒まないようにもしていた、のが分かりました。そ
の証拠として、彼女はわざわざ来客用と思われるリビングルームを自宅に用意したし、上野さんと野口守弘を自宅に上が
らせることにも難色を示さなかったと思われます。どうでしょう?上野さん」
「はい。貴方の言う通りです。最初はもちろん、私が彼女を自分の家に招き入れたのです。ユラさんはそうですね。ほと
んど自分からは提案しないタイプの人間でした。けれども、ユラさんの家も見てみたいという話になった時に、あっさり
頷いてくれました」
「ユラは気が向かないときはきっぱり断るが、理不尽な拒み方をしなかったのも確かだ。彼女は慎重でもあるし、気分屋
なところもあるが、義理を通す」
「その性質を、野口守弘が上手く利用したと思われます」
「しかし、ユラは義理を通すと言っても、人間は見ると思うよ。つまり、悪意には敏感なんだ。上野さんを信用するのに
は、信用に値するだけの理由があったからだと思う。ましてや、殺意の持った相手に油断するなどは、私はやはり考えら
れないのだ。これは決して衝動的な犯罪ではないのだろう。彼は、2リットルの燃焼まで持ち込んだのだ。その不自然な
ほどに大きくて重い荷物の中身に、ユラは全く警戒心を引き出されなかったのか?」
「想像してみましょう。例えば、彼がどのような嘘をつてに、由良姫を騙すことが可能だったのかについて。まず、訪問
の理由だが、これは容易推測できます。「火の中の女」の絵の受け取りという名目のほかは考えられません。郵送しても
よかったです。もちろん、その方がナチュラルです。しかし、もし彼が「それには及びません。私が直接取りに参ります。
それに、先生とこの絵のことについて、直に話をしてみたい」と言い出したら、これもさほど不自然ではありません。更
に、「絵を見て話す」をするのには、由良姫の自宅が最適だったのです。絵のサイズが喫茶店の個室に持ち運べないほど
ではなかったが、それでも、常に「一番近い道」を選んで来た由良姫は、敢えて「回り道をしましょう」という提案をし
ません。これは予測できます」
「いや、一人暮らしの女性が、男性を自宅に上がらせるのは非常識だろう」
「由良姫に常識があったのでしょうか。いいえ、彼女には、理屈と気分しかありません。そして、7割の場合では理屈を
選ぶ、というのが私がこの何日間で得られた情報によって、分析した彼女の性格です」
「そうですね。ユラさんは、どこか理屈が通っていますが。常識的なことをしませんね」
「それが、彼女が演じている印象であり、決して壊したくなかったのでしょう。だから、彼女は、たとえ男性でも、正当
な理由が提示できる相手を拒みませんでした。好き嫌いではありません。逃げたら屈辱、と感じたのではないでしょうか」
「そんな考え方が...」
「よくありますよ。そうやって男性の罠に掛かった若い女性が。「私には貴方を信用できるだけの勇気がある」ことを見
せようとして、見事だまされてしまうケースが。そして、由良姫は確かに敏感だったのでしょう。性的な意味でね。今ま
で男性の経験がないぐらいに、彼女は慎重でした。相手のくだらない理由に気付くことが得意だったのでしょう。しかし、
典子様、他の種類の悪意は、それとは違います。印象が違うのです。だから、そのセンサーに引っかからなかったのでは
ないでしょうか。その証拠として、貴方も言ったように、加藤英司さんは自分が由良姫にしたことの全てが純然な善意と
説明しているものの、虫の良いところがあります。それを、由良姫は許してしまいました。対して、瀧本修も完全に悪意
ではないのにも関わらず、きっぱり断れました。つまるところ、彼女の慎重さは、性的な意味で狙われているかどうかの
判断だけではありませんか?実際に、彼女が世渡りして行く内に、損したことがないと言い切れるでしょうか。いいえ、
私が知っている限りでも、客観的にそう思われる事実がたくさんあります。従って、彼女は、純粋な、理性の通った、人
間的な悪意、つまり陰謀に対しては、無防備でした。と、私は考えます」
「なるほど、野性的なセックスが生理的に嫌いだからよく反応したということですか?言われてみれば、そうなのかもし
れませんね。ユラさんは、そもそも人間をそんなに複雑に思っていないような気もします」
「彼女は、自分の好きな、単純明快かつ合理的な理由で、行動して来た。嫌いな、セックスを頑なに拒んで来た。しかし、
もう一種類の、つまりあまり上品ではない打算的な考えは、まるで、無視して来たように思われます」
「人間として生きるのに、それはありえない」
「ですから、人間らしくないと感じました。しかし、実際に、育ち環境によって、それなりの損をしても、生きては行け
る人間はおります。由良姫がそうでした。そして、自分の理解できないことは下らないと決めつけたら、無視もできた。
不完全だが、人間はときにそれを高潔とも言います。だから貴方は特別に興味を感じたのではありませんか?典子様」
「ユラが、高潔だったと?」
「死んだあともボロが出ません。そこまで演じることができた人間を、我々はもうそれが素だと言わざるを得ませんよ」
「よし、彼がなぜユラの家に入ることができた。なぜ事前にユラの家に犯行に必要な道具が揃っていることを聞き出した
かについて、貴方のユラの性格についての説明を正しいと仮定しよう。では、次があるだろう、何故、焼いて殺さなけれ
ばならなかった。それに、貴方の言ったように、この広大なプールの真ん中という都合のいい場所が存在しなかったら、
きっと火事になっていただろう。彼は殺人者だぞ、放火して周りの人間を巻き込んだところで、なんとも思わないはずじ
ゃないか?むしろその方が、「火の中の女」のシーンに相応しいと思わないか?あんなところで、こっそり、独りではな
くて、周りも巻き込んでみんな灰に帰るみたいな。ああ、この考えはやめよう。私は野口守弘の遺書に誘導されているよ
うだ」
「それはどうでしょう。特別な相手にだけ復讐したいをと思っている人間が、周りの人間への損害をなるべく抑えようと
するぐらいモラルが残っていても決しておかしくないと思います。それに、こうは考えられませんか、もし火事になった
ら、消防隊が直ぐ駆けつけて対応に入るでしょう。そしたら、状況にもよるが、速く済まされる可能性もあります。その
時には、もちろん由良姫は死んでいます。全身の皮膚に燃料を塗って、点火したのだから、瞬きの間に皮膚は全焼となり、
10分、いや、2分間も絶たないうちに必ず死亡します。そして、稀に生きているまま救われる火災の負傷者も居ますが、
皮膚の全焼は治りません。しばらく延命処置を受けても、殆どの場合は治りません。つまり、彼がもし単純に由良姫を焼
いて殺したければ、火事を起こしても、救援が来るのは間に合いません。由良姫は死ぬし、彼は相変らず逃げることがで
きる。そして、どうせ自殺するなら、逃げる必要もそもそもない。この拘った犯行の方式は、犯人の逃亡の時間稼ぎには
なっているが、必要性を感じません。なので、私は最初の主張を継続しますね。つまり、彼にはモラルが残っているから、
由良姫は殺したが、火事に発展させることなく、他の人間への被害を最低限に抑えた。そしてもし ...」
敏光は「彼に雇い主が居る場合、そう指示してもおかしくはなかった。雇い主にはモラルがある」と続けて言おとした
ころだったが、上野伽椰子に聞かせるべきではない内容だと気付いて、いきなり口をつぐんだ。上野伽椰子はすぐに自分
の存在が邪魔だと勘付いたようで、話題を変えることに努力した。
「ところで、ここでずっと立ち話をするのもなんですし、その、場所を移動しませんか?」
上野伽椰子の提案に、二人は反対する理由が特になかった。その後の二次会でも、やはり敏光はこれからの話はもう彼
女たちと別々で話した方がいいと考えたから、あまり話を長引こうとせず、淡々と解散の流れにさせた。典子がその意図
を読んだのに違いない。上野伽椰子も場の雰囲気に敏感そうな人間だから、もしかしたら分かったかもしれない。敏光は
メモにこのように書いた。
由良姫の自宅は博物館だった。そして、上野伽椰子は案内役だった。