第4章 加藤英司に訪ねて
第4章 加藤英司に訪ねて
「ふーん?瀧本に会って来たのか。それは良い。手間が省けた。彼が私のことをそれなりに評価しているのだと?それは
驚いたが、だからと言って今更どうなることもなかろう。ほー、それはその通りだ。瀧本といがみ合っている場合ではな
いことは理解している。協力して貰えることに越したことはない。しかし、貴方のことだからまさかとは思うが、彼に気
を許しすぎるのはお勧めできないぞ?だって、敵かもしれないだろう?」
一昨日ぶりに合う典子がすっかりいつもの調子を取り戻したことに敏光はひと安心した。典子は気分屋なところがある
が、必要とならば何時でも本調子に戻れるタフさが評価に値すると敏光は思った。依頼人にしては、まだ扱い易い方であ
る。客商売だから、相手が調査相手のみというわけには行かない。
「それで、今度は英司さんのところへ行くか。困ったなぁ。ええ、実を言うと、英司さんとは連絡が取れないんだ。自宅
の電話にも携帯にも出ない。実家に連絡して見たら、どうも旅に出たわけではなく、マンションには居るが、来客は一切
拒否しているようでね。あぁ、これは別に、ユラの件でこうなったわけではない。二年前からずっとこの調子だ。ええ、
サラに婚約破棄されたショックを受けてからね。ところがこの前、ユラとの婚約発表式で久しぶりに会ったが、あの時は
意外とまともに見えた。うーん、なんと言うか、すっかり疲れ切ってはいたが、ユラと傷をなめ合うことに納得したよう
で、幸せそう、には見えたね。ユラの傷がなんだって?まさに、そこなんだよ。私にはユラの動機が思い当たらないから、
彼らのことに素直に祝福を捧げる気持ちにはなれなかったのだよ。瀧本の意見なんて戯言だ。彼はしょせん、自分のちい
さい考え方でユラを理解しようとしている。その時に、英司さんと話したか、か?ええ、挨拶ぐらいはしたと思う。それ
以上の深い話はしなかった。こういうのはなんだが、彼の考えることなんて、皆わかっていたのだよ。いや、少なくとも、
そういう印象だった。だから誰もが、ユラの何を考えていることが気になって、彼に話を聞こうと思わなかったのだろう。
そうだな、いまさらながら、私も聞いてみたいと思う。彼の考えが」
「しかし正攻法では難しいなら、どう致しましょうか」
「いや、あたって砕けるつもりでいちど彼の住所に訪ねて見よう。私が思うところに、彼にも話したいことがあるのでは
ないかと、こうなったからには」
典子の車で移動することになったので、運転は水戸家の使用人となり、敏光は先に乗り込んだ典子と同列に座ることに
不都合を感じたので、自らが助手席に座り、斉藤には別行動を取らせた。これでは運転手を挟んだ状態になり、事件につ
いて深い話をするのに良くないが、同列に座ったところで大した変わりはないから、敏光からの「あきらめてこの時間は
公にできることを話しましょう」という合図である。加藤英司と話すときの予行演習にもなるわけだ。
「それでは、あれから二年間、ほとんど加藤氏にはお会いにならなかったということですかね」
「そうだ。しかし彼が時々SNSなどにつぶやきをするから、一応生存確認はできている。返信すれば却って返答に困って
しまうだろうから、リアルの知り合いはみなスルーしている。つぶやきの内容はあまりチェックして居なかったが、宇宙
観や哲学などについて普通に書く時もあれば、自らの自殺願望をアピールするのも多かった。あぁ、彼のそれはかまって
欲しいというわけではないよ。最初のうちは誰もが彼を止めることを試みたのだが、彼が至って冷静の気持ちで死ぬこと
を望んでいることが分かってからは、みな納得したよ。だって、彼はこう言ったのよ?我々自由が許されている市民は誰
もが死を選ぶ権利を持っている。それがなければ生きることの奴隷だ。自らの合理的な判断でそれを最良な選択肢だと考
え、選んだ人間は偏見を受けるべきではない。社会は協力的な姿勢を持つできだとね。それはそうだよ。このことに関し
て、私は別に英司さんの意見に反対しない。彼に安楽死を与えてもいいと思うのだよ。そして彼にその覚悟があるから、
彼がいつ消えても私は忘れるつもりで居た。それが、彼にできた、知人としての唯一の応援であった。というように、英
司さんは一応すじの通った人間だった。死にたがっていたが、説明で他人をきちんと納得させていた。ところが、こんな
ことになると誰が予測でよう。もちろん、さっさと死んでくれたらユラがこんなことにはならなかったとは言わないよ。
ただ、「どうよ?」と聞きたいね。「あなたがあんなに待ち望んで、憧れていた死が、現に身近に、ユラの身に起きて、
どう思ったのか」とね。責めているわけじゃないんだ。まぁ、英司さんに会えばわかるさ。彼は、たぶんこういう話をし
たがっているのだろう」
典子は改めて考える。英司さんの話が聞きたいのもあるが、自分から意見を交わしたい気持ちもある。こうなったから
にはね。いま自分にはやらなかればならないことが残されている。しかし、それが終わったら?その気持を、英司さんは
ずっと前から感じていたのに違いない。残された者としての、果てしない虚しさを。
「英二さんとは、私が話をしよう。貴方の知りたいことだいたい把握しているつもりだ。不足があったら、話の最後にで
も聞くがよろしい」
「かしこまりました。では、頼らせて頂きますよ、お嬢様」
ことの進みは典子の危惧したほど難航しなかった。テレビドアホンで典子一行を確認した加藤はすんなりと家に上がら
せた。
「お久しぶりです。英司さん。二ヶ月ぶりでしょうか。来客は断っておられると聞きましたので、どうなるかと思いまし
たが...」
「あぁ、久しぶり。客?私に客など来ないさ。家事しに来たメイドは帰らせた。自分でなんとかなる。とは言っても、ま
ぁ、このざまだ」
彼がふだん居座る場所と思われるこのリビングルームは長らく整頓されていない様子ではあったが、広さとよく機能し
ている空気清浄器のお陰で、なんとか悪臭が漂うことだけは免れた。ベッドの機能も兼ねているソファに掛け布団が散ら
かっていて、その手前の広いローテーブルにはたくさんの種類のスナック菓子、酒、ジュース、薬などが置いてある。ど
ちらの飲食物も、未開封のと半分残っているのと空いたゴミが混ざっている。そして灰皿がとっくに満タン状態を過ぎて
いるようで、吸殻が溢れでている。2台のテレビはつけっぱなしになっており、片方はサッカーの試合が映っていて、片
方はニュースである。スピーカーから出る音はサッカー中継の方にしているようだ。ゆったりとしたYシャツとスラック
ス・パンツに皺がないからして、いま着替えたばかりの物だと想像する。長く伸びた無精髭が顔全体を覆い、牢獄から出
たばかりのジャン・バルジャンのイメージを喚起させられる。そして顔はやつれているが、体は健康な男性とさほど変わ
らないように思われる。最も、敏光が思わずこのように診断したのは、昨日会ったばかりの瀧本修の異質な細身と比べた
ら、目の前の加藤英司の方がよほど健康そうに見えるからだ。精神はどうやらその反対のようだが。
「それで、ユラちゃんのことを聞きに来たのかい?」
「まぁ、このタイミングですから、それが主な目的だというのは否定しませんが、英司さんとも久々にお話したかったで
す」
「おやおや、これはこれは... 典子ちゃんが私とちゃんと話したのは、何時のことだったかな?20年前に、初対面した
とき?」
典子は内心で英司の皮肉に頷かざるをえなかった。たしかに典子は昔から英司のことを覇気のない大人だと思っており、
必要以上に接しようとしなかったのである。ところが、今頃になって、いや、今頃だからこそ、覇気があるかどうかなど
どうでも良く思えて来て、今までは英司に申し訳なかったと思った典子である。はじめて本心からこのお人好しなお兄さ
んと話してみたい気分になったからか、典子はめったに人に見せない柔らかい表情になった。
「英司さん。私はいままでがむしゃらでした。自分の興味を持っているものごと以外に、必要な敬意も払わなかったこと
は認めます。だから、今はこのざまじゃありませんか。英司さんのことはもう笑えません。笑いません。お互い素直にな
りませんか?もう、過去には戻れません。そして、決着をつけなければならないことがあります」
「決着か、それは、誰とかい?」
「正直に申し上げますと、この事件は、まだたしかな誰かが悪意を持って操作していると断言できる段階ではありません。
強いて言えば、未だに不明瞭となっている事実との決着ではないでしょうか。だって、英司さんも納得はできないのでし
ょう?こんな終わり方では」
「なっとく?この私が?典子ちゃん... 私と貴方は違うのだよ。最初から私の納得行く道などありはしなかったし、たと
え全てがあきらかになったところで、どうなるというだろう。ユラがそれを望んだのか。どうしてそんなことが分かるだ
ろう。それは、貴方の望みだけではないか?」
「では、英司さんは、このままでも良いと仰るのですか?」
「このまま、とは?」
「ユラが、どうして死んだのも、分からずに」
「良くはないが、分かるとでも言うのか?何かをすれば」
「分かります。英司さん。変わって行くこの現在進行形の世界を思い通りにするのに、我々の力はちっぽけ過ぎます。誰
もがそうです。神と申しましょうか、運命と申しましょうか、その凄まじい力によって動かされている現在と未来はコン
トロールすることも、予測することもできず、不条理に感じることもありましょう。しかしね。我々には約束されたこと
があります。それは、過去です。神の決められた物理のルールと同じく、過去は変わりません。学べば、分かります。そ
して、誰にも変えられることはできません。それが、過去です。素晴らしいではありませんか。英司さん。過去はね、知
りたい人間に対して、等しく報いるのです」
となりで聞いている敏光が思わず感心してしまった。加藤英司には、こちらの捜査に協力しなくてもおかしくない理由
がある。生きている和ノ宮サラの意向だ。典子はセンチメンタルに訴えつつも、その点をうまくすり抜けている。済んだ
ことだからこそ、この男は動く勇気が出ることを典子は知っているようだ。そしてみるみるうちに、加藤英司の能面から
悲壮感が湧いてくるではないか。これは彼女の思い通りであるはずだ。
「典子ちゃん... 私だってやさしいやさしいユラちゃんのためにしてあげべきがことがあった。それは分かっていたが、
私にできることはなかった。いや、私自身にはそれを見つけることができなかったし、私に求める人間も居なかった。で
も今は貴方が求めている。なら、差し出そうじゃないか、私の持っている全てを。して、私は何処から話せばよいのかい?」
「時間は十分にあります。昔からでけっこうです。貴方の思い至るところから、未だに気になっておられるところまで、
全てを。貴方のことも、ユラのことも、どちらも」
「ほほ、それはたいへん結構。ところで、こちらのお知り合いの方は?」
「あぁ、上城と言って、私の身内の人間です。彼はそれなりに記憶力に優れているので、この度のことでサポートをして
もらっております。彼のことはお気になさらずに。信用は置けます」
「上城さんですか、お見知りおきほどよろしく頼みますよ。典子ちゃん、貴方は私に気を使わせまいと思って、身内と言
ったようだが、私はね、思うのだよ。上城さんがどこのどなたであろうと、構わない。これで良いのだ。私がこれから話
すことは、典子ちゃんに話すべきことでも、典子ちゃんの聞きたいことだとも限らないからね。上城さん、どうか、証人
になってください。加藤英司の生きたことの、私の語った真実の証人に」
敏光はここでにわかに1人の歴史人物のことが思い浮かんだ。江戸幕府の13代将軍、徳川家定のことだ。もしこの加
藤英司も家定のように、20年間の間に渡って暗愚のふりをしなければならなかっただけの事情があったというのなら、
彼らの生きた「江戸城」に、いったいどんな想像を絶するようなモノノケが蠢いているのだろうか。ます楽しくなってい
く一方の展開である。
「ところで、典子ちゃん、貴方は和ノ宮家について、そしてサラちゃんとユラちゃんのお父さんや、お母さんのことにつ
いて、どれくらい知っているのかい?」
「敬之さん、と早由香夫人のことについてですか?ある程度は把握しておりますが、周知の事実程度ではないかと。英司
さんがこのタイミングで、敢えてお話になりたいぐらいなら、私の存じていない事実、あるいは想像したことのない意味
がきっとあるのでしょう。どうぞお続けください」
「よかろう。では、私から話そう。早由香さんはおそれく貴方も知っているように、アーティストだった。とは言っても、
ユラちゃんのように絵を描かれるだけではなかったのね。服のデザインや、手芸品の製作などもされていた。ところが、
彼女は歴史のあるデザイン学校を出たわけではなく、完全に独自のセンスによって育ったようだ。そして、大衆の目を改
めるほどの革新家の気質でもなかった。あくまでも僅か一部の人間に理解された彼女の芸術とデザインは、自分のブラン
ドを建てるほどまでは行かなかったということだ。最も、それは彼女の生きた環境が彼女を活かせなかったというのもあ
る。分かるだろう?早由香さんもユラちゃんの立場で生まれたら、そうはならなかったかもしれない。彼女はそれで良か
った。と、私は思う。ところが、諸行無常の世の中はこうなのだ。現実にやっと納得できたと思えば、そこで望んだこと
もない変化が忽ち訪れ、せっかく手に入れた安らぎを崩すのだ。それがユラちゃんのお父さん、当時の和ノ宮家の当主だ
った、敬之さんのことである。敬之さんがどのような経緯で早由香さんのことを知られたかまでは分からないが、ともか
く、その後は彼女のことにご執心だったのでしょう。そこで、二人共これからどうすれば良いかことについて、最良な案
を出すことができなかったと思う。存在しなかった、からだろうよ。つまり、その頃の早由香さんの中にあったのは、も
はや世の中を変えたいという大きな夢ではなく、このささやかな現実を築けてきた、職人の誇りだったと思う。だから、
敬之さんには、彼女を支えて、大きく輝かせるとう選択肢がなかった。しかしながら、敬之さんが絡むからには、何れは
誰かの目に付くことになる。彼女のことをあえて隠すことも、早由香さんにとって不実だったのだろう。そこで、敬之さ
んと早由香さんは特別な対応を何もせずに、全ての成り行きをナチュラルなままに任せた。従って、早由香さんが敬之さ
んの間でも知る人ぞ知る存在となり、そのまま3年間の年月が流れた。変化がまた訪れた。しかもそれが必然だとも、い
まさら思える。だから私は、最良な案ではなかったと言った。表面上こそが自然に進んだように見えるものの、実際は違
ったのだろう。早由香さんには心労がかかった。それを敬之さんが気付かずに居た。それもあまりに長いあいだ続いたか
ら、挙句の果て、早由香さんに重い病気が掛かった。当時の医療技術では治らないだったそうだ。とうぜん、厳密に言え
ば敬之さんに責任はないのだ。病気の理由について確かなことは分からない。早由香さんが自らを追い詰めたとも言える。
だが、敬之さんのような、我々のような、早由香さんより力を持っている人間は、そう考えてはならないのだよ。どうに
かできるという可能性を持っていたから、それをしなかった責任を問われなければならない。だから敬之さんはあらゆる
反対の意見を押し切って、残り僅かの時間しかない早由香さんと結婚したのだ。そこで奇跡的なことに、早由香さんはサ
ラちゃんとユラちゃんを出産するまでに持ち堪えたようだ。それからすぐに早由香さんは世を去り、周りを失望させた敬
之さんは公の舞台から引退した。分かるかい?このようにして、全ての夢と希望と償いが、必然的に、サラちゃんのユラ
ちゃん掛かって来たのだよ。サラちゃんが敬之さんの長女として、彼の後を継がなければならなかった。ユラちゃんは、
母親の早由香さんの方をだ。これが、どうしてユラちゃんが学校に行かなかった理由だと私は思う。早由香さんへの償い
だ。2人居る娘の1人は、早由香さんの娘にならなければならなかった。全てを和ノ宮が貰い受け、和ノ宮家の娘として
当然のように教育を受けさせるわけには行かなかった。敬之さんと和ノ宮家には、その権利がなかった。それを他の誰で
もなく、敬之さんがそう思えるから、そうなったのだ。だから、早由香さんの娘ユラちゃんは、貴方が知っての通り、母
親がそうであったように、感受性豊かに、いやはや本当に、素晴らしく育ったと思う。サラちゃんとユラちゃんを見てい
ると、私はやはり、全てがなるべくしてこうなったように思えるのだよ。早由香さんと敬之さんは全ての意味に於いて、
良いことも悪いこともしなかった。彼女と彼のような立場の人間が、そうなるのだ。これが私の知っている限りの、ユラ
ちゃんの始まりの物語だ」
「英司さん... では、あなたは、それを分かっておられて、サラのことが好きになったのですか?」
「いや?所詮こんな難しいことは大人になってからわかることだ。昔の私は単に、約束された未来のお嫁さんサラちゃん
が、どうしようもなく素敵だったのにすぎない。そして分かってからも、やはり私たちの側に居るサラちゃんの方が、分
かりやすい魅力を持っているように思えるのだよ。サラちゃんは、ナチュラルに、必然的に、物理的に、私の天使だった
のだよ。彼女の精神が、私の憧れている、なれなかった自分自身のあるべき姿でもあるからだ。でも、ユラちゃんに、そ
の、傍から見て必要以上に、気を掛けたことには、敬之さんから譲り受けた、贖罪の心理はあると思うよ」
「なるほど、つまり、敬之さんという前例を良く知っておられて、深い影響を受けた貴方は、彼よりよく出来ている人間
のサラが憧れで、彼の犯した罪の象徴のようなユラには、申し訳ない気持ちを抱いておられました。とお考えしてよろし
いですか?」
「率直すぎて耳が痛いが、その通りだよ。典子ちゃん。そして、私たちの時代に於ける新たな物語がはじまるのだ。いい
かい?歴史という物は悪い意味で繰り返されるが、教訓が役に立つなんていうことは殆どない。状況が変わったから、敬
之さんから学んだことでは、やはりどうにもならなかった。私がユラちゃんにしてあげられることが殆どなかった、とい
う事実だけが、繰り返されたのだ。ええ、敬之さんがそうであったように、私も最善を尽くしたつもりだったよ?しかし、
結果はどうだろう。本当にそれが最良だったのか?そんなわけが、なかろう。なんとも情けないことに、結局、私はやさ
しいユラちゃんに救われるばかりだった。それはともかくとして、やはり順序を持って、あの頃から語らなければならな
い。学生時代のユラは見ての通り人見知りで、私の居ないところで人とちゃんと話ができるか心配だった。ところが、ユ
ラは常識という物が殆ど使われない環境で育ったからが、知識が並みの人間に劣ることはなかった。フランス革命と時に
出たあのマリー・アントワネットへの揶揄が一つの流行りとなり、育ちの良いお嬢様が世間知らずという認識が広まり、
残念なことに現代と今どきの文学にも影響を残し、敬意に欠けている貴族感がところ構わず見られるのだ。自らが痛感し
ている体験だからと言って、他の立場の人間が知識として知ることもできないと思うのは、傲慢の他の何物でもなかろう。
つまり、私が言いたいのは、ユラちゃんはいささか、他人とコミニュケーションをすることに慣れていなかった、現代風
の差別用語で言えば、コミ症というところだろうか。とはいえ、彼女がしようと思えば、それができた。そして、上品の
価値観の持ち主が相手であれば、相手の気分を損ねることがないほど、ユラちゃんには十分の知識も、論理的に考えてか
ら口に出すという頭の良さも備わっていた。だから、10歳になってから、ユラちゃんは私にいろんなところに連れて行
かれ、たくさんの人間とも話してきた。トラブルは私の覚えている限りあまり起こらなかったし、ユラが苦手と感じた人
も聞いたことがなかった。ところが、あれほど彼女に固執してしまったのは、貴方と修だけだったように思う。そうだな、
だから歴史という物は形を変えて、本質で繰り返すのだ。私だけが責を受けることもあるまい。貴方と修がユラに何をし
たのだろう。何もできないという言い訳はもうのさい、省こう。敬之さんも、私も、貴方も、瀧本修も、この責任を自分
から背負おうと思わなれかば、誰にも責める権利がない。でも、典子ちゃん、あなたは、違うだろう?」
「ところで、貴方は、ユラに関心を持ったのが私と瀧本修だけだったと言われましたが、それは、野口守弘が現れるまで
という意味ですか」
「そうだな、今はまだ昔のことを話していてね。野口よりも、私は上野伽椰子さんのことで驚いたね。あのユラに、同性
同年代の、しかも近所付き合いで友人ができたことに、私はでれだけ安心したことだろうか」
「それはよく分かります。私も、ほとんど同じ気持でした」
「ユラちゃんには欠けていたね。サラちゃんにとって、貴方のような存在」
「それはどうでしょう。サラにとって、私はなんでもない。ように思いますが」
「いいえ。典子ちゃんのような、侮らなくてもいいような人間が居てこそ、サラは自らがこの世界の一員だと思えたのだ
ろうよ。それが必要だよ。なのに、私は、ユラちゃんのそれになってあげることができなかったのだ。面目ないが、少女
時代のあなた達から見た私は、ただの冴えない大人だった。そうだろう?もちろん、私もね、貴方達が恋をしてしまうよ
うな紳士になろうとしたことがあった。しかし、今の時代で、それはもう簡単のことではなくなった。典子ちゃん、貴方
は恋をしたことがあるか?哲学的に広い意味のではなくて。つまり、この人となら結婚して、同じ部屋で、限られた酸素
を共用したいと思う男性が、あった?」
「なるほど、恋愛感情についてですが。無益になりがちな話題なので普段はなるべく避けるようにしているが、この際は
やむを得ません。結論から言えばそうですね。私はそういった、統一した意味での恋愛感情を現実の誰かに抱いたことは
ありません。結婚しても良い相手なら、考えれば存在するかもしれません。女性として、相手の遺伝子を受け入れること
や、子供に相手の持っている物を相続させるなどのことを考えたらね。そういった盟約を結んでも良い相手なら、居ます」
「性格については?」
と敏光が聞く
「私は、人間の性格は教わるものだと基本的に考えております。つまりは、遺伝子に書き込まれた物ではないということ
ですね。もちろん、ある程度は体質や外部環境に最適化されることはありますが、それでも、今どきの人間のプログラム
化された計算方式は自然でできる物ではありません。人間から教わる物です。なので、たいていは今まですでにある思想
の組み合わせになります。話してみれば、どういう本を読んで、誰から影響を受けて今に至ったか、分かります。正しい
考え方というのはシェアされる物ですから、誰かに所有される物でも、開発者が独占する物でもありません。逆に言うと、
いま性格が良くなかったとしても、本人の更正も可能ですし、それが子供に悪影響を及ぼすことは十
分に未然で防げるから、問題ではありません」
「して、今まで交際した男性が居なかったのは、必要性を感じなかったからですかね?」
「公でこの質問をされたらもちろん「はい」と答えます。ですが、今は本質を請求しなければならないところだから、敢
えて真正面から答えます。そうですね、私の場合はいまのところ必要がないから、この問題の検討を棚上げにしているわ
けではありません。将来的にもおそらくは考えられないのです。どうしても結婚することになるなら、相手は慎重に選び
ますが、同じ屋根の下で暮らしたい相手が居るとはやはり思えませんね。自分の全てを共用したい、と思うぐらいの相手
は、ある程度の魅力と、十分な清潔感を備えもたなければなりません。それが理不尽だというのも分かりますよ。「無い」
よりきれいで静かな物はあるわけがありませんからね。自分の周りを綺麗にするという意味ではありませんよ。それを使
用人がしますから」
「その通りだ。今の貴方たちが要求している、ある程度の魅力と、十分な清潔感はもはやハードルが高すぎて、簡単には
届かないんだ。実際に、それに適う相手が居ないほど、難しいのだろう?」
「そうですね。偉人になら、私などが承服せざるを得ないほどの魅力がありましょう。だけれども、その人の全てを知っ
たら、共に過ごしたいとは限りません。ましてや、その偉人すらも、数が限られています」
「そうだろう?私には分かっていたのだよ。あなた達はもう本当の恋をしないと言うことを。恋に恋をする刹那の時期が
あるかもしれないが、まともな恋を、現実に居る男相手にしない。だから、素敵な男になろうということ自体をやめたの
だ」
「ですけれど、英司さんあなた自身、サラに恋をしたのでしょう?それと同じことをサラにされる可能性はありません
か?」
「それはね。私自身の愛も、自らが不完全がために、より完全な存在への憧れにすぎないよ。それを逆にされることはな
い。完全になったところで、恋が覚めるだけだろう。そうなるぐらいなら、私は卑屈でありながらも、愛していたい。そ
う考えるのは理屈に合わないのかい?」
「理解はできますが、共感はしかねます。私なら、そもそも形の歪んでいる崇拝の感情に囚われていることが苦しみの原
因だと分かったら、そこから逃れることを望みます。つまり、完全になろうとします。それが正しい選択だと考えます」
「ははは、サラちゃんも貴方と同じことを言うだろうよ。典子ちゃん、貴方はさきさらっと言ったが、恋する相手はとも
かく、結婚相手なら考えられると。そこがポイントなんだ。私も、サラちゃんはそう考えているだろうと思っていた。そ
して私が何かをしても、しなくても、その最も相応しい相手であることに諦めていたし、慢心していた」
「いいえ。英司さん。いまさら指摘したところでどうなることでもありませんが、私はさき、慎重に選ぶと言いました。
そう、たとえ、恋愛対象でなくても、遺伝子云々がさほど重要ではない事実に納得していても、こだわるところはこだわ
ります。少なくても、私はそう思います。サラは、サラはまた違うのでしょう。知人をこのように評価するのは心苦しい
のですが、彼女は貴方も知っての通り、異常なところがあります。なので、貴方とサラの件に関しては、正直に申します
と、私は客観的な道徳観から、サラの味方をしていません。私に限らず、他の人間もそうだったと思います。しかし、サ
ラに非があったとしても、遊び半分の気持ちでユラとあんなことをして良い理由にはなりませんよ。今更この上ないので
すが、見損ないましたよ。英司さん」
「まぁ、そう急がなくても良い。分かっているとも。ここは法廷ではから、私は自分が有利になるように弁明しているわ
けではない。説明をしているのだよ。知りたいのだろう?」
「はい。申し訳ございません。どうぞお続けください」
「であるからして、私はおよそ10歳の頃に、サラちゃんの許嫁の立場として、彼女らのことを教えられたわけだ。上の
世代には殆ど知られている事実なので、秘密というわけではなかったのだが。それから、幼い頃からよく敬之さんの釣り
に付き合わされ、彼から色濃く影響を受けた私は、自ずと親密になったおじ様の気持ちの一部、つまり早由香さんとその
娘のユラちゃんに対しる罪悪に共感したのであった。それから私は自ら望んで、ユラちゃんの教育に加わった。敬之さん
は喜んで許してくださった。こういうのもなんだが、たかが少年にすぎない私でも、彼の数少ない味方の1人だったから
ではないだろうか。早由香さんとユラちゃんへの償いは、敬之さん本人の業であり、和ノ宮のではないからな。最も、最
初のうち、私にも打算的な考えがあった。全く私のことを必要としないサラちゃんに、なんとか評価してもらいたいとい
う思いがあった。しかしそのうちに、そんな下らない目的もどうでも良くなった。ユラちゃんという子の面倒を、本気で
見たくなったのだ。理由は典子ちゃんあなたなら誰よりも分かっているのだろう。ユラちゃんは、彼女を見ている人間を
決して裏切らない子だったからだよ。ユラちゃん間違いなく逸材だった。芸術の分からない私にもそれが理解できるぐら
いだった。最初のうち、雇われた家庭教師は敬之さんの指示通りに、早由香さんの芸術を中心的に彼女に教えたが、ユラ
ちゃんは12、3の頃には既に母親のレベルには達していた。彼女のよく描いた落書きがそうだった。あれがまさに早由
香さんから受け継いた物にほかならない。ところで、貴方に自慢したことがなかったが、ユラちゃんの最も初期の作品を
持っている人間は他でもなく、この私なんだ。ユラちゃんは何度も、私に早由香さん風の作品を贈ったことがあった。し
かし、なんと言うか、彼女にとって、それが自分の気持ちを込めて作った贈り物というよりも、自分がこれしか持ってい
ない、通貨のような感覚だった。当時の彼女にはもう、呼吸をすることの如くに、それを描くことができたからだよ。そ
れを理解できた私は彼女に、それをわざわざくれなくてもいいよと言った。拗ねたわけではない。その落書きだけにこだ
わっていて、それ以外の可能性が見えていないユラちゃんに歪を感じたからだよ。そして、ユラちゃんはあれから私に落
書きを送らなくなったが、確かに変化が訪れたのは1年後ぐらいだった。つまり、私は自分がユラちゃんを変えたと自慢
しているわけではない。そうとは限らないのだ。それから、そう、ユラちゃんは写真を撮りはじめた。それが本当の、ユ
ラちゃんによる、由良姫の芸術のはじまりだったと私は思う。それが、ユラちゃんの14歳ぐらいの時だったと思う。あ
れからのユラちゃんはもう自分の考えを持つ1人の芸術家に成長したから、本当を言うと、もう敬之さんと私の罪悪感に
よる過保護から卒業しても良い頃合いだった。ところが、私はユラちゃんに親切にすることを辞めなかった。今から思え
ば、それはユラちゃんという存在に縋っていたからだと思う。しかし当時の私は、ユラちゃんがまだ人間として大人にな
って居ないと思って、やはり本心から心配をやめることができなかった。それが、私と、貴方と瀧本の分岐点だった。貴
方たちは最初からユラちゃんという存在を、大人として、芸術家として捉えて、見ていたが、私にはそれができなかった。
あれからもずっと、面倒を見ている子供のつもりで接していた。だから、確かに私は一時的ユラちゃんの助けにはなって
だろうが、いつの間にか、私の知らない間に、私の心配がついに、余計なお世話と化していたのだろう。なのに、やさし
いユラちゃんは決してそれを私に知らせなかったのだ。彼女にも分かっていたのだろう。本当に彼女の存在を必要として
いて、自分の価値を確立しているのが、私の方だったということを。それから、典子ちゃん、貴方の知っての通り、私は
貴方とサラちゃんにとって、ますます何でもない大人になっていた。ユラちゃんのことを本当に見ても居ないのに、ただ
連れ回しているだけの、ろくでもないお兄さんになった。そして、私たちの周りから、サラちゃんが居なくなった。それ
で私もやっと、気付かずには居られなかったのだよ。私はもはや、ユラちゃんの義理の兄という立場すらも失い欠けてい
るから、これ以上、ユラちゃんに頼っている訳にはいかないことが。なので自分から、ユラちゃんと連絡することを辞め
た。ユラちゃんは何も聴いてこなかった。私がなぜ、彼女を呼ばなくなったことについて。彼女にはやはり分かっていた
と思うのだよ。それが、ユラちゃんが18歳、プロデビューして実家を離れる一年前のことだった」
ここで、敏光が質問を挟める。
「ところで、その頃から、瀧本修がもうあなた方のコミニュティに入っていたのですか?」
「その通りだ。瀧本とは本当に長い腐れ縁だった。ところで、今の瀧本を見たのだろう?あのゴシックパンクの趣味だっ
て、ユラちゃんの影響だったと思う。ユラちゃんのお母さん、早由香さんの好んでいたゴス系の男になれば、ユラちゃん
の気を引くことができると企んでいたのだろう。その目的が虚しく終わったが、キャラクターが定着してしまったという
わけだ。典子ちゃん、貴方の言う通りだ。人間の性格なんて所詮、読んだ本などに基づいている物だということだ。瀧本
のあれも遡れば、早由香さんの時代に流行っていた、高原氏の著書でまとめられている思想そのものだよ。ユラちゃん途
中から他の哲学へ変わっていただろうが、瀧本はそこから抜けだせなかったというわけだ。いやはや本当に、今でも我々
の中にアリストテレスが生きているのだよ。貴方が現代の私たちに興味を持てないのも、無理はないことだ。そしてとう
ぜん、ユラちゃんが何処の何物であるかを、貴方が知りたいんだよね」
典子は自らに問う。ほんとうに、ユラのことが知りたかったのだろうか。ストーキングまでした人間だ。興味がないと
いうことはあるまい。しかし、その興味は、何処までだろうか。根源までが知りたいと自分は思ったのだろうか。それは
即答で片付けられないところである。人間の興味にはいろいろな種類がある。例えばすきな服の場合、どのような素材が
用いられていることが気になるときもあれば、デザイナーの素性まで調べてしまう場合もある。そして必ずと言っていい
ほど、デザイナーまで辿り着いてしまったら、持っている服そのもののミステリアスが半分が失われる。そのデザイナー
のデザインした他の物に興味を見出すのと同時に、それが失われるのである。何度もそれを繰り返した人間なら、自ずと
警戒心を覚えるわけだ。本当にすきな気持ちをいつまでも保ちたければ、ある程度の距離を保つことも大切だということ
が分かる。知れば知るほど好きになる物は、本当に無限なほどにマクロで、深みを持っている物でなければならない。宇
宙や学問が相手ならそうなっても不思議はないが、ほんの百年しか積み重ねることができない、有限でちっぽけな人間は、
物理的に無理だ。だから、英司さんがあんなにもサラにどうしよもなく惚れ込んでいたことに違和感があった。サラは、
宇宙ではなかった。知ることができる。そして当然、ユラも然りである。だから自分はある程度ユラに崇拝しているのと
同時に、むろん客観視するところもあった。知らなくて良いことまで知ろうと思わなかった。しかし、今はもう、そんな
ことが言って居られる場合ではない。現に、自分の知らないユラを英司さんが知っている。瀧本修までが、知っている。
それでは捜査に不都合が出るから、このまま容認して置くわけには行かないのである。
「はい。その通りです。私は知らなければなりません。ユラの、全てを」
「よかろう。その意気は賞賛に値するよ、典子ちゃん。貴方は私と違って、意気地なしではないようだ。ところで、なん
という名前だったか。たしか吉村さんと言ったか。典子ちゃんは吉村画伯のことを知っているかい?そう。ユラに絵の教
授をした先生のことだ。ええ、とは言っても、先言ったようにほとんど早由香さんの作風をペースに教えていたこれどね。
吉村さんは、早由香夫人とも古い知人だったようだ。ええ、かれこれ15年ぐらい前のことになるが、ユラちゃんのこと
が気になるから、何度か話したことがあるんだ。敬之さんは決して早由香さんのことを話さなかったから、私の知ってい
る彼女の情報はむしろ吉村さんからの受け売りが多いだろう。彼の話によれば、早由香さんも本当に才気に溢れる女性だ
ったが、いま興味あるもの事にすぐ夢中になり、表現方法を選ばずに描いたり作ったりしていた。つまりどちらも芸術家
としてはとも正しいのだが、ユラちゃんとは全くタイプが違っていた。ユラちゃんにとって、現実は彼女自身が言ってい
たように、あくまでも彼女の目指した高みを登る階段を作る材料にすぎなかったのだろう。聞かずともよい。典子ちゃん、
いや、貴方たち2人共、むしろそれがも知りたいのだろう。その高みとは何処だろうと、ね。残念ながら私も、知らない
んだ。だけれど、確かに言えることは、彼女はこの世ではない何処かを、ずっと見ていたということだ。私は昔からそれ
をずっと知っていた。だから、サラが戻って来てあんなことになって、私が遂に死ぬことに決心した時に、彼女にあの絵
を描いてもらった。そうだ。「烏の国」だ。私が頼んだのは、地獄の風景という内容だった。無茶苦茶に聞こえるだろう
が、私はね、なんとなく、ユラちゃんなら見えているんじゃないかという気がしていたんだ。そして、どうだろう。彼女
は描いてくれた。私の、とても納得した答えを、くれた。あぁ、上城さんなら見てみたいと思うのだろう?なんのことな
い、あちらの壁に飾っているのが、それだ」
もちろん、加藤英司の部屋に入ってから、その絵の存在に気付かない敏光ではなかった。ただこのタイミングが必ず訪
れると見据えたから、詳しく観察はしなかったのである。そしていま許しを得たから、敏光は立ち上がり、絵の前に移動
した。典子も後に続いた。彼女も実物を見たことがなかったのかもしれない。「烏の国」は「リアル・ワールド」ほどで
はないが、由良姫の作品の中では比較的にサイズの大きい方だった。理由はおそらく、一つの人物、あるいはコンセプト
や情景ではなく、「世界」を求められたから、表現するのにそれなりのディテールの量が要るのではないだろうか。大雑
把に言うと、黒を基調にした画面に夜空、草原が広がっている。画面の右上に三日月が浮かんでおり、その上に女性らし
き影が座っている。ぱっと見の印象だが、月その物が女性の持っている鎌のようにも見える。そして、画面の左側には、
地平線に近づいているほど遠いところに中世ヨーロッパの要塞と思われる城の影がぼんやりとある。その城に続いて行く
石畳みの小道が草原を横断し、遠近法のためにこちらへ広がって来る。その道を、黒髪の少女たちが黒衣を帯びて、疎ら
ながらも一列に並んで、城へ入って行くのである。由良姫なりの、地獄の入り口だということが分かる。月に座っている
女性の影がすなわち監督役の悪魔で、歩く少女たちが死者だという意味のだろう。しかし、この絵からは由良姫の死生観
が見える。彼女の描いた死後の世界は非常に慎ましく、侘びしく、そして美しくて、ナチュラルであった。そして死者の
少女たちに感情はなかった。よくある宗教画のように、罪人たちが裁きが下されることに怯えていたり、懸命に祈ったり
する姿勢ではなかった。かと言って、南十字星で先立った母親に会いに行くために銀河鉄道に乗ったあの少女の生き生き
とした望みももちろんなかった。この少女たちは、なんともリアルに、歩いている、美しい死体のように見えるのだ。こ
こで、敏光は何時しか聞いたことのある、一つの人体造形学の説を思い出した。言わば、絵が分からない人間には直感で
分かりにくいのだが、生きている人間と死体の顔の筋肉が違うだそうだ。そして、ルネサンス期の巨匠の何人かは、生き
る人間の顔をわざと死体のように描いたことがあり、それで気付かなかったこともあったようだ。というのがもし事実で
あれば、由良姫は実にオーダーの希望通りに、動いている死体の群れを、麗しく可憐に、見事に描いたと言わざるを得な
い。そしてこの世界は憧れの天国でも、残酷な地獄でもない。ただの遠く儚い彼方である。ここのところはむしろ仏教的
な観念に近いにのではないかと敏光に思われた。とはいえ、このように感じるのがもし横方式に例えるなら、いちど整頓
をして、縦にして改めて全体を俯瞰してみる必要がある。となると、「天上のスカーレス」では、確かに由良姫には素晴
らしき天国が見えているように思われるほどの、宗教的な素晴らしさがあった。今川信介のような人間すらが感動してし
まったことが、何よりの証拠である。そして、あれがオーダーの絵ではなかったということは、少なくても、あの時期に
於いて彼女が本心から望んでいる物だと考えるのが妥当である。に対して、この「烏の国」は違う。これはむしろ、由良
姫が想像した、加藤英司という人間が望んだ、彼の心象世界なのではないだろうか。だとしたら、由良姫が、何故オーダ
ーの絵を描くという、最初から疑問の答えに届きそうな気がする。彼女は、そう、自己表現をするのに飽きたらず、他人
の内心をも研究して、絵という形で表現するのが好きなのではないだろうか。彼女とって、おそらく、それが面白いのだ、
そしたら、彼女がなぜ同じ作風に限界を感じないか、飽きないかという疑問も自ずと解かれる。これで筋妻が合うのだ。
しかし、であれば、もっと複雑になって行く一方ではないか。どの絵が、誰を描いている、全部わからなくなり、振り出
しに戻るわけだ。そして今まで見えなかった、彼女が狙われる動機がいくらでも考えられる。これでは、とんでもない疫
病神もいいところではないか?何故なら、彼女はナチュラルで、人間の心理を深く掘り下げて、分かる人ぞ分かる絵で明
らかにしているだ。生半可な風刺画よりも質が悪いと思われても仕方がない。そうなると、ますます、この絵が加藤英司
にどう思われたか、ないし、由良姫がどういう目的で描いたかを知らなければならない。敏光はあらためて今まで感じた
こともない緊張感で、おののいた。
「加藤さん、して、貴方はこの絵に満足しましたか?」
「ええ、もちろん。やさしいやさしいちゃんがこんなにも頑張ってくれたことがまず私を感動させた。彼女はなんとも、
素晴らしく、最後の介護をしてくれたのだろう。向かい先がここなら、私には文句がない。そして、彼女が私の意思を認
めてくれたことも何よりも嬉しいのだよ。私はこの少女たちの列に入って、あの遥か彼方にある城を目指しても良いのだ
と、彼女は言っているのではないか」
「つまり、ユラは英司さんの自殺の意思に賛成したのですと?」
と、これを典子が質問した。
「そうだ。この絵こそが何よりも分かりやすい、ユラちゃんの言葉ではないか。「烏の国」は、私を拒んでいない。そう
であろう?」
そう断言するのがいささか早計な気もするが、典子のぱっと見た印象が英司の解釈と同一していることは事実である。
確かに、この絵には拒絶な意思がない。かと言って、誘う意思も見当たらない。英司さんとユラの関係と立場を考えれば、
この答えもまた自然に思えた典子である。だが、瀧本修をきっぱり拒んだあのユラが、英司さんの意思に真摯に対応した
ことが心に留める点であると典子は思った。
「ところが、この絵は2年前の物ではありませんか。その、こう申すのはなんですが、英司さんは、自殺をしなかったの
ではありませんか」
「ははは、典子ちゃん、わざわざ言わせてしまって済まない。その通りだ。全てに納得してしまって、心残りなく逝って
もおかしくはなかったこの私だが、生まれながらの怠慢さで、急いでいなかったのだよ。ええ、私は死ぬのが怖いわけで
はないよ?この「烏の国」へ行くならなんの不都合もない。そして生きる目的を見出したのでもない。ただ、そうだな、
まだ直ぐに逝かなければならないとも思わなかったからだ。典子ちゃん、苦しみと哀愁は忘れてしまう物だよ。生きてい
る死体に成り下がっても、相変らず、タバコと酒は旨い。そしてサッカーの試合が面白いときは面白いのだよ。私は決し
て長くはない。それこそ、催促が来ればすぐにも向かわなければならないと思っていた。ところが、これがこの世の可笑
しさだ。そんな物は2年が経っても来なかったし、あろうことに、私より先に、あのやさしい、素晴らしいユラちゃんが
先に逝ってしまうなんて... こんなの、あんまりだ。もちろん、私は思うのだよ。ユラちゃんの悩みを私の命だ解決でき
るのなら、何ぺんだって支払ってやるよ。だが、遅いのだよ。いつも、遅いのだよ。私も、敬之さんも、遅すぎるのだよ。
早由香さんにも、ユラちゃんにも、もう何も支払えない。私が何をしたところで、もうどうにもならない。敬之さんより
も、最悪だ。ユラちゃんには何ひとつ、してあげられなかった...」
「英司さん。そう考えても始まりません。それを言うと、私だって、何ひとつできませんでした。そして、状況が違うの
です。早由香さんは結局、敬之さんに頼りました。敬之さんの救済を受け入れました。だからサラとユラが居ました。ユ
ラは、ユラは、私たちに何かをするチャンスを何もくれなかったじゃないですか。それで、どうしたら、彼女を守ること
ができたというのでしょうか?英司さん。私も、貴方も、自らを恨んでいるし、決して許さないでしょう。しかし、この
点ばかりは、ユラも悪かっただと、私は思います。もちろん、早由香さんもそうでした。貴方の言ったように、私たち全
員が、間違っていました。最良の案が見つかりませんでした。いや、思考停止しました。狂気にも似たようなある種の観
念に囚われていました。そして、全てが、終わったように見えました。ユラも早由香さんもう居ません。サラは他の世界
へ行ってしまいました。もうこの中に居ません。だからこそ、私たちは整頓をしなければならないのです。さきほど言っ
たように。終わったことが、どうにもならない、なんていうことはないのです。整理はつきます。きっと。相応しいでは
ありませんか。私たち、「死者」にとって」
「ハハハ、その通りだ。ところで、典子ちゃん、正直に答えてもらいたいのだが、あなたは、楽しくなっていないかい?」
「私が、楽しいのですか?それはどういう意味ですか?」
「ことが、終わって、という意味で」
「そんなわけが、そんなわけがあるか!私のこの悲しみを、この絶望感を、英司さん、貴方なら分かると思っていたのに
...」
「いや?分かるよ?分かっているこそ、私の感じているこの気持が、貴女にもあるのではないかと思ってね。ねぇ、どう
よ。サラちゃんも、ユラちゃんも、居なくなって、私が悲しくないわけがないだろう?でもね?でも、酒がじっくり味わ
えるようになったから、もっと美味くなったのだよ。軽くなったのだよ、何もかもが。だからこそ、今まで見えなかった
ことが、感じることのできなかったことが分かって来るのだよ。典子ちゃん、あなたもさ、認めたらいいのだよ。今まで
肩にかかっていた重荷から解放されて、身も心も軽くなったこの事実を。そして酒が飲みたくなったら、今度は私を呼ぼ
う。もうあなたの着信は拒否しない」
いつかは精神が麻痺して、そうなるかもしれない。それを典子にも分かっている。しかしどうしてこの人が、あの感情
を乗り越えることができたのか典子には分からなかったから、尋ねた。
「英司さん。しかし、あなたは憎たらしくないのですか?野口守弘が。彼が、彼がユラを私たちから奪ったのですよ?敬
之さんが自分からすれ違った早由香さんと違って、私たちのユラは、殺されたのです」
「私にはね、典子ちゃん、野口守弘という存在がぼんやりとしすぎて、あたかも、早由香さんを奪った病魔や運命と同じ
ように感じるのだよ。そして、彼という悪魔の手先がユラちゃんに接近するところから、私たちがユラちゃんのすれ違っ
ていたのではないだろうか。やはり同じことが繰り返されたのだよ。だって、そうだろう。彼はなんでもない。ただ運命
の死神のように、現れては、ユラちゃんを連れて、行った。そんなモノを、私に、人間のように憎めと言うのか?」
「しかし現に、彼は人間だったのです。死体が、そこに転がっていますよ?死神なんかじゃありません。この世に、実在
していた悪意なんです」
「なるほど、典子ちゃん、貴方は確かに彼を知っていたね」
「そうです。死体も見ましたし、素性も調べました。人間から生まれた、なんの変哲もない人間だったのです。両親とも、
まともな人物でした。そんな人間が、殺意を持って、ユラを殺したのです。英司さん。貴方はこれを認めなければなりま
せんよ。運命じゃありません。敵であります。つまり、なぜ私がここまでするかと言うと、彼に生き残っている共謀者が
居たかもしれません。私たちが、その人間を何としても裁かなければならないじゃないですか」
「ほー、少し待って。彼が人間だった。それは認めよう。私よりあなたがよく知っていたから実感できたのだろう。しか
し、なぜ、共謀者が居たと思う?彼がユラちゃんを恨んで、無理心中をしたのではないのか?」
「そこからは私がご説明いたしましょう」
と、敏光。
「仰るように、この事件は刑事的な意味で終わったのです。しかし、典子様と貴方様が感情的に納得が行かないという理
由を別にしても、不審なところは、確かに存在します。それも一つや2つなんという生半可な物ではないのです。まず、
由良姫が居なくなって、都合が良い人間が多すぎたのです。その全員が野口守弘となんの繋がりもありません。これは偶
然にしてはできすぎています。よろしいですか。ケネディが死んだら、例えなんの変哲もない掃除婦にやられたとしても、
誰もが裏があると考えざるを得ないのです。そして、前兆も確かにありました。由良姫が如何なる理由にしても、「火の
中の女」を描く時に、何かを予感していたのに違いありません。その絵は死亡メッセージでほかなりません。それから、
肝心の容疑者の野口守弘だが、疑問の残る点が多すぎます。加藤さん、貴方がぼんやりとしすぎていると表現しても仕方
がないほどに、彼という存在が筋妻が合わないのです。であるからして、如何でしょうか?彼が運命の死神と言うよりも、
誰かに操られた駒と考えた方が妥当ではありませんか。しかも、捨て駒です。貴方たちには、いや、この私にすら馴染み
がないのですが、対象を殺したら自らをも消す暗殺者が、歴史上では実際にたくさん居ました。殺し屋本人の事情はとも
かくとして、金銭だけで、そう言った者を動かすことが、嘗ては、歴史上ではできたのが疑いようもない事実です。して、
もしそんな駒が、今の世の中にも存在していたらどうでしょう。由良姫を消したい存在がそれほどの金を出せない、出さ
ないとお思いですか?そこまでして、和ノ宮を消したいと考える人間はいったい居るのだろうか?とお考えになるかもし
れないけれど、そこまで、ではありませんよ?率直に申し上げますと、端金で、できたことです。そうではありませんか?」
「私の口からは言いたくなかったことですが、彼の言う通りですよ。英司さん。もし野口守弘がただの駒だとしたら、こ
のままでは、済みませんよ?私たちの骨が砕くまでの、戦争になります。英司さん、酒は、飲みましょう。敵の死体の上
に座って」
「... わかったよ。典子ちゃん。私はこの通り、失う物がこれ以上何もない。しかし、その相手がもし本当に実在するの
なら、復讐したい気持ちは貴女と同じだ。貴女の砲弾になろうではないか。できるものならばね」
「ありがとうございます。英司さん。さて、では、そういう意味も含めて、あなたから、他におっしゃいたいこと、思い
当たることはありませんか?」
「なるほど... そうだな... 何から考えるべきだろうか?」
「消去法です。由良姫を消した存在がもし居たとしたら、それがどういう人物か。そして、それができた人物は?」
と、敏光
「ユラちゃんを、消した存在か」
「...」
ここまで来て、典子はもはや見守るしかできなかった。考えてはならなかったことを、いま目の前のこの人にさせよう
としているのである。そしてしばらくしたら、加藤英司は重々しく口を開いた。
「私には思い当たらない。むしろ、上城さん、貴方の言っていた、「由良姫が居なくなって、都合が良い人間」というの
が聞きたいのだ。それが誰で、何故あなたにそう思うのだろう。説明してもらおう。そしたら、私にはYESかNOか、判
断することができる」
「よろしいですか?典子様」
これはとんでもない事態だと典子は瞬時に判断した。予想を反して、ゲームが突如に進みすぎたのだ。敏光ともあろう
者が、まさかこのようなヘマを犯すとは思わなかった。ダメに決まっている。危険すぎる。英司さんがどちらについてい
るかが、まだ分からないではないか。敏光には考えがあるかもしれないが、自分の方はまだ着いて行く体勢が整えていな
いから、このタイミングでは辞めてもらわなければならない。
「いいえ。先入観を誘導してしまうのは良くないと思います。英司さん、それでは貴方の印象を歪めてしまいます。もっ
と確実に、英司さんにしか分からない事実と、気持ちがあったはずです。それにこそ意義があるように思えます。例えば、
そうですね。前から気になったこが、今だからこそ聞いてもらっても良いと思うことがあります。事件の解決ために、で
す。貴方と、ユラの婚約についてです。お分かりになりませんか?その事実が、誰かを刺激したと考えても可笑しくない
のです。野口守弘という、仮初の人物以外の誰かを。しかし実際に、やられたのはユラだけでした。それは何故でしょう
か。不明瞭になっているところを解き明かすには、まず私は、そのことの本質を知りたいのです。つまりは、そうですね。
貴方達は、何を考えて、あんなことをされたのですか?」
「そのことだったら、なんのことはない。私が隠したいのではなく、それほど語ることはなかったのだよ。私の考えは先
も言ったように、ユラちゃんにしてあげられることがあれば、なんでもするつもりだった。恋愛ではない、義理だ。もち
ろん、貴方の聞きたいのはこんなことではなくて、ユラちゃんが、どうして、だよね。ユラちゃんはね。「サラのできな
かったことをしたい」と言ったのだよ」
「失礼ですが、それは具体的にどういった印象だったのですか?つまり、それは姉への敵対心ですか?それとも、姉の果
たせなかった義理を尽くす、という意味ですか?」
「私には、後者に近いように思えた。でもね、ユラちゃんの考えていることはね、義理という言葉で簡単にまとめられる
ような物ではないようにも思うんだよ。最も、私が人間の感情を分別のできない存在だと思っているわけではないよ?実
際に、私自身は単純明快に、義理だった。しかしユラちゃんはね、本当の意味でもっと複雑だと思う。彼女の言う「サラ
のできなかったことをする」というのが、そういう類の、彼女とサラにしか分からない意味があると思う」
ここで典子は思い出す。サラも同じことを言ったではないか。「ユラは私にできないことをする」と。そして更に、あ
のように説明もした。10年以上前に。あの頃はただ、サラがユラのことを軽んじているように感じて、深く考えなかっ
たが、まさかユラの口からもこの言葉が出るとは思わなかった。しかも、ただ言っているだけではない。あんなことまで、
した?
「私たちは2人にして1人、と?」
「典子ちゃん、それは何処から?」
「サラが言ったのだ。中学校の頃に、私がはじめて彼女に、ユラのことについて聞いたときに。私にはとても文字通りの
意味で理解することができませんでした。彼女にまともに話す気がないと感じ、話を続けることを諦めたのです」
「なるほど、ユラちゃんははっきりと私に、そうは言わなかったが、印象としては、貴方の言ったその言葉のようだった。
そしてやはり、私にはとても理解しかねる要素があるみたいだし、分かるまで説明する気もなさそうだったから、あれ以
上聞くことができなかったのだよ。それでね、私は思ったのだよ。もしかしたら、彼女らは本気で、自分たち2人が同じ
人間のカテゴリで収められているように思っているのではないかと。だから、この、ユラちゃんがサラちゃんの約束を果
たすという件で、私に対するのは義理だが、彼女ら姉妹の間にある物をも、義理だと言うのには、語弊があるのではない
か?と思ったわけだよ。私には双子の兄弟が居ないし、そう言った考え方があり得ない、とも断言できないところだよ」
「私にはも年の近い姉妹が居ますが、双子ではありませんね。しかしこの場合、分からないからと言って、まるで空気中
にある透明の竜を話すかのように、不可能ではないことを、不思議ではないと考えてしまうのは良くないと思います。そ
れではまったくオッカムのかみそりから乖離してしまいます。こう考えてみてはどうでしょう。歴史上に、双子をテーマ
にした創作の物語がたくさんあった。もちろん、作者たちが実際に双子だったとは限らない。しかし、本当の双子はたく
さん居ます。その人たちから、あの話なんて眉唾だ、というような指摘がなかったところからして、物語で描写された双
子の持っている感情は、実際に現実の人間のそれにも近い物だと考えても差し支えはないでしょう。して、私たちにも読
める、物語の中の双子たちを検討して見ましょう。私には、全ての物語が最後に、結局人間は別々だ、というようにアピ
ールと思います。そうでしょう?けっきょく、兄弟は一心同体ではなかった。だからあんなことになった。そういう話ば
かりではありませんか?」
「しかし典子ちゃん、それが面白いから、そう書かれるのではないか?」
「それはどうでしょう。サラのユラが話していることが本当なら、それは十分に面白いとは思いますよ。しかし今までそ
んな話がでなかったのは、やはり理屈に合わないからなんじゃありませんか?もっとこう、物理的に考えて見ませんか?
彼女らは、まったく異なる場所で、全く異なることを経験して来ましたよ。受けた教育までが、違います。そして、あの
奇妙な言葉の一致の他に、彼女たちは同じ質問に対して全く違う反応を見せて来たのではありませんか。例えば、人工生
命体が人間の基準に達しているかどうかを、私たちはどう判断します。私が人間、それがそう主張したら人間である、と
いうわけには行きません。試験をしなければなりません。人間の反応を示すかどうか、何%示すか、ということを。それ
をサラとユラの間でやって見ましょう。サラがユラの反応を示したのが、0.0001ぐらい、あの言葉だけです。ユラも然り
です。これでは、意味がありませんよ?私たちの教わった、正しい人間の定義では、それを別々の人間だと言うのです」
「ところが、彼女たちは正しくない定義を教わった、としたら?」
「それでは、私が昔から感じていた印象と違いありませんよ。ただの強引なこじつけです。英司さん、貴方の言うように、
彼女らの言っていることがもし「義理」ですらなければ、私には、それが「口実」だと思われるのです。つまり、客観的
に見て彼女たちは2人の人間でほかなりません。別々の目的を持って行動していたのが明らかです。そして都合の良い時
に、「1人」だと言いはるのです。そうではありませんか?」
「つまり、典子ちゃんは、ユラちゃん達のあの言葉は、何も答えていないのと同義、だと言いたいのだね?」
前から感じていた程度よりもひどく、同情とも、絶望とも言えない、加藤英司に対する、ある種の煩わしい感情が典子
の頭をよぎる。はたまたこの名俳優の演技か?
「はい。英司さんのその双子の幻想は、おそらく、サラとユラ姉妹が、言いたくないことを誤魔化す時によく使われた、
口上だと思います。誰から学んだがかは知りませんが、二人共その演技を知っていました。して、私も見事に誤魔化され
ましたが、すぐそれが下らないことだと見抜くました。そして英司さん、貴方はそうして、理由も知らされずに、ユラの
企みに承諾してしまったのですね?あなたと言う人は!」
つい感情的になった典子は、自分が怒っている相手が間抜けな加藤英司、それとも今更コメントのしようもないほどい
ろいろな意味でやってくれたユラ、それとも未熟な自分自身に対してか、すぐには判別がつかなかった。最も、精神が乱
れ、焦ってしまった原因は、敏光が悪いタイミングであんなことを言い出したのに違いない。「この借りは覚えて忘れぞ」、
と典子は敏光の方に一瞬にらんで、考えた。
「ハァ、典子ちゃんに見直してもらうつもりで話したのに、これじゃ余計に評価が下がったか」
「当たり前です。これでは話しになりません。さて、それでも話を戻しましょう。あれから、貴方たちはどうなったんで
すか?」
「なんのこともない、今まで通りだったのよ。前にも言ったように、サラちゃんが渡米したあと、私は8年ぐらいユラち
ゃんに連絡することを自粛した。最も、まったく合う機会がなかったことは私も予想外だったよ。だって、彼女が家族の
パーティーに来なくなるようになったじゃないか。典子ちゃんとは稀に合うのに、ユラはまったく私の世界から消えたか
のように、全ての接点をなくした。その状態が2、3年も続いたらね、分かるだろう?連絡したくても気まずくなるから、
できないよ。して、おかしな話だが、サラちゃんの結婚式が、私とユラちゃんが8年ぶりに再会した日でもあった。あの
日話したことは残念ながら、私の精神が激しく揺れていながらも演技をしなければならなかったから、具体的に覚える余
裕がなかったのだよ。ええ、誰が誰に歩き寄ったかまでは、それは覚えていない。私がそうしたのかもれない。あのタイ
ミングでユラちゃんを見つけたら、きっと、抱きついて泣き崩れたかったのだろう。そして、たまたま、彼女と私の隣に
誰も居なかった。それは自然なことだろう。ユラはもともとそうだし、私とは、誰もあの日に話すことがなかっただろう。
して、あの後、私たちは2人で二次会に行った。私はあの場で酒の勢いを借りながら、たくさん話した。話すつもりのな
かったことも、話すべきないことをも。まあ、ここで誤魔化すのもなんだから、率直に言って、サラちゃんの文句だった。
私は、ユラちゃんになら分かっていると思った。私がこの20年間、どのようにしてサラちゃんに貞操を守って来たこと
を。私が、何一つ負い目を感じるうようなことをしなかったということを」
「して、ユラは、どう反応しました?」
「今から思うと、そうだな... ユラはユラなりに私を慰めつつも、どこか、私の話を聞いているようで、聞いていないよ
うで、上の空だったように思える。その時はとくに違和感が感じなかった。彼女もまた、サラちゃんが私にした仕打ちに
ついて考えていたのではないかと、思った。それから、その日に、私は彼女に絵のオーダーを頼んだ。ええ、そのあとの
オーダーオークションには参加したが、形ばかりの三文芝居だった。いくらになっても私は買ったのだろう。あの日は、
本当にとてつもないほどおかしな気持ちだったのだ。この私が、あれから一度も関心を持たなかったユラちゃんの絵が、
本当に見てみたくなった。そう思えたら、私がサラちゃんを失ったのみならず、この目の前の、本当は優しくしてあげな
ければならなかった妹の事実が、更に私を惨めな気持ちにさせた。そのときの気持ちだからこそ、私は、ユラちゃんには
きっと地獄が書けると思った。ユラちゃんも、幸せそうには思えなかったからだ。そのことに、無論私にも責任がある。
だから、今度こそ、この絵で、ユラちゃんと分かり合おうではないか、と思った。反省のつもりもあっただろうが、今か
ら思うと、それがあまりにも虫がよく、またしても、ユラちゃんにしがみつこうとしただけのことだった」
「して、貴方達はあの時点で、今度の婚約のことについて話したのですか」
「それは全くしなかった。その時に、もしユラちゃんからその話が来たら、私は衝動でユラちゃんを抱きしめたのかもし
れない。が、やはり、冷静になったら、婚約発表なんかできるわけがないよ。だって、そのタイミングだと、サラちゃん
への当て付けになってしまうではないか。その気持ちをユラは持っていないし、私にあったとしても、せいぜいユラちゃ
んに愚痴を語る程度だったのだよ。あんな破天荒な行動に出る勇気などあるわけがないさ。だから、あの時は、誰もそん
なことを考えても見なかったと思う。まぁ、あれから2年が過ぎ、状況が変わったから、今度の婚約が可能になったわけ
だよ。今や、私が惨めになることだけで済むのだから。しかし、そうだな。このことも認めて置こうか。あの時点に、私
が自暴自棄になり、気持ちが一度ユラちゃんの方に移ったことが、確かにあったと思う。つまり、「烏の国」の絵の内容
次第で、私は、ユラちゃんを愛してしまったのかもれなかった。ところが、そうのようにはならなかった。ユラちゃんは
ちゃんと、私を安らかに送り出そうとしたのだ」
敏光は思う。なんとも面白いことに、瀧本修に描いた道化師の絵のみならず、この「烏の国」もまた、愛を拒絶する絵
だったとは。そしたら、「蒼き枝垂れ桜」は本当のところ、どういう意味だった?そして、肝心な「アーシャ夫人」は?
今一度、由良姫のオーダー作品をチェックし直す必要がある。落札者の情報を調べつつも。
「なるほど、そして?それがどうのような変化で、今度のことに繋がったわけですか?」
「それが分からないんだ。あの時でもし私たちがお互いに気があることを伝え合ったら、こいうなっても、不可能ではな
かった。ところが、実際にそれがなかったわけである。私たちはあれ以上、普通に連絡を取り合うとうな知人に戻った。
最も、立場関係は一変したがね。私は義理の兄から、ただの、死にぞこないろくでなしの男になった。ユラちゃんは私に
対して「あーまだ生きているのか」と確認したら、それはそれで良し、としか思わなかったのだろう。私も、昔のように、
先代から受け継いた申し訳ない気持ちでユラちゃんに親切するような、偉そうな考え方が全くなくなった。ただそうだな。
ユラちゃんが浄化した悪霊のように、彼女の周りでさまよって、この素晴らしいお人のこれからを、もう少しでいいから
見てみたい、という気持ちになったのではないだろうか」
「英司さん。野口守弘もね、遺書で似たような表現をしました。由良姫先生に救われたから、恩返しをしたいという唯一
の気持ちで生きて来ましたと」
「そっか。だとしたら、ユラちゃんは本当にとんでもない救済者であったことになるね。いやはや、今川信介様までが彼
女のことを認めたのも、不思議はないね」
それはどうなんだろう。典子はにわかに不思議な気持ちなったところである。ユラが、救済をしただろうか。少なくと
も、救われても良かったはずの英司さんは、このざまになっている。こ客観的な視点から見て救われたとは言えない。ユ
ラが救ってもいない。そして、野口守弘は?瀧本修は?この私、は?私たちはいったい誰が、救われたのだろうか。にも
関わらず、おそらくは誰もが、一度は救われたように思われた、錯覚してしまった瞬間がある。これは、ユラの魔力で他
ならない。他の人間にそれができるわけがないのである。
「英司さん、いまさらだが、もし機会があれば、瀧本さんとも話してみたいと思います。彼とは、まだ付き合いがあるん
ですか?」
「あー、なるほどね。その気持はわからなくもない。しかし、昔からいがみ合っていた貴方たちが、可笑しくもこんな時
に... 世の中は何があるかわからない物だ。連絡はもうだいぶしていないが、喧嘩別れしたわけでもない。呼んだら、来
るのだろう。昔話をしにね。でもね、貴方達は、まだ終わっていないのだろう?」
「貴方も当事者の自覚を持ってください」
「おっと、そうだった。分かった。もちろん、私にできる協力は全面的にするよ。上城さんも、よろしく頼む。その、こ
ういうのは何だが、貴方のような頼りになりそうな男が典子ちゃんのそばについていてくれて、安心しているよ。まぁ、
典子ちゃん、今でも、私は貴方達のお兄さんのつもりで居るよ。役に立つかどうかはともかくとして、味方だと思ってく
れたら、嬉しんだ」
加藤英司がやはり愚か者ではなかったと敏光は確信した。先のところは、彼は「家族」と言っても良かったものを、敢
えて「味方」と言ったのに違いない。このタイミングでは、その言葉の方がより大切な意味を持っていることを理解して
いるからそう言った、と思えてならない。しかし、さきほど典子が危惧したように、実際は本当だろうか。あの自分の勝
手な行動を、典子は相当怒っているのに違いあるまい。あのところで加藤の立場を明確にさせてもよかったと思ったが、
これはこれで良しとしよう。残りは、典子への説明だ。
「おまかせ下さい。最後に一つ、加藤さん、貴方は由良姫本人が話した台詞の中の、興味深いのを覚えておられますか?
どの時期のも結構です。あるいは、文面などがあればなお望ましい。たとえば、手紙ななど」
「ユラちゃんの話した興味深い内容か、手紙か。ここ十年間に手紙のやりとりをしなかったことは確かだ。最近連絡を再
開したあとも殆どが電話だったから、履歴は残っていないね。しかし昔のならもしかしたらあるかもしれない。ちょっと
待ってくれ、ユラちゃんからもらった落書きは全部一か所に保管してあるんだ。文面の書かれたのがあるかどうか確かで
はないが、一度見せた方がいいだろう」
加藤が持ってきた宝箱型の収納ケースには、落書きが描かれた紙がたくさん詰まってあった。一部は紙とより紙切れと
いう表現の方が合うかもしれない。ティッシュに描いた物もあった。そして紙の変色具合から見て、古い物だということ
は分かる。使われている筆記用具は万年筆かマジックペンのような物だと思われる。黒インクでの表現しかなかったから
である。ここのところからは、幼年期の由良姫、いや和ノ宮ユラという少女にとって、描くことが自然にできた習慣の一
部だという印象が伝わる。絵の内容はどうやら由良姫の作風とさほど変わらないように見えた。風景、植物、建物、室内
の調度品、と、1人の人間の少女。相変らず、他の人間と生き物の姿がなかった。敏光がさほど成果を感じずに、半ば興
味を失ってユラの落書きを1枚ごとにチェックして行く間に、加藤英司が1枚の、比較的に大きくて形の整っている紙に
描いた絵を持ち出して、2人に見て欲しいという合図だった。その絵に描かれているのは、一つのかなり古いタイプのカ
セットテープを使うレコーダーのようだ。レコーダ自体の上品さを感じるデザインと由良姫のナチュラルな直線による描
写は評価に値するが、加藤がこの絵を見せる目的が他にあることは考えるまでもなかった。
「ユラちゃんはこのレコーダーについて、話したことがあるんだ。よくコレで、早由香さんの声が録音されているテープ
を聞かされたそうだ。これについて話したときのユラちゃんは、珍しく恐怖に哀愁にも似たような何かを感じたことは、
記憶にある。確かし彼女は「女の人の声は夜な夜な夢を通して訴えてくる。そして今なら分かる。その言葉の意味も、心
に響いた理由も。女の人はきっと私たちの母だったのだ。もう一人の私たち。」という風に話したと思う。だから私はあ
の時思ったよ、ユラちゃんはお母さんになることを、お母さんの芸術をやり続けることを、本当は快く思っていないので
はないかとね。それから彼女に、自分の絵を描いてみないと提案したわけだ。今日のところは、これぐらいか。また思い
出したことがあれば、こちらから連絡するよ」
加藤のところから出た2人は、一切会話を交わさないままに、いつもの立ち聞きの心配をしなくても良い喫茶店の個室
に入った。そして、案の定...
「どういうつもりだ?」
「典子様。貴方様が慎重にされておられるは分かりますが、彼は、味方になるとアピールしたのですよ?その思いを、無
駄にすることはあるまいと考えまして...」
「それを判断するのが私だ。出すぎた真似を!」
「申し訳ございませんでした」
「して、英司さん、と話して、貴方はどういう印象を受けた?」
「もちろん、収穫はたくさんありましたよ。それについては心配ご無用です。ただ、期待した程の情報が手に入ったかと
いうと、残念ながらそうではありません。よろしいですか。貴方と、加藤さん、瀧本さん、誰一人として、由良姫の話し
たことを、良く記憶していなかったのです。野口守弘の遺書に書かれた内容を加えて、いまは4つのぼんやりとした映像
が重なっている状態です。ところで、ハイダイナミックレンジ合成という技術をご存知ですか?はい、その通りです。今
はまさにそのように、4つ撮れた不明瞭な写真で、お互いの白飛びや黒潰れになってしまったところを補い、一つの画像
に合成して行く作業ですね。では、整理をして行きましょう。あぁ、その前に、加藤英司さんについて、一つ言っておき
たいことがあります」
「というと?」
「彼が由良姫に仇なす存在に肩入れすることはまずあり得ないでしょう。しかし、お嬢様、彼と貴方とでは、一つの大き
な違いがあります。彼は間違いなく、過去に生きているタイプの人間です。つまり、私が見たところ、彼が今でもなお、
由良姫を守るために、何かを隠したと思われるのです。我々にとって不都合ではありますが。警戒するほどの相手ではな
いでしょう」
「私は、ユラの仇を取ろうとしているのよ?」
「それはその通りです。だから、彼は貴方の味方だと言いました。しかし、同じ陣営の中でも、将たちは各々の目的で行
動していることもお分かりでしょう。敵何としても屠りたい者もいれば、どこかの拠点を、なんとしても守りぬかなくて
はならないと考える人間もいます。しかし、一つだけ貴方達に似ているところもあります。非常に、ネガティブな意味で。
つまり、現実的な勝利を、誰も望んでいないということです」
「それは、そうだろう。ユラはもう、居ないからね」
「けれども、お嬢様、私は、勝利を望みますよ。悪魔の所業に終止符を打って、平和を取り戻さなければなりません。貴
方達がこれからも、遠い過去を偲んで、お酒が飲めるためにね」
「そんな、下らない明日のために?」
「はい。下らないけれども、楽しみもありますよ。その時になれば、貴方がきっと加藤さんの語った酒の旨さがお分かり
になりましょう。さて、事件の整理です。まず、幼年期の由良姫ですが、姉のサラと瓜二つほどよく似ている点について、
貴方と瀧本修の2人が証言をしました。ここで必然的に発生する可能性ですが、彼女たちは入れ替わることも可能だった
わけです。子供の遊び心で、それを一度やっても不思議はないと私は思います。ところが、貴方達全員の記憶の中には、
そのようなことはありませんでした。そうですよね?それがもしかしたら、入れ替わったが、一度もバレなかった、とい
う可能性もあるわけです。ここで、瀧本さんの解釈では、大人たちはその可能性について困っているから、彼女たちに別
行動を取らせざるを得なかったということです」
「だから彼の解釈はくだらないと言った。サラとユラの性格を知っている人間なら、誰も彼女らはそのような周りを困ら
せるような行動をしないことを知っているし、そんなことがユラが学校へ行かなかった理由にはならない。英司さんの説
明の方が余程理屈に合っているように思えませんか」
「はい。もちろんその通りです。由良姫とその姉の人となりを知っている人間には、そのような発想がなかったと思いま
す。貴方と加藤さんがいい例になります。そしてもちろん、由良姫の教育方針を決めているのが、彼女の父親、敬之さん
本人であるかどうかは分かりませんが、彼女たちを知っている人間でありましょう。従って、和ノ宮ユラが学校に行かな
かったことの理由については、加藤さんと貴方の証言が信頼に値します。ところが、瀧本さんの証言もこれとは矛盾して
いませんよ?つまり、事情の分からない人間たちが、彼のように印象を受けたかもしれません。いかがですか?お嬢様、
その時に、和ノ宮家のユラお嬢様について、周りが話していた噂が、記憶に残った部分はありませんか?」
「なるほど、貴方のその推測は当たっている。具体的な内容が、瀧本が言っていること同一しているかどうかは覚えてい
ない。が、そうであっても可笑しくはなかった。ユラの世間的な評価が耳を塞ぎたくなるほど悪かったという印象は覚え
ている。そして、サラをはじめとする彼女の家族たちに、それを正そうとする姿勢がなかった。前にも話したが、それが
私がずっとサラに不満を持っているところである」
「しかしお嬢様、どうして貴方はこの件について姉のサラの方に責任を求めていたのですか?まずは、彼女本人からその
意思がなければ、なんともならないのではありませんか?」
「ユラに何ができたというのだろう。そうだな、加藤が言ったように、ユラはまるで、和ノ宮のお嬢様ではないような扱
いだった。彼女には、使用人に命令をするというようなことが教えられなかっただろうし、使用人たちも彼女の望みを聞
こうとしなかった。だからそれが自然なことだった。サラは、自らの意思で育って、お嬢様になった。ユラは、自らので
きることで育って、芸術家になった。ユラは最初からお嬢様でもなければ、権力という物に概念もなかったのだろう。彼
女には、力が与えられなかった。落書きをする以外に、何ができたというのだろう。それは、次女が後継者ではないから
という面はあるが、それにしても度が過ぎている。まぁ、それぞれの家庭に事情は違うだろうが、見ての通り、次女のこ
の私がなんの不自由なく行きて来た。だから、ユラの待遇が、理不尽だった。英司さんもそうだったのだろう」
「それは違うように思われます。加藤さんは最初から、その和ノ宮ユラの育ち方の意義を理解していて、その枠組みの中
で善処しようとしました。対して、貴方はその全体に、不満を抱いておられました。2つの態度に、重なっていた部分が
一つの事実、実家に居た時代の和ノ宮ユラには、加藤さんと貴方しか味方が居なかったということでしょう」
典子はやや考えてから、一つの決意をした。
「上城、私たちは今まである種の暗黙の了解でここまで協力して来たことに、貴方も分かっているだろう」
「はい。典子様。貴方には貴方の事情があるだろうし、事件の捜査にとって不可欠なことでなければ、私の知らない方が
良いこともたくさんありましょう。そのことについては、むろん重々承知しております。なので、私はこれはこれで、結
構なのです。こう申し上げるのはなんですが、貴方だって事件の関係者の1人ですからね、観察の視点をある程度別々の
ところに置くことに、それほどデメリットはないと存じます」
「貴方のその、ある程度距離を置いたところで傍観者として観察しつつ楽しむゲームは、もう辞めてもらう。貴方の言っ
たように、英司さんが味方という言葉を口にした。つまり、ゲームはもうここまで来た証だ。後にはもう引けない。よろ
しいかい?貴方にはもし、私について、更に一方踏み込む覚悟があるのなら、私もそれに応えてもらおう。今から、貴方
に、話すべきではなかったことを話す」
「お嬢様、それは挑発ですか?つまり、もし私がここで貴方と約束をして、その軍門に下らなければ、もはや、表に浮か
んでいる偽物の情報に惑わされるだけで、真実にたどり着くことができません。と貴方はおっしゃいたいのですね」
「その通りだ。上城、私は貴方の能力を評価しているこそ、今までは貴方を野放しにして、独自に捜査をさせて来た。し
かし、さきほどの英司さんの会話で、私は痛感した。私が貴方に与えた情報と、貴方が自分から聞き出せる情報が、あま
りにも不足しているという事態がね。これでは、フェアではないし、せっかくの貴方の力を無駄しにしてしまうことにも
なる。だから、私は思ったのだ。もういいって。貴方さえよければ、私たちが今まで、お互いの矜持でやって来た、この
探偵比べのゲームはもう辞めにしようではないか。分かるだろう?そんな場合ではないんだ。私は、「彼」を屠らなけれ
ばならない。そして、貴方は社会の平和を取りもしたいのだろう。ならば、遊んでいる場合、ではない。でも、この門を
くぐれば、日常はなくなる。分かっているな?もし事件が終わって、私たちが勝ったとしても、私から多額の謝礼を貰う
のは当然だが、それからも、未来永劫に、守ってもらわなければならない秘密があるかもしれない。ここまでこれば、も
う商売ではないんだ。血の交わした約束と言うのだ。守って貰えれば、勝利した暁に、貴方は商売するよりも多大な栄光
を手に入ることになる。だが、裏切れば償ってもらう。そうなったら逃げ場はないぞ。引くなら、今だ。」
敏光は思う。いまさら過ぎた気もするが、状況的に遅すぎてもいない。典子はやはりよく考えて行動しているから、い
い依頼人である。それに、今だからこそ思うが、この人となら、勝てる気もする。
「お嬢様、貴方は探偵という職業の本質を理解しておられようですね。私たちにとってそれが商売だとしても、依頼人に
とっては人生に関わる大事の場合が多い。ですから当然、もらった金の分の仕事をするというわけには行かないし、事件
が終わったあとも、守秘義務も含めて責任がたくさん残る。たとえば、私の捜査の不届きがために冤罪が起こり、無実の
人間を絞首台に上がらせてしまった場合、私は名誉と職を失うのみには留まらず、親族からの報復は永久的に続くのでし
ょう。ですから、覚悟はとうにできております。この職についた日から、傭兵と変わりませんよ。それに、相手が人類の
敵の場合、とうぜん話は変わります。商売だから、引今なら引くことも可能だと貴方は仰ったが、それは、不道徳なこと
だから、商売でも、引けませんよ?最も、私にもし妻と子供が居たら一言相談したいところだが、残念ながら今のところ
それが居ません。斉藤の心配はありませんね。彼は乗り気です。次に加藤さんと杯を交わす時に、私も混ぜてもらいます
よ。ゲームの参加者、そして勝者として。仰った「多大な栄光」には大いに期待して置きますが、まぁ最悪は、それぐら
いでも結構でしょう。それと、そんなに悲観的に考えることもありません。今はまだ整理の最中でしょう。私は、感じる
のですよ。貴方の今から仰る事実が加われば、天秤がもしかしたら、もうこちらに傾くかもしれませんよ?」
「よろしい。せいぜい私がこれから、人間を見損なったことに後悔することがないように努めるがよい。では、話に戻る。
英司さんが言葉を選んで話したことが、もちろん私にも分かっている。そして、理由はおそらく貴方の言ったように、ユ
ラの秘密を大切にするというだけではないのだ。彼はとにかく、荻原光國博子のこと、つまりサラの旦那さんのことを避
けて、話をした。その理由は考えるまでもない、彼の気持ちの問題だ。しかし、荻原博士の話を除けて、私たちのことを
理解してもらうのは不可能だと、話を聞いているうちに、確信した。荻原光國博士の経歴と業績などについて、貴方はど
れぐらい知っている?」
「神経コントロール手術を成功させた、あの荻原光國さんのことですかね。和ノ宮サラの夫でもある人間。いや、偉人と
でも言うべきでしょうか」
敏光改めて、荻原光國について知っている一般的な情報を思い浮かべてみた。荻原光國博子は偉大な科学者にして、医
者でもある。30年の間には発表した論文の数々は、どれか一つを取り出してもノーベル賞を受賞してもおかしくないよ
うな、重大な意義をもたらす物ばかりであった。現代医学、生物学、化学、物理学など様々な分野に貢献して来た。とこ
ろが、その殆どがすぐに実践で使えるような研究ではなかったため、比較的に有名な「神経コントロール手術」のみが有
名で、科学に興味のない一般人に知られている。アインシュタインと「相対性理論」がそうであったように。
神経コントロール手術とは、脳髄と全身の各器官に繋いでいる神経を、自らの脳の意思で、切ったりまた繋いだりする
ことを可能にする手術である。それを受けたら、なにができるかというと、たとえば手の皮膚が切られて痛い時に、また
は蚊に噛まれてかゆい時に、その局部の神経と脳の連動を断てば、麻酔のような効果が得られ、手は痛いままだが、脳は
それを感知することができないのである。その神経を切り変える感覚は、息を止めるように自由自在にできる。極端な例
を挙げると、剣で斬り合いをするとき、先に腹を突かれても、その場で腹部の痛みを止めれば、相手と相打ちになれるこ
とができるわけだ。
唯一に残った問題としては、自由自在に麻酔が行えるとなると、何時どこでも安楽死が自発的に行うことが可能になる。
従って、自殺、または「捕まったら自殺」を前提とした重犯罪が増える危惧が考えられた。ものの、今のところそのよう
な現象が未だに確認されていない。また、すべての神経を一度全部切断すると、意識はそうしないと決して味わえない絶
対の暗黒、静寂、虚無に陥ることができる。それが快楽だと感じる人間も居る。短時間ならさしあたり問題はないが、そ
の感覚がくせになって、身体の限界まで脳に引きこもって、そのまま衰弱死になってしまった事例が多発している。しか
し、このすべての神経を切り離すことによって得られる安静状態にも積極的な運用方法がある。即ち、末期がん患者や事
故などで絶境に陥った人間に苦痛から逃れ、来るべき死までの間に安らぎのひとときを得ることができる。教皇庁から「私
たちは誰にも、何事にも、あらゆる感覚にも邪魔されずに、今までの人生を顧み、懺悔し、ゆっくり祈りを捧げる時間が
必要である」と言われ、キリスト教では宗派に問わず盛大に評価されていた。
また、「神経コントロール手術」は、若者の性欲に関わる煩悩を解決できる。腹が減る時に胃の感覚を止めてもエネルギー
不足で反応が脳と全身に伝わってしまうため、無意味であるが、性欲に関しては、生殖器官の感覚さえ止めればそれで事足
りる。膀胱のコントロールを止めたら失禁してしまうようなこともない。そして、アンチホルモンと違って、生殖能力を低
下させることもない。また、そもそも性欲を苦痛と考えず、享楽的な価値観の持ち主たちにとっても、一時的な禁欲生活を
行うための方法として、都合がよかったのである。
総じて、積極的な意義が多い「神経コントロール手術」は大半数の人間に受け入れられた。しかしながら、極めて高い
コストが掛かることが未だに問題点として残っている。この手術を行うにはまず受ける人の体から一部の細胞を採取し、
それから何ヶ月に渡って、その人だけのための新しい器官を培養する必要がある。その後手術にて、それを脳髄の増殖器
官として付け、脳髄から切り離した神経をその器官に繋いだら完了となるが、掛かる材料、エネルギー、時間、人力を合
わせたコストを考えると、今の世界ではとても全員が全員受けられるようなものではない。また、荻原博士はこの実験結
果と過程の詳細を学界に発表したものの、例の新しい器官の栽培に関しては「今のところは臨機応変な対応が必要である。
一つ一つの事例のレポートは提出するものの、判断をするときの絶対的な基準をまとめるのには、まだ時間が要る。現時
点で論じても机上の空論にすぎない。これからの臨床実験の結果に期待」と言い残し、この技術の要となる分野を公開し
なかったのである。各国の一流大学の医学部からエリートの留学生を受け、直接に技術を教えてはいるものの、10年間
に渡って卒業者が1人もなく、全員が全員そのまま彼の病院に残り、助手として働くこと希望することになった。従って、
現在に至っても、和ノ宮家の出資で、荻原博士が経営している病院の他に、「神経コントロール手術」を執り行えるところ
は存在せず。このことに関してはもちろん世論は芳しくなく、荻原氏と和ノ宮家の私利私欲のための独占的行為ではない
かという論調が濃厚である。
「ええ、その荻原博士のことだ。早由香さんの病気が深く進行し、現代の医学ではもうどうにならない時に、敬之さんが
最後の試みとして彼に早由香さんの治療を頼んだことまだは、知らないだろう」
「はい。そこまでは」
「実はその繋がりで、荻原と和ノ宮が組むことになったのだ。そのあとすぐに、和ノ宮の出資によって荻原の研究所が設
立された。そこでは、現代の道徳によって規制されていた新技術の開発も可能だったから、マッドサイエンティスト気質
の荻原博士にとっても都合がよかったのだろう。しかし、今はどうだろう。彼の評価が賛否両論だが、全世界の注目の的
であることは間違いない。もはや偉すぎるのだ。和ノ宮家が抱えるのには。敬之さんとの友情、早由香さんを救えなかっ
たことへの謝罪、と言った義理で彼を縛ることはもう難しいのだ。第一、荻原博子本人の気持ちをともかくとしても、世
間がそれを許さない。そして、敬之さんの世代ならまだしも、サラはなんと言っても、若造だ。「おじ様」のままでは、
サラは荻原博士を思うがままに動かすことができないのである。だから、彼を夫にしなければならなかった。英司さんに、
「サラの味方をしていない」と言ったのは嘘だった。サラはそうするしかなかったし、とても偉いことをしたのだと、私
は今でも思う。極端な話、サラがそうしなければ、私が兄に、荻原博士に嫁げと言われることも可能だった。最も、私な
んかじゃ荻原博士は頷いたりしないだろうけれどね。そして、荻原博士のことがこの事件となんの関係があるかというと、
こうだよ。荻原博士はまだ55だ。彼の病院がこれからの20年で生み出す利益の莫大さは、想像を絶するほどだ。今ま
では、誰もが和ノ宮の独占など一時的なことであろうと油断したが、サラの動きで、それがみるみるうちに、盤石になろ
うとしるではないか。なので、このままサラの思い通りにさせて置くわけには行かないと、様々な勢力が動き出したわけ
である。して、加藤家にとってはどうだろう。和ノ宮家から婚約破棄をされて、恥ずかしい目を受けたが、それを逆手に
取って利用する手っ取り早い選択肢があった。サラの代わりに、ユラを受け取ると加藤家が出張したら、負い目のあった
和ノ宮は断れないのだよ。英司さんとユラの関係がもともと上手く行っていたというのもある。こうすることで、英司さ
んが荻原博士の義理の弟となり、加藤家が和ノ宮とは実質同盟関係を築くことができるのだ。つまり、英司さんがああ言
ったが、実際に彼にはユラと結婚したい理由が十分にある。少なくても、彼の立場としてね。そうだね。つまり、英司さ
んとサラの許嫁はあくまでも上流社会の常例として、ナチュラルに決められた物だったかもしれないが、ユラとの婚約に
は、十分な政治的な意味があるのだよ。荻原博士の研究上を抱えている、サラの和ノ宮が、もはや敬之さんの時代とは違
う、ということだよ。であるからして、他の出遅れた勢力にとって、この状況は決して芳しくない。水戸家にとっても違
いはない。しかし、あのユラのことだ。私が男だったとしても、英司さんの代わりにはならなかったのだろう。英司さん
だけが、たまたまユラに受け入れられる存在だったと思う。最も、この件についてサラは反対していたけれどね。だから
婚約発表の日にも来なかった。まぁ、サラは英司さんも加藤家も取るに足らないと考えたのだろう。して、こうなってし
まえば、一層、ユラに退場してもらった方が都合が良い、と誰かが考えてもおかしくない。サラを支える絶対的な味方を
1人でも減らすためにね。それだけ、サラの敵がこの世にたくさん存在しているのだ。そしてご覧の通り、ユラがやられ
ても、大した騒ぎにはならなかった。所詮、由良姫は1人の問題の多いアウトサイダーアーティストとして世の中に見ら
れているから、政治的な意味が未だに大衆に認識されていない。その彼女が殺されても、暗殺ではなく一般的な殺人事件
として処理されてしまうのだよ。サラ本人をやるよりは、ハードルがずっと低かったわけだ。動機が、何処にでもあるの
だよ」
「しかし、野口守弘が現れたタイミングは3年前でしたよね。その時はまだ由良姫と加藤さんのことがなかったのではあ
りませんか」
「でもね、サラが帰って来て、荻原と結婚した後のことだったのは確かだよ。あの時の私には、まだユラが殺すという意
味で狙われるなんて考えられなかった。ただ、玉の輿を狙ってユラの周りにうろつく者が今までだってたくさん居たし、
あの瀧本修のようなのが、その意味でもちろん野口守弘には目を光らせたが、情けないことに、彼のことを信用して行く
一方だった」
「つまり、もし野口守弘があの頃から、由良姫のそばに設置された時限爆弾だとしたら...」
「首謀者の可能性が広すぎて、動機で絞る方法は、無理だ」
「しかし、典子様。この事件を政治的目的の暗殺として考えるにしては、あまり納得の行かない点が幾つかあります。ま
ず、やり方がらしくないのです。陰謀はいつか白日の下に晒されます。行動する側は常にそのリスクを覚悟しています。
これではただの悪行に見えてしまいます。普通に考えたらなんのメリットもありません。もし敢えてこのようにする組織
があるとしてら、それは恐怖を旗印にしているテロリストとしか考えられません。もしそうだとしたら、自分たちがやっ
たと公にアピールするはずです。なのに、この事件はどのような意図にも利用されずに、今やなかったかのように、沈静
化に向かいつつあります。それに、どうして、和ノ宮家が動かないのも解せません。もしこの事件が表面上のように、由
良姫が自分の行いで招いた惨事だと考えるなら、無理もありますまい。事を大きくしたら余計な悪印象を招いてしまうか
らでしょう。しかし、和ノ宮家に仇なす暴行だと考えたら、何の対策もしないのは考えられません。それでは、威信が落
ちます。なので、いかがでしょうか、この事件は?殺った側と、殺られた側、両方にとって、まるでこのまま終わった方
が都合がいいように見えます。というのでは、筋妻が合いません。やはり、私たちが最初に感じたように、誰をも驚かせ
た、突如として起こった出来事なのではありませんか?」
「その通りだよ。サラが積極的に捜査を執り行っていない。これがこの一連の中で、何よりもの不審なところで他ならな
い。サラが何を考えている?それが分かったら、苦労はしないよ。しかし、サラと話すのはまだ時期ではないのだ。分か
ってくれ。彼女はさきも言ったように、私たちとは違うゲームで、四六時中に常に苦戦しているのだよ。ユラが死んでい
るのに動かないなんてあまりにも薄情ではないかと、むろん私は憤慨しているが、彼女が既にこの態度を示した以上は、
行動したらどうにかなる、という根拠を見せなければ、やはり動かないと思うんだ。それに、貴方の指摘した通りに、組
織による長期間に渡る暗殺計画にしては、あまりにも感情的に理解のし難い点が多い。私もあくまでも、これは無視して
はならない可能性の一つとして提示しているのだよ。印象は最初から貴方と同じだ。ユラが人間同士の戦争ごっこに巻き
込まれたとは思えない。やはり、人類の敵による純粋悪の臭いがぷんぷんするのだよ。だからこそ、こんなことは別に話
さなくてもよかったと思った。しかし、協力して行く以上、私の独断で消去をするのは良くないと思ってね」
「なるほど、その判断は非常に助かります。典子様。少なくとも、その情報では、一つの事実が判明しました。即ち、加
藤さんの態度と立場です。彼が荻原博子の話題をしたがらないのはおそらく仰るように、感情的な理由でしょう。そして、
加藤英司が、唯一の動機のない人間です」
「そうかね?まぁもともと、英司さんは家の事情のために動く人間ではないと思うよ。おそらく、ユラとの件で、彼に後
押しをした人間が居るだろうけれど、決定的になるのは、やはり彼が語ったように、素の気持ちだったと思う。なので、
彼は別に嘘を言ってはいないと思う。ただ、意図的に面白くない内容を省略した。貴方の慎重な性格だから、その意図に、
意識しすぎかねから、私がこうして説明しているではないか」
「なるほど、ご配慮に感謝いたします。では、また整理に戻りましょうか。ところで、あのテープレコーダについて、貴
女はどう思われますか?」
「興味深いね。加藤の言ったように、ユラが加藤の提案で自らの作風を変えるような人間じゃないのは確かよ。それがあ
くまでもきっかけに過ぎない。つまり、ユラが自分から作風を変えるぐらいなら、母親の作風、ないし思想に納得してい
ない証だと思う。そして、英司さんにあんな風に話したぐらいに、抵抗を感じていた。その早由香さんの存在こそが、「リ
アル・ワールド」の残虐の女神ではないか?そして、ユラには、絵を描くのと、唯一の信頼できる味方、英司さんに語る
力しかなかった。なので、彼女を何もできないようにした、敬之さん、和ノ宮家、サラ、そして世の中全てが、摂理の女
神ではないか?だから、ユラは作風を変えて、「リアル・ワールド」を描いて、プロデビューをして一人暮らしをはじめ
ることによって、早由香さんの残虐から逃れることができた。それ以上、残虐は由良姫の絵から消えた。しかし、どこま
で逃げようと、摂理は消えない。その縛りはあいかわらずユラに何かしらの影響を与えていた」
「私の想像ともだいたい一致していますね。残った疑問は、慈愛の女神とはなんだったのでしょうか。由良姫が求めても
求めても届かなかった、それが。それが加藤英司だという可能性は、僅かにもないのですか?」
「貴方の見たとおりに、英司さんはこういうのはなんだが、言っているばかりの人間ではないか。彼はユラの悩みを、少
なくとも私よりも知っていたにも関わらず、解決しようとしなかった。そんな男に、なんの希望があると言うのか?いく
ら恋をする乙女でも、これぐらいの人間を見極める分別はあると思うよ?」
「しかし、実際に、彼女は加藤さんにしか、助けを求めなかったように思われますが」
「それはね、英司さんなら、聞いても何もしないだろうと分かっていたからではないか?都合の良い聞き手ではあった。
私なんかに話したら、ことはあのままでは済まなかった。ユラには、それがますます事態を悪い方に転がせると思えただ
ろう。だから、私ではなく、英司さんを選んだ」
「実の姉の、サラさんの方は?彼女は、由良姫の事情を把握していると思われますか?」
「それはどうだろうね。サラは確かに忙しかった。しかし、大した役には立たないと思えるような本を読むぐらいの暇は
あった。物理的に、妹のことに構ってあげられないほどではなかった。そして、昔はともかくとして、今や彼女ほど力を
持っている人間がこの中には居ない。つまり、サラはしようと思えば、妹のことを守ることができたと思う。なのに、彼
女は、しなかった。そして、彼女があの荻原博子が協力相手として認めるほどの賢い人間でもあるのだよ?先ほど言い忘
れたのだが、荻原博子を留めることができたのは、やはりサラ個人のマンパワーだと思うのだよ。和ノ宮にはそれなりの
力があるが、この広い世の中では、決して絶対的ではない。彼にとっての最良の選択肢だとは思えない。なのに、サラと
なら上手くやって行けると彼が判断した。そんなサラが、こんなにも間近に居たユラの事情が把握できなかったほど、間
抜けだとは思えないのだよ。だから、私の私見を言わせれば、サラは意図的にユラをそのままにさせたと思う。サラは昔
からそうだった。して、こんな冷酷極まりない人間と、私がなぜ絶交しようと思わなかったことが、不思議に思わないの
か?ここのところに、やはり理解のできる面があるからだよ。つまり、サラは姉だからこそ、同じ遺伝子を持っているユ
ラの強さを信じていると思う。英司さんはセンチメンタリストだから、ユラのことをか弱い女の子だと決めつけて、その
ように印象づけて私たちに話した。ところが、少なくとも、私にはそう見えなかった。ユラに限らず、誰にだって弱い一
面はあるかもしれない。しかしそれがその人間の全体的な行動に影響がなければ、私たちは客観的に、その人のことを強
い人間だと認識しなければならない。そうではないか?ユラは実際に1人でやってこれた。その力もあったし、誇りもあ
ったと思う。英司さんのように、一方的に「救えなかった」と決めつけるのは、身勝手だ。ユラは実際に由良姫として成
功した。それが彼女に合う生き方だったと、誰が否定できるか?瀧本修と英司さんぐらいだろう?だから、私はね、ユラ
を信じて、自由を与えたサラの判断に怒る筋合いがなかったのだよ。こんなことが、起こるまではね」
「なるほど、詰まるところ、由良姫の求めていた、慈愛、救いというのは、他力ではなくて、自らの力で切り開く道だと、
貴女は思われるのですね?」
「そうだな。私はそのように感じたからこそ、彼女の意思に従って、陰で彼女を支えることしかできなかったのだと思う」
「なるほど、ということで、「リアル・ワールド」を描いた頃の由良姫の人物像が、殆ど整って来たと思います。残虐、
摂理、慈愛の3人の女神がそれぞれ何を指していたかが、ほぼ判明しました。して、その後の変化が気になりますね。一
度、由良姫の作品を時系列順で並べて見ましょうか」
テープレコーダ(落書き) 13歳
リアル・ワールド 19歳 サラが渡米 ユラが一人暮らし
ピエロの絵 21歳 瀧本修がプロポーズ
天上につながるスカーレス 22歳
烏の国 25歳 サラ帰国、荻原博子と結婚
蒼き枝垂れ桜 25歳 野口守弘が現れる
アーシャ夫人 27歳
火の中の女 27歳 加藤英司と婚約発表
「絵の発表に伴う大きな出来事は、ざっとこんな感じですか?」
「上野伽椰子さんが現れたのも、だいたいはサラが帰って来た年だったと思う」
「なるほど、つまり、3年前、烏の国が描かれるときまでの由良姫の心理状況は、だいたい自分たちがいま把握している
物だと理解してよろしいですね?」
「だと思うね。問題は、その後だ」
「そうですね。その後を紐解くのには、まだ視点が足りないと思います。上野伽椰子さんをはじめとして、私たちはこれ
から、最近の由良姫について、研究しなければなりません」
「わかった。上野さんと連絡を取ってみるよ」
「ところで典子様。今一度、現場の再調査をして見ませんか?由良姫の最近を分かるためには、やはり、彼女のアトリエ
を調べてみる価値はあると思いますが」
「そうだな。では、さっそく明日にでも行くとしよう」
典子は考える。ごめんよ、ユラ。人類の敵を滅ぼすためには、私は貴女の全てを知らなければならないようだ。貴女と
の約束は、破る。
事務所に帰ったあと、敏光はメモにこのように書いた。
瀧本修は和ノ宮の内部に動機があるとほのめかした。典子は外部犯の可能性を指摘した。加藤英司は過去にあったこと
に注目した。しかしどうも、由良姫を取り囲んでいるこのコミュニティの中も穏やかではない。