表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編

 湯木谷と会わなくなってから一週間。夜のバイトはその日の内に辞め、念の為にマンションも引き払った。

 これで、完全に湯木谷との接点は失われた。

 けれど佐和の心はまだズキズキと痛み、ふと気が緩めば涙が滲みそうになる。それでも、佐和はまだ涙を流さなかった。

 本当はめちゃくちゃに泣いて、泣いて、泣いて…全てを忘れてしまいたかった。でも、そうしてしまうと、湯木谷との事が完全に過去になってしまう。それがとても嫌だった。忘れると決めたのに、まだ心は揺れている。

井沢いざわくん、悪いけど、コレを届けて来てくれないか?」

 申し訳なさそうに、小柄でいつも泣きそうな顔をした社長が佐和を呼んだ。佐和が昼間勤めているのは小さな印刷会社で、社長他、社員が数名の小さな会社だった。

「私がですか?」

 不思議そうに尋ねる佐和に対し、社長は更に泣きそうに顔を歪めて頼み込む。

「悪いんだが急に入った注文で、急ぎなんだ。時間が時間だし、私はこれから出なければならないんだよ。他の者も今日に限って皆、出払ってしまってね。キミしかいないんだ。場所はこのメモに書いてあるから、よろしく頼むよ。帰りは直帰で構わないから…」

 佐和はじっと机に向かっているより、少し表に出たほうが良いと思った。にっこりと微笑んで社長の手元から、小さな紙袋とメモを受け取った。

「分かりました。行って来ます」

 メモに書かれているのは、某有名大学の教授の名前。そういえば、社長はこの教授と友達であることを自慢していた。いつもは他の印刷会社に頼んでいるらしいのだが、急に枚数が入用になった時にこうして頼まれる事があるようだ。

 佐和はさっさと机を整理すると、会社を出た。小さな雑居ビルから一歩足を踏み出すと、朝には無かったどんよりと暗い雲が、空を覆っていた。それこそ今にも雨が降りそうだ。

 今朝見た天気予報では雨が降るとは言っていなかったので、傘を持たずに家を出ている。置き傘は会社の机の中だし、今更取りに行くのも面倒だ。佐和は仕方なく足早に駅に向かうと電車に乗り込み、目的地へと急いだ。

 電車の窓を流れる景色をぼんやり眺める。

 陰鬱に重く垂れ込める雲は、佐和の心を一層暗くした。

 もしかしたら、私は後悔しているのかもしれない。あの時、黙って部屋を後にした事を…あの時、向かい合えなかった事を…。

 重く沈んだ気持ちのまま、大学の受付を通り目的の場所へと向かう。

 校内に足を踏み入れれば、若く希望に溢れた学生たちが賑やかに通り過ぎる。佐和はその姿を横目で眺め、溜め息を大きく一つ吐いた。

 私は…いつからこんなに臆病になったのだろう?昔はあんなに無鉄砲で、無邪気に人を好きになれたのに、今ではその人を失うのが怖くて直ぐに逃げ出してしまう。

 佐和にとって、ただ好きなだけで誰かと一緒に居られる時間ときはもう過ぎてしまったのだ。慎重に、間違えないように、傷付かない様に…もう、全力でぶつかってボロボロになる様な事はしたくない。

 いつの間にか、佐和は大人の社会により適合して生きて行く為に、表面の取り繕った自分を演じることに慣れきってしまっていた。

 作り笑顔、当たり障りの無い会話、無難な行動…。ほら、今だって一面識の無い人と問題なく対応できる。

「……それでは、失礼致します」

 そう笑顔で目的の教授の下を去った後、佐和はすっかり疲れ切っていた。

 初めて会う人にはいつもの何倍も気を使う。今は只でさえ気持ちが疲れているのに、追い討ちを掛けた様なものだ。

 引き受けるんじゃなかったかな?と思いながら、気が抜けたように校内をぼんやりと歩いていると、何時しか知らない所に迷い込んでしまっていた。

 佐和は慌てて周囲を見渡す。ココまで何処をどう通って来たのか、まったく分からない。ココは何処なのだろう?眼前には人気の無い古ぼけた静かな廊下が伸びている。

 急にとてつもない心細さと、不安感に襲われた。胸の前に両手を合わせ、おろおろと目を泳がせる。まるで出られない迷路に閉じ込められた気分だ。

「どうしよう…」

 シンと静まり返った細長い空間。

 窓の外を見やると全く手入れがされていないのか、伸び放題になった草木が、暗く垂れ込める雲によって更に不気味な雰囲気を帯びている。

 佐和は怖くて泣きそうになっていた。するとその時、天の救いか背後から声を掛けられた。

「どうしたの?何処の学部の子?」

 佐和は飛び上がる程驚いたが、嬉しくなり急いでその人物へと向き直った。

 学生と思われたのはちょっとガッカリだが、佐和は童顔で背が低いので良く学生に間違われる。本当は今年で二十七になるのだが…。

「あの、すいません…!私、迷っちゃって、出口を教え…て…」

 言葉が途中で回れ右をして、口の中に帰って行ってしまう。

 相手も豆鉄砲を食らった鳩の様に大きく目を見開き、佐和を言葉無く見詰めていた。

 佐和の視線の先…そこに立っていたのは湯木谷だった。

 たった一週間逢わなかっただけなのに、無精ひげが伸び、少しやつれた様に見えた。

「ミナ…」

 信じられない、といった表情でポツリと湯木谷が佐和を呼んだ。すると、その声に驚いた佐和は数歩後ずさり、弾かれた様にその場から逃げ出した。

「まって、ミナちゃん、待って!!」

 待てるわけなんか、無い。

 そう佐和は心の中で叫んだ。逃げたかった。何処か遠く、何処でもいい、湯木谷の声が聞こえない場所へ、隠れたかった。

 夢中で廊下を慌ただしく走り、手近にあったドアから表へ飛び出す。そこへポツリと空から大きな雨粒が、佐和の顔に落ちて来た。

「まって!話を聞いてくれ!!」

 どんなに早く走っても、佐和より湯木谷の方がずっと早い。あっと言う間に追いつかれ、佐和の腕が湯木谷の大きな手に掴まれる。

「いや…!放して、痛い、湯木谷さん、手、痛いよ…!」

 佐和は開いてる方の手でめちゃくちゃに湯木谷を打った。けれど、湯木谷は手を放すどころか、その手を逆に掴み取る。

「駄目だ!放したら、また逃げるに決まってる!お願いだ、ちゃんと話を聞いてくれ!!」

「いや、聞きたくない!いや、いやよ…お願い、放して…はなしてよぉぉ…」

 佐和はその場にガクリと膝を落として泣き出した。それと同時に、空からは激しい雨が降り出す。

 佐和の両腕を掴んだまま、湯木谷は今まで見た事も無い程に悲しい顔をしていた。ひょっとしたら、泣いているのかもしれない。

「なんで…どうして…何も言わないで消えたりしたんだ…!探して、探して、探して探して探して探して!!ずっと、探して!!ミナちゃんの名前も、住所も、何もかも知らない自分が苛立たしくて!俺は、俺は…!!」

 湯木谷はそこで言葉に詰まった。何を言ったら良いのか分からなかった。どう言えば、気持ちが伝わるのか分からなかった。

 激しい雨が二人を打ちつける。

 佐和が涙と雨で濡れた顔を上げ、湯木谷に叫んだ。

「…だって、怖かったの!怖かったのよぉ!!湯木谷さん、優しいから、何時も優しくて、私に、優しくしてくれるから…!」

 唇をかみ締め、佐和はありったけの声を絞り出す。

「貴方にだけは、飽きられたくなかった!捨てられたくなかったの!!…もしそうなったら、そうなったら…きっと私、生きていけない…生きていけない…から……!」

 佐和は必死に言葉を繋いだ。いっそこのまま、雨と共に流れ落ちて消えてしまいたい…。

 雨に濡れ、小さく震えるそんな佐和の姿が湯木谷の心を激しく揺さぶった。

 湯木谷は言葉で伝えられない自分がもどかしくて、歯痒くて、とにかく何かを伝えたくて、乱暴に佐和の体を引き寄せて抱き締めた。

「……もう、どこにも行かないでくれ」

 湯木谷の消え入りそうな小さな声が、佐和の耳元で囁かれる。

 これは現実なのか夢なのか…。佐和は湯木谷の言葉に眩暈を覚えるほどの喜びを感じた。そして確かめるように、佐和はおずおずと湯木谷の服の裾を掴む。

 遠回りして、ようやく本心を知る事が出来た二人。そして、その二人の上に降り注ぐ冷たい雨はまだ止まない。

 けれど、遠くの空には小さく青空が覗き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ